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	<title>コーヒー歴史年表 - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-04-29T23:56:54Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC&amp;diff=49912</id>
		<title>イル・ジョルナーレ</title>
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		<updated>2026-04-26T15:53:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;「イル・ジョルナーレ」 Il Giornale　開業：&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1982年「[[スターバックス]]」に入社した[[ハワード・シュルツ]] Howard Schultz は、1983年の出張の際、イタリアのバール Bar 文化（シュルツはバールではなくエスプレッソ・バー、コーヒー・スタンドと表記している）に魅了された。顧客との絆を重視し、家庭的なくつろぎをもたらし、交流の場としても機能するエスプレッソ・バーの文化をアメリカに持ち帰りたいと考えたのだ。しかし、「[[スターバックス]]」でエスプレッソ・バーを展開すべきだとの提案は、他の役員からの賛同を得ることはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは「[[スターバックス]]」を退職し、自らエスプレッソ・バー　「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開を決意して、1986年4月8日に1号店を開業した。場所は当時シアトルで最も高層の新築オフィスビルである「コロンビア・センター」  の１階入り口付近であり、店名はイタリア最大の新聞名「イル・ジョルナーレ（毎日という意味）」に由来している。当初は本場のイタリアン・エスプレッソ・バーを忠実に再現したが、少しずつアメリカ風に改善をして、開業半年後には一日1000人が来店する超繁盛店になった。「イル・ジョルナーレ」は1986年10月にシアトル・トラストタワーに２号店、1987年4月にカナダのバンクーバーに３号店を出店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　勢いがある「イル・ジョルナーレ」は、1987年に「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」との合併で混沌としていた「[[スターバックス]]」の一部資産を買収し、ここに「新生スターバックス」が誕生することになった。なお、「イル・ジョルナーレ」の1号店の場所では、現在「スターバックス、コロンビア・センター店」が営業している。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%84&amp;diff=49911</id>
		<title>ハワード・シュルツ</title>
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		<updated>2026-04-26T15:50:17Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ハワード・シュルツ   Howard  D Schultz：&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1953年～　アメリカの実業家。1986年～2000年、2008年～2017年、スターバックスの会長兼最高経営責任者（CEO）、2022年～2023年暫定CEO。&lt;br /&gt;
　シュルツはドイツ系ユダヤ人の両親のもと、ニューヨークのブルックリンで生まれた。幼少期は経済的に恵まれていなかったが、1975年にノーザンミシガン大学 Northern Michigan University を卒業後、ニューヨークのゼロックス社のセールスマンに、のちにスウェーデンの台所用品メーカーのハマープラスト Hammarplast 社のアメリカ子会社のゼネラルマネージャーに就任した。この時に「[[スターバックス]]」のコーヒーと出会った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　品質の高いコーヒー豆を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーに感化されたシュルツは、ニューヨークでの将来を約束された地位を捨てて、シアトルの小さな会社「スターバックス」への入社を決意した。当初はシュルツの革新的な考えに戸惑っていた経営者たちとの話し合いを重ね、1982年シュルツは「スターバックス」で働き始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1983年出張先のミラノで出会ったバール Bar（エスプレッソ・バー）文化に魅了されて、エスプレッソ・バーを「スターバックス]の名でアメリカ中に展開したいと考えたが、他の役員の賛同を得ることができなかった。シュルツはスターバックスを退社して、1986年エスプレッソ・バー「[[イル・ジョルナーレ]] Il Giornale」の展開に乗り出した。（1986年「イル・ジョルナーレ」開業を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同年さらなる転機が訪れた。「スターバックス」が1984年に併合した「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」を残して、残りの資産の売却を決断したのである。シュルツは「スターバックス」のコーヒー焙煎卸・小売り事業と「イル・ジョルナーレ」のエスプレッソ・バー事業は完全に補えあえると判断して、「スターバックス」の買収を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1987年８月「[[イル・ジョルナーレ]]」は「[[スターバックス]]」を買収し、ここに2024年現在では、世界80か国以上、店舗数4万軒を超える世界最大のカフェ・チェーン「スターバックス・コーポレーション」が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは現在でも、「スターバックス・コーポレーション」の名誉会長として、実業家として活躍しているほか、民主党系の政治的活動、退役軍人の支援、若者の失業対策の財団などの活動をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                    　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9&amp;diff=49910</id>
		<title>スターバックス</title>
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		<updated>2026-04-26T15:43:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;「スターバックス」 Starbucks　開業：&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界80か国以上で４万軒（2024年現在）を超える店舗を持つ世界最大のコーヒーチェーン「スターバックス」の最初の店は、1971年3月30日アメリカのシアトルで、良質のコーヒー豆やコーヒー器具を販売する小売店「スターバックス コーヒー ティー アンド スパイス　Starbucks Coffee, Tea &amp;amp; Spices」という店名で開業した。場所はシアトルのウエスタン通りで、後にパイクプレイスマーケットへ移転した。創業店は移転とともに閉店して、現在は名実ともにパイクプレイス店が１号店として観光客が行列をなす聖地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「スターバックス」の創業者は、ジェリー・ボールドウィン Jerry Baldwin、ゼブ・シーグル Zev Siegl、ゴードン・ボウカー Gordon Bowker の３人である。ともにカリフォルニア州バークレーにある「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」の良質のアラビカ種のコーヒー豆を深煎りにしたコーヒーに魅了されていた。彼らは、[[アルフレッド・ピート]]にコーヒー焙煎技術をはじめとするコーヒービジネスのいろはを教わり、自分たちでコーヒー豆とコーヒー器具を販売する店を開業することにした。店名はシアトル郊外のレーニア山 Mt. Rainier 近くの鉱石採掘場スターボ Starbo と、アメリカの小説『白鯨 』Moby-Dickの登場人物スターバック Starbuck の両方に由来している。またロゴマークはギリシア神話のセイレーン の美しい歌声に由来しており、多くの人々を魅了する存在でありたいという願いが込められた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:スタバ大西さん.jpg|サムネイル|338x338ピクセル|スターバックス　パイクプレイス店本会会員　大西文明さんのご友人　提供]]&lt;br /&gt;
「スターバックス」は、開業当初「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」からコーヒー豆を仕入れていたが、1972年にはコーヒー豆の焙煎も手掛け、1972年末には２号店を開業した。コーヒー生豆の流通販路を開拓し、コーヒー豆の輸入から焙煎、小売りの業績を着実に拡大していった。コーヒーの質を高めることが目的で、事業を拡大するつもりはないという創業者たちであったが、1981年にはシアトル市内に直営店5店と焙煎工場をもつ会社に成長し、良質のアラビカ種を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーの評判は高くなってきた。ただしこの時はまだ直営店で飲み物の販売はされておらず（試飲はできた）、コーヒー豆の焙煎と小売りが主であった。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E8%8C%B6%E3%80%81%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88&amp;diff=49896</id>
		<title>＊コラム：コーヒーハウスと茶、チョコレート</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E8%8C%B6%E3%80%81%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88&amp;diff=49896"/>
		<updated>2026-04-21T18:14:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
　コーヒーハウスでは、コーヒーだけではなく茶、チョコレートをはじめ様々な飲み物が提供されていた。1659年11月の新聞のコーヒーハウスに関する記事に、「コーヒーハウスでは、コーヒーと呼ばれるトルコの飲み物、茶と呼ばれる飲み物、チョコレート（これには栄養がある）という飲み物、が売られている。」とある。さらに、1675年に出されたチャールズ二世のコーヒーハウス禁止令にも、コーヒーだけではなく「コーヒー、チョコレート、シャーベット、または茶を売る店」とある。1660年の王政復古以前は、コーヒーハウスにおいてアルコール類の提供はなく、これ以降も、コーヒーが「二日酔いの特効薬である」という触れ込みで流行したためもあって、アルコール類の提供はあまりなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;　茶&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
　オランダ東インド会社によりヨーロッパに紹介された「茶」は、ロンドンでは、1657年にトーマス・ガーウェイが自身の「ギャラウェイズ」で販売・提供をして以降、徐々に広まった。17世紀初頭3000軒といわれるロンドンの多くのコーヒーハウスで茶が提供されている。特に「トワイニング紅茶」の創業者トーマス・トワイニングの「トムズ・コーヒーハウス」では、より高品質な茶の提供をしたという。なお、17世紀は緑茶が主流で、18世紀半ばになるとボヘア茶（武夷茶：半発酵茶）とコングー茶（工夫茶：発酵茶・紅茶）が主流となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;　チョコレート&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
　1650年代にはイギリスに「チョコレート」が紹介されている。1657年の「バブリック・アドヴァイザー」紙に、「ビショップ通りにチョコレートハウス開店」の新聞広告の掲載がある。その後、多くのコーヒーハウスで「チョコレート」が提供された。しかし、「チョコレート」はコーヒーより高価な飲み物であった。そこで高級な店を意識してか、また貴族階級や上流階級の心情（もともとチョコレートは、カトリック社会と宮廷から広まっていった）を意識してか、あえて「チョコレートハウス」と名乗る「コーヒーハウス」が存在した。トーリー党の人々が利用した「ココアトゥリー」や貴族の遊び人が集まった「ホワイツ」などがそれである。　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;その他の飲み物&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
　コーヒーハウスで提供された、他の飲み物にはシャーベット、サループsaloopなどがある。シャーベットは現在のような氷菓ではなく、氷水にバラ、レモン、スミレなどを加えた冷たい飲み物に近いものであった。サループは、クスノキ科の植物サッサフラスに砂糖を加えた飲み物であり、コーヒーよりも安価だった。              （小村嘉人）     &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=====  &#039;&#039;&#039;　参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers &#039;&#039; “ALL ABOUT COFFEE  Second Edition”&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫著　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介著　『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;nowiki&amp;gt;{{年表}}&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:コーヒーハウスと茶、チョコレート}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:コラム]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A1%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;diff=49830</id>
		<title>＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール</title>
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		<updated>2026-04-08T19:16:47Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;[コラム]　ウィーンのカフェ・コンセール（コンサートカフェ）&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ビーダーマイヤーの時代の前後は、家庭やサロンで小さな演奏会が開かれ、音楽が市民の身近となり、現在に続く「音楽の都」の始まりとなった。さらに、18世紀の終わりごろからカフェの広い店内や、店先、庭でコンサートが催されるカフェ・コンセール（コンサートカフェ）が生まれ、１９世紀中ごろには最盛期を迎えた。しかしこの時代のカフェは王政復古主義などの政治的ないろいろな制約を受けており、もしフランス革命の影響による政治不安がなければ、カフェ・コンセールも違う形で展開していたのかもしれない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　代表的なコンサートカフェ（カフェ・コンセール）を紹介する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ワーグナー  Cafe Wagner」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　レオポルトシュタット Leopoldstadt地区（ドナウ運河の北側でシュラーク橋（現在のシュヴェーデン橋）の近く）で、イグナーツ・ワーグナー Igunaz Wagnerが開業した宮殿のような豪華大型カフェ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;ユングリングのカフェ Cafe Jungllingu」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくレオポルトシュタット地区のカフェ。1803年にカフェ・サロンに改装し、庭とバルコニーを作り多くのコンサートが開催された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヴィーガントのカフェ Cafe Wiegand」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ケルントナー Kärntner門（現在の国立歌劇場近くにあった城壁の門）近くにあり、音楽愛好家が庭先で多くのコンサートを開催した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第一カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1789年にプラーター Prater（もとはハプスブルク家の狩場で、1873年のウィーン万博の会場になった。）で開業した３軒のカフェ・コンセールのひとつ。1814年にはベートーヴェン Ludwig van Beethovenが自身作曲のピアノ三重奏を演奏した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第二カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくプラーターの３軒のうちのひとつで、1844年にはヨハン・シュトラウス二世 Johann Strauss Ⅱが出演した。19世紀後半まで営業していた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ドムマイヤー Cafe Dommayer」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hietzinger Haupstr 1889.jpg|サムネイル|1889年の「カフェ・ドムマイヤー」Wikipedia 「Cafe Dommayer」（ドイツ語版）　より]]&lt;br /&gt;
　シェーンブルン宮殿 Schloss Schönbrunnの近くで1783年の開業。ヨハン・シュトラウス一世 Johann Strauss １やヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍し、1844年にヨハン・シュトラウス二世がデビューコンサートを開いた。カフェの経営者は次々に変わり改装がなされたが、外観や中庭はそのまま当時を偲ぶことができる、現存するカフェである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Dommayergasse 1, 1130 Wien） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヤーンの宮廷料理店」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1788年に開業したサロン付きの料理店で、ベートーヴェンやモーツァルト Wolfgang Amadeus Mozartが演奏した記録がある。1891年にカフェに業態変更し、現在も「カフェ・フラウエンフーバー Cafe Frauenhubaer」として営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Himmelpfortgasse 6, A-1010 Wien）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E7%99%BD%E9%8A%80%E9%A4%A8&amp;diff=49817</id>
		<title>カフェ・白銀館</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E7%99%BD%E9%8A%80%E9%A4%A8&amp;diff=49817"/>
		<updated>2026-03-31T15:16:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==「カフェ・白銀館 」 das silbernes Kaffeehaus　：==&lt;br /&gt;
　イグナーツ・ノイナー Ignaz Neunerが1800年ごろ開業したカフェを1808年に市の中心部、シュピーゲル通り Spiegelgasse とプランケン通り Plankengasseが交わる角に移転。当初は「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」と呼ばれていた。しかし1824年ノイナーは突如店を豪華に改造し、食器からドアノブ、衣装掛けの金具までのすべてを銀製品に変更した。店も「ダス・ズィルバーネス・カフェハウスdas silbernes Kaffeehaus（白銀館）」と呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
　政治的な言論統制の中で、作家をはじめ文化人には生きにくい世の中ではあったが、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようと「カフェ・白銀館」には多くの著名人が訪問して、この時代を代表する文学カフェとなった。詩人ニコラス・レーナウ Nikolaus Lenau、劇作家フランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzar、同フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimund、政治詩人アナスタージウス・グリューン Anastasius Grün 、劇作家イグナーツ・カステリ Ignaz Franz Castelli、作家ダインハルトシュタイン Johann Ludwig Dainhardstein らが常連であった。&lt;br /&gt;
1833年の再改装で銀製品は姿を消すが、作家たち知識人は留まり、「カフェ・白銀館」の名を押し上げた。ある時は論議を戦わせ、またある時はチェスやビリヤードに興じた。このカフェの二階にはチェス・ビリヤード専用の部屋があり、多数のビリヤード台はカフェの大きな収入源であった。&lt;br /&gt;
1846年二代目店主ノイナーの死後、文化人・芸術家は徐々に「カフェ・白銀館」から離散した。世の中では、政治に無関心の市民にもリベラリズムが胎動し、カフェの談義にも、反メッテルニヒ体制のものが増えていき、1848年の三月革命・ウィーン会議後のヨーロッパ秩序の崩壊で、ビーダーマイヤー時代は終焉をむかえた。この時代を代表した文学カフェ「カフェ・白銀館」は1855年に閉店した。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>カフェ・白銀館</title>
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		<updated>2026-03-31T15:15:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==「カフェ・白銀館 」 das silbernes Kaffeehaus　：==&lt;br /&gt;
　イグナーツ・ノイナー Ignaz Neunerが1800年ごろ開業したカフェを1808年に市の中心部、シュピーゲル通り Spiegelgasse とプランケン通り Plankengasseが交わる角に移転。当初は「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」と呼ばれていた。しかし1824年ノイナーは突如店を豪華に改造し、食器からドアノブ、衣装掛けの金具までのすべてを銀製品に変更した。店も「ダス・ズィルバーネス・カフェハウスdas silbernes Kaffeehaus（白銀館）」と呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
　政治的な言論統制の中で、作家をはじめ文化人には生きにくい世の中ではあったが、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようと「カフェ・白銀館」には多くの著名人が訪問して、この時代を代表する文学カフェとなった。詩人ニコラス・レーナウ Nikolaus Lenau、劇作家フランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzar、同フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimund、政治詩人アナスタージウス・グリューン Anastasius Grün 、劇作家イグナーツ・カステリ Ignaz Franz Castelli、作家ダインハルトシュタイン Johann Ludwig Dainhardstein らが常連であった。&lt;br /&gt;
1833年の再改装で銀製品は姿を消すが、作家たち知識人は留まり、「カフェ・白銀館」の名を押し上げた。ある時は論議を戦わせ、またある時はチェスやビリヤードに興じた。このカフェの二階にはチェス・ビリヤード専用の部屋があり、多数のビリヤード台はカフェの大きな収入源であった。&lt;br /&gt;
1846年二代目店主ノイナーの死後、文化人・芸術家は徐々に「カフェ・白銀館」から離散した。世の中では、政治に無関心の市民にもリベラリズムが胎動し、カフェの談義にも、反メッテルニヒ体制のものが増えていき、1848年の三月革命・ウィーン会議後のヨーロッパ秩序の崩壊で、ビーダーマイヤー時代は終焉をむかえた。この時代を代表した文学カフェ「カフェ・白銀館」は1855年に閉店した。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49815</id>
		<title>＊コラム：ウィーンの文学カフェ</title>
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		<updated>2026-03-31T15:12:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==[コラム]　ウィーンの文学カフェ== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーンと「文学カフェ」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ヨーロッパ諸国では、歴史に名を残す名カフェがそれぞれの時代に存在した。カフェに集った人々は一息つくように、暇をつぶして、書き物をしたり、新聞や雑誌を読み漁ったり、商談をしたり、また論議をしたりしていた。カフェという空間は静かな熱気であふれていて、芸術や文学などの文化を育み、時には政治の歴史的転換点となる舞台ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　特に作家、文学者、ジャーナリスト達はカフェという空間の中で、人との出会いを求めて、談笑してさらに議論を戦わせて自身を深めていった。ある作家はここで作品を仕上げたこともあった。このような文化人が集ったカフェが「文学カフェ」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　昨今を問わずウィーンの人々はよくカフェを利用する。「ウィーンほど、カフェが時代に食い込み、洗練され人々に影響を及ぼした都市はほかにない。（ヴォルフガング・ユンガー著　『カフェハウスの文化史』　より）」といわれるほどウィーンの人々とカフェとの関連は深い。そしてこのウィーンでも、文化人たちは時代ごとの名「文学カフェ」を築いた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーン最初の文学カフェ「カフェ・クラーマー」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ウィーンで最初の文学カフェといわれている「カフェ・クラーマー」は18世紀後半に誕生した。啓蒙主義思想の影響を受けて数々の近代化政策を行った皇帝ヨーゼフ二世（在位:1765年-1790年 マリア・テレジアの子でマリー・アントワネットの兄）の時代である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「&#039;&#039;&#039;カフェ・クラーマー Café Kramer&#039;&#039;&#039;」：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1720年にヤーコブ・クラーマー Jacobs Kramer が市の中心部シュロッサー小路 Schlosser -gasseで開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1771年に3代目店主のヘルトル夫妻は、新聞や雑誌に対しての検閲の規制緩和政策を察知して、店内に新聞・雑誌を数多く常備して多くの学者や文化人を引き寄せた。店は穴倉のような空間であり、席も20ほどしかなかったが、蠟燭の灯りの中、常連客が集う読書サロンとなった。薄暗い空間は文人たちには居心地が良かったようであり、文学者コルネリウス・ヘルマン・フォン・アイレンホフ Cornelius Herumann von Ayrenhoff、オーストリア帝国国歌の作詞者ロレンツ・レオポルト・ハシュカ Lorenz Leopold Haschka、風刺作家ヨハン・ラウテンシュトラウフ Johann Rautenstrauchなどのヨーゼフィニスムス（ヨゼフ二世の政策や思想）に共感する人々が集った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、1791年皇帝フランツ二世（在位:1792年-1806年 最後の神聖ローマ皇帝、初代オーストリア皇帝 在位：1804年-1835年 も兼ねた）の時代になると、フランス革命思想の流入を防ぐために再び言論統制が厳しくなり、新聞や雑誌の検閲が強化されて「カフェ・クラーマー」を支えた人々も店を去っていった。店は人手に渡り改装をして新しい客を得ようとしたが文学カフェとしての機能はなくなった。都市の改造により1865年ごろにはカフェの建物自体が取り壊された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ビーダーマイヤー時代の文学カフェ「カフェ・白銀館」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　&#039;&#039;&#039;18世紀末から19世紀初頭にかけては、ナポレオン軍との戦いや大陸封鎖などの政局が不安定な時期であり、人々が集うカフェに対しての規制が強化された。そのためにカフェでは人々が自由に論議する機会が減った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1813年王政復古を推進するメッテルニヒ体制になり、ビーダーマイヤー時代になると、カフェでも刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになったが、「政治への無関心」「現実逃避」の風潮の中で、人々は「何もしない安心」を感じていた可能性がある。この時代の代表的文学カフェが「[[カフェ・白銀館]]」である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1800年ごろに開業した「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」を、店主のイグナーツ・ノイナーは、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようとして、店内を豪華に改造し、銀製品を多く用いた。店も「ズィルバーネス・カフェハウス das silbernes Kaffeehaus 」と呼ばれて、多くの著名人が常連客となり、この時代を代表する「文学カフェ」となった。しかし、店主ノイナーの死後は、文化人・芸術家達は徐々にこの店から離れてしまい、ビーダーマイヤー時代終焉の後の1855年に「カフェ・白銀館」は閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　（詳細はリンク先解説文「カフェ・白銀館」を参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;19世紀末の「芸術カフェ」繁栄の時代&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　19世紀中ごろの政治が激しく変動する中で「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」が開業した。1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国の時代になり社会が落ち着きを取り戻すと、このカフェに作家や文化人が集まり始めた。1890年代に入り19世紀末の芸術カフェが花咲く時代になると、文学運動「若きウィーン」の作家たちを始め、多くの文学者や芸術家が集まり「文学カフェ」の様相を呈し、世紀末のウィーンの芸術運動の中心になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1897年にウィーン市の近代化計画のため「カフェ・グリエンシュタイドル」は閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後継となったカフェが「[[カフェ・ツェントラル]]」である。1876年の開業当初からこの大型の豪華カフェには文学者や画家が集っていたが、「カフェ・グリエンシュタイドル」のからのメンバーも加わり、19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術活動の拠点になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1920年ごろになり「カフェ・ツェントラル」の常連客達が相次いでこの世を去り、文学カフェとしての勢いが失われると、文学カフェの名は向かいにあったカフェ「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」に引き継がれた。若い作家や芸術家が集まり、また時代の流れを象徴するように女性客が増えた。さらに移住してきたユダヤ系作家が常連になった。しかし、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合により多くのユダヤ系文化人は国外に亡命して、文学カフェの役割が終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　（上記の３店の詳細は、年表の1847年「カフェ・グリエンシュタイドル」開業、1876年「カフェ・ツェントラル」開業、1918年「カフェ・ヘレンホーフ」開業のリンク先解説文を参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　&#039;&#039;&#039;現在につながる文学カフェ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一次世界大戦の敗戦、ナチス・ドイツによる併合とウィーンは政治不安の時代を迎えたが、その混乱の中、1939年に小さな薄暗いカフェ「カフェ・ハヴェルカ」が誕生した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「カフェ・ハヴェルカ Café Hawelka」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　&#039;&#039;&#039;ボヘミア出身のハヴェルカ夫妻が市の中心部ドロテーア小路 Dorotheergasseで開業。ただし、折からの第二次世界大戦の勃発で夫が出征し、当初は婦人一人で店を切り盛りし、本格的にカフェが営業し始めたのは戦後になってからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　店に転機が訪れたのは1950年代入ってからであり、若い作家や芸術家が出入りを始めて、店の評判が瞬く間に広がった。ドイツ人作家ギュンター・グラス Günter Grass 、アメリカ人小説家ヘンリー・ミラー Henry Valentine Miller も訪れ、「現代版文学カフェ」となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　三代目となった現在もカフェの人気は衰えず、文化人にとっては特別な空間となっており、夜遅くまで論議を交わすジャーナリストたちの姿が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Dorotheergasse 6 , 1010 Wien）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書, 1980&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店, 1996&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン著『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳大修館書店, 2000&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・田部井朋見著『ウィーンのカフェハウス』東京書籍，2007年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49814</id>
		<title>＊コラム：ウィーンの文学カフェ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49814"/>
		<updated>2026-03-31T15:09:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==[コラム]　ウィーンの文学カフェ== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーンと「文学カフェ」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ヨーロッパ諸国では、歴史に名を残す名カフェがそれぞれの時代に存在した。カフェに集った人々は一息つくように、暇をつぶして、書き物をしたり、新聞や雑誌を読み漁ったり、商談をしたり、また論議をしたりしていた。カフェという空間は静かな熱気であふれていて、芸術や文学などの文化を育み、時には政治の歴史的転換点となる舞台ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　特に作家、文学者、ジャーナリスト達はカフェという空間の中で、人との出会いを求めて、談笑してさらに議論を戦わせて自身を深めていった。ある作家はここで作品を仕上げたこともあった。このような文化人が集ったカフェが「文学カフェ」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　昨今を問わずウィーンの人々はよくカフェを利用する。「ウィーンほど、カフェが時代に食い込み、洗練され人々に影響を及ぼした都市はほかにない。（ヴォルフガング・ユンガー著　『カフェハウスの文化史』　より）」といわれるほどウィーンの人々とカフェとの関連は深い。そしてこのウィーンでも、文化人たちは時代ごとの名「文学カフェ」を築いた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーン最初の文学カフェ「カフェ・クラーマー」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ウィーンで最初の文学カフェといわれている「カフェ・クラーマー」は18世紀後半に誕生した。啓蒙主義思想の影響を受けて数々の近代化政策を行った皇帝ヨーゼフ二世（在位:1765年-1790年 マリア・テレジアの子でマリー・アントワネットの兄）の時代である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「&#039;&#039;&#039;カフェ・クラーマー Café Kramer&#039;&#039;&#039;」：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1720年にヤーコブ・クラーマー Jacobs Kramer が市の中心部シュロッサー小路 Schlosser -gasseで開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1771年に3代目店主のヘルトル夫妻は、新聞や雑誌に対しての検閲の規制緩和政策を察知して、店内に新聞・雑誌を数多く常備して多くの学者や文化人を引き寄せた。店は穴倉のような空間であり、席も20ほどしかなかったが、蠟燭の灯りの中、常連客が集う読書サロンとなった。薄暗い空間は文人たちには居心地が良かったようであり、文学者コルネリウス・ヘルマン・フォン・アイレンホフ Cornelius Herumann von Ayrenhoff、オーストリア帝国国歌の作詞者ロレンツ・レオポルト・ハシュカ Lorenz Leopold Haschka、風刺作家ヨハン・ラウテンシュトラウフ Johann Rautenstrauchなどのヨーゼフィニスムス（ヨゼフ二世の政策や思想）に共感する人々が集った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、1791年皇帝フランツ二世（在位:1792年-1806年 最後の神聖ローマ皇帝、初代オーストリア皇帝 在位：1804年-1835年 も兼ねた）の時代になると、フランス革命思想の流入を防ぐために再び言論統制が厳しくなり、新聞や雑誌の検閲が強化されて「カフェ・クラーマー」を支えた人々も店を去っていった。店は人手に渡り改装をして新しい客を得ようとしたが文学カフェとしての機能はなくなった。都市の改造により1865年ごろにはカフェの建物自体が取り壊された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ビーダーマイヤー時代の文学カフェ「カフェ・白銀館」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　&#039;&#039;&#039;18世紀末から19世紀初頭にかけては、ナポレオン軍との戦いや大陸封鎖などの政局が不安定な時期であり、人々が集うカフェに対しての規制が強化された。そのためにカフェでは人々が自由に論議する機会が減った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1813年王政復古を推進するメッテルニヒ体制になり、ビーダーマイヤー時代になると、カフェでも刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになったが、「政治への無関心」「現実逃避」の風潮の中で、人々は「何もしない安心」を感じていた可能性がある。この時代の代表的文学カフェが「カフェ・白銀館」である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1800年ごろに開業した「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」を、店主のイグナーツ・ノイナーは、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようとして、店内を豪華に改造し、銀製品を多く用いた。店も「ズィルバーネス・カフェハウス das silbernes Kaffeehaus 」と呼ばれて、多くの著名人が常連客となり、この時代を代表する「文学カフェ」となった。しかし、店主ノイナーの死後は、文化人・芸術家達は徐々にこの店から離れてしまい、ビーダーマイヤー時代終焉の後の1855年に「カフェ・白銀館」は閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　（詳細はリンク先解説文「カフェ・白銀館」を参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;19世紀末の「芸術カフェ」繁栄の時代&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　19世紀中ごろの政治が激しく変動する中で「カフェ・グリエンシュタイドル」が開業した。1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国の時代になり社会が落ち着きを取り戻すと、このカフェに作家や文化人が集まり始めた。1890年代に入り19世紀末の芸術カフェが花咲く時代になると、文学運動「若きウィーン」の作家たちを始め、多くの文学者や芸術家が集まり「文学カフェ」の様相を呈し、世紀末のウィーンの芸術運動の中心になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1897年にウィーン市の近代化計画のため「カフェ・グリエンシュタイドル」は閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後継となったカフェが「カフェ・ツェントラル」である。1876年の開業当初からこの大型の豪華カフェには文学者や画家が集っていたが、「カフェ・グリエンシュタイドル」のからのメンバーも加わり、19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術活動の拠点になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1920年ごろになり「カフェ・ツェントラル」の常連客達が相次いでこの世を去り、文学カフェとしての勢いが失われると、文学カフェの名は向かいにあったカフェ「カフェ・ヘレンホーフ」に引き継がれた。若い作家や芸術家が集まり、また時代の流れを象徴するように女性客が増えた。さらに移住してきたユダヤ系作家が常連になった。しかし、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合により多くのユダヤ系文化人は国外に亡命して、文学カフェの役割が終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　（上記の３店の詳細は、年表の1847年「カフェ・グリエンシュタイドル」開業、1876年「カフェ・ツェントラル」開業、1918年「カフェ・ヘレンホーフ」開業のリンク先解説文を参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　&#039;&#039;&#039;現在につながる文学カフェ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一次世界大戦の敗戦、ナチス・ドイツによる併合とウィーンは政治不安の時代を迎えたが、その混乱の中、1939年に小さな薄暗いカフェ「カフェ・ハヴェルカ」が誕生した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「カフェ・ハヴェルカ Café Hawelka」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　&#039;&#039;&#039;ボヘミア出身のハヴェルカ夫妻が市の中心部ドロテーア小路 Dorotheergasseで開業。ただし、折からの第二次世界大戦の勃発で夫が出征し、当初は婦人一人で店を切り盛りし、本格的にカフェが営業し始めたのは戦後になってからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　店に転機が訪れたのは1950年代入ってからであり、若い作家や芸術家が出入りを始めて、店の評判が瞬く間に広がった。ドイツ人作家ギュンター・グラス Günter Grass 、アメリカ人小説家ヘンリー・ミラー Henry Valentine Miller も訪れ、「現代版文学カフェ」となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　三代目となった現在もカフェの人気は衰えず、文化人にとっては特別な空間となっており、夜遅くまで論議を交わすジャーナリストたちの姿が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Dorotheergasse 6 , 1010 Wien）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書, 1980&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店, 1996&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン著『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳大修館書店, 2000&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・田部井朋見著『ウィーンのカフェハウス』東京書籍，2007年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49813</id>
		<title>＊コラム：ウィーンの文学カフェ</title>
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		<updated>2026-03-31T15:08:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: コラム　新規作成&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[コラム]　ウィーンの文学カフェ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーンと「文学カフェ」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ヨーロッパ諸国では、歴史に名を残す名カフェがそれぞれの時代に存在した。カフェに集った人々は一息つくように、暇をつぶして、書き物をしたり、新聞や雑誌を読み漁ったり、商談をしたり、また論議をしたりしていた。カフェという空間は静かな熱気であふれていて、芸術や文学などの文化を育み、時には政治の歴史的転換点となる舞台ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　特に作家、文学者、ジャーナリスト達はカフェという空間の中で、人との出会いを求めて、談笑してさらに議論を戦わせて自身を深めていった。ある作家はここで作品を仕上げたこともあった。このような文化人が集ったカフェが「文学カフェ」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　昨今を問わずウィーンの人々はよくカフェを利用する。「ウィーンほど、カフェが時代に食い込み、洗練され人々に影響を及ぼした都市はほかにない。（ヴォルフガング・ユンガー著　『カフェハウスの文化史』　より）」といわれるほどウィーンの人々とカフェとの関連は深い。そしてこのウィーンでも、文化人たちは時代ごとの名「文学カフェ」を築いた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーン最初の文学カフェ「カフェ・クラーマー」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ウィーンで最初の文学カフェといわれている「カフェ・クラーマー」は18世紀後半に誕生した。啓蒙主義思想の影響を受けて数々の近代化政策を行った皇帝ヨーゼフ二世（在位:1765年-1790年 マリア・テレジアの子でマリー・アントワネットの兄）の時代である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「&#039;&#039;&#039;カフェ・クラーマー Café Kramer&#039;&#039;&#039;」：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1720年にヤーコブ・クラーマー Jacobs Kramer が市の中心部シュロッサー小路 Schlosser -gasseで開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1771年に3代目店主のヘルトル夫妻は、新聞や雑誌に対しての検閲の規制緩和政策を察知して、店内に新聞・雑誌を数多く常備して多くの学者や文化人を引き寄せた。店は穴倉のような空間であり、席も20ほどしかなかったが、蠟燭の灯りの中、常連客が集う読書サロンとなった。薄暗い空間は文人たちには居心地が良かったようであり、文学者コルネリウス・ヘルマン・フォン・アイレンホフ Cornelius Herumann von Ayrenhoff、オーストリア帝国国歌の作詞者ロレンツ・レオポルト・ハシュカ Lorenz Leopold Haschka、風刺作家ヨハン・ラウテンシュトラウフ Johann Rautenstrauchなどのヨーゼフィニスムス（ヨゼフ二世の政策や思想）に共感する人々が集った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、1791年皇帝フランツ二世（在位:1792年-1806年 最後の神聖ローマ皇帝、初代オーストリア皇帝 在位：1804年-1835年 も兼ねた）の時代になると、フランス革命思想の流入を防ぐために再び言論統制が厳しくなり、新聞や雑誌の検閲が強化されて「カフェ・クラーマー」を支えた人々も店を去っていった。店は人手に渡り改装をして新しい客を得ようとしたが文学カフェとしての機能はなくなった。都市の改造により1865年ごろにはカフェの建物自体が取り壊された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ビーダーマイヤー時代の文学カフェ「カフェ・白銀館」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　&#039;&#039;&#039;18世紀末から19世紀初頭にかけては、ナポレオン軍との戦いや大陸封鎖などの政局が不安定な時期であり、人々が集うカフェに対しての規制が強化された。そのためにカフェでは人々が自由に論議する機会が減った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1813年王政復古を推進するメッテルニヒ体制になり、ビーダーマイヤー時代になると、カフェでも刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになったが、「政治への無関心」「現実逃避」の風潮の中で、人々は「何もしない安心」を感じていた可能性がある。この時代の代表的文学カフェが「カフェ・白銀館」である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1800年ごろに開業した「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」を、店主のイグナーツ・ノイナーは、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようとして、店内を豪華に改造し、銀製品を多く用いた。店も「ズィルバーネス・カフェハウス das silbernes Kaffeehaus 」と呼ばれて、多くの著名人が常連客となり、この時代を代表する「文学カフェ」となった。しかし、店主ノイナーの死後は、文化人・芸術家達は徐々にこの店から離れてしまい、ビーダーマイヤー時代終焉の後の1855年に「カフェ・白銀館」は閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　（詳細はリンク先解説文「カフェ・白銀館」を参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;19世紀末の「芸術カフェ」繁栄の時代&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　19世紀中ごろの政治が激しく変動する中で「カフェ・グリエンシュタイドル」が開業した。1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国の時代になり社会が落ち着きを取り戻すと、このカフェに作家や文化人が集まり始めた。1890年代に入り19世紀末の芸術カフェが花咲く時代になると、文学運動「若きウィーン」の作家たちを始め、多くの文学者や芸術家が集まり「文学カフェ」の様相を呈し、世紀末のウィーンの芸術運動の中心になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1897年にウィーン市の近代化計画のため「カフェ・グリエンシュタイドル」は閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後継となったカフェが「カフェ・ツェントラル」である。1876年の開業当初からこの大型の豪華カフェには文学者や画家が集っていたが、「カフェ・グリエンシュタイドル」のからのメンバーも加わり、19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術活動の拠点になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1920年ごろになり「カフェ・ツェントラル」の常連客達が相次いでこの世を去り、文学カフェとしての勢いが失われると、文学カフェの名は向かいにあったカフェ「カフェ・ヘレンホーフ」に引き継がれた。若い作家や芸術家が集まり、また時代の流れを象徴するように女性客が増えた。さらに移住してきたユダヤ系作家が常連になった。しかし、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合により多くのユダヤ系文化人は国外に亡命して、文学カフェの役割が終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　（上記の３店の詳細は、年表の1847年「カフェ・グリエンシュタイドル」開業、1876年「カフェ・ツェントラル」開業、1918年「カフェ・ヘレンホーフ」開業のリンク先解説文を参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　&#039;&#039;&#039;現在につながる文学カフェ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一次世界大戦の敗戦、ナチス・ドイツによる併合とウィーンは政治不安の時代を迎えたが、その混乱の中、1939年に小さな薄暗いカフェ「カフェ・ハヴェルカ」が誕生した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「カフェ・ハヴェルカ Café Hawelka」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　&#039;&#039;&#039;ボヘミア出身のハヴェルカ夫妻が市の中心部ドロテーア小路 Dorotheergasseで開業。ただし、折からの第二次世界大戦の勃発で夫が出征し、当初は婦人一人で店を切り盛りし、本格的にカフェが営業し始めたのは戦後になってからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　店に転機が訪れたのは1950年代入ってからであり、若い作家や芸術家が出入りを始めて、店の評判が瞬く間に広がった。ドイツ人作家ギュンター・グラス Günter Grass 、アメリカ人小説家ヘンリー・ミラー Henry Valentine Miller も訪れ、「現代版文学カフェ」となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　三代目となった現在もカフェの人気は衰えず、文化人にとっては特別な空間となっており、夜遅くまで論議を交わすジャーナリストたちの姿が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Dorotheergasse 6 , 1010 Wien）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書, 1980&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店, 1996&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン著『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳大修館書店, 2000&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・田部井朋見著『ウィーンのカフェハウス』東京書籍，2007年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC&amp;diff=49812</id>
		<title>イル・ジョルナーレ</title>
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		<updated>2026-03-28T16:27:38Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;「イル・ジョルナーレ」 Il Giornale　開業：&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1982年「スターバックス」に入社したハワード・シュルツ Howard Schultz は、1983年の出張の際、イタリアのバール Bar 文化（シュルツはバールではなくエスプレッソ・バー、コーヒー・スタンドと表記している）に魅了された。顧客との絆を重視し、家庭的なくつろぎをもたらし、交流の場としても機能するエスプレッソ・バーの文化をアメリカに持ち帰りたいと考えたのだ。しかし、「スターバックス」でエスプレッソ・バーを展開すべきだとの提案は、他の役員からの賛同を得ることはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは「スターバックス」を退職し、自らエスプレッソ・バー　「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開を決意して、1986年4月8日に1号店を開業した。場所は当時シアトルで最も高層の新築オフィスビルである「コロンビア・センター」  の１階入り口付近であり、店名はイタリア最大の新聞名「イル・ジョルナーレ（毎日という意味）」に由来している。当初は本場のイタリアン・エスプレッソ・バーを忠実に再現したが、少しずつアメリカ風に改善をして、開業半年後には一日1000人が来店する超繁盛店になった。「イル・ジョルナーレ」は1986年10月にシアトル・トラストタワーに２号店、1987年4月にカナダのバンクーバーに３号店を出店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　勢いがある「イル・ジョルナーレ」は、1987年に「ピーツ・コーヒー＆ティー」との合併で混沌としていた「スターバックス」の一部資産を買収し、ここに「新生スターバックス」が誕生することになった。なお、「イル・ジョルナーレ」の1号店の場所では、現在「スターバックス、コロンビア・センター店」が営業している。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC&amp;diff=49811</id>
		<title>イル・ジョルナーレ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC&amp;diff=49811"/>
		<updated>2026-03-28T16:26:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;「イル・ジョルナーレ」 Il Giornale　開業：&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1982年「スターバックス」に入社したハワード・シュルツ Howard Schultz は、1983年の出張の際、イタリアのバール Bar 文化（シュルツはバールではなくエスプレッソ・バー、コーヒー・スタンドと表記している）に魅了された。顧客との絆を重視し、家庭的なくつろぎをもたらし、交流の場としても機能するエスプレッソ・バーの文化をアメリカに持ち帰りたいと考えたのだ。しかし、「スターバックス」でエスプレッソ・バーを展開すべきだとの提案は、他の役員からの賛同を得ることはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは「スターバックス」を退職し、自らエスプレッソ・バー　「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開を決意して、1986年4月8日に1号店を開業した。場所は当時シアトルで最も高層の新築オフィスビルである「コロンビア・センター」  の１階入り口付近であり、店名はイタリア最大の新聞名「イル・ジョルナーレ（毎日という意味）」に由来している。当初は本場のイタリアン・エスプレッソ・バーを忠実に再現したが、少しずつアメリカ風に改善をして、開業半年後には一日1000人が来店する超繁盛店になった。「イル・ジョルナーレ」は1986年10月にシアトル・トラストタワーに２号店、1987年4月にカナダのバンクーバーに３号店を出店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　勢いがある「イル・ジョルナーレ」は、1987年に「ピーツ・コーヒー＆ティー」との合併で混沌としていた「スターバックス」の一部資産を買収し、ここに「新生スターバックス」が誕生することになった。なお、「イル・ジョルナーレ」の1号店の場所では、現在「スターバックス、コロンビア・センター店」が営業している。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%84&amp;diff=49810</id>
		<title>ハワード・シュルツ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%84&amp;diff=49810"/>
		<updated>2026-03-28T16:24:28Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ハワード・シュルツ   Howard  D Schultz：&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1953年～　アメリカの実業家。1986年～2000年、2008年～2017年、スターバックスの会長兼最高経営責任者（CEO）、2022年～2023年暫定CEO。&lt;br /&gt;
　シュルツはドイツ系ユダヤ人の両親のもと、ニューヨークのブルックリンで生まれた。幼少期は経済的に恵まれていなかったが、1975年にノーザンミシガン大学 Northern Michigan University を卒業後、ニューヨークのゼロックス社のセールスマンに、のちにスウェーデンの台所用品メーカーのハマープラスト Hammarplast 社のアメリカ子会社のゼネラルマネージャーに就任した。この時に「スターバックス」のコーヒーと出会った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　品質の高いコーヒー豆を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーに感化されたシュルツは、ニューヨークでの将来を約束された地位を捨てて、シアトルの小さな会社「スターバックス」への入社を決意した。当初はシュルツの革新的な考えに戸惑っていた経営者たちとの話し合いを重ね、1982年シュルツは「スターバックス」で働き始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1983年出張先のミラノで出会ったバール Bar（エスプレッソ・バー）文化に魅了されて、エスプレッソ・バーを「スターバックス」の名でアメリカ中に展開したいと考えたが、他の役員の賛同を得ることができなかった。シュルツはスターバックスを退社して、1986年エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開に乗り出した。（1986年「イル・ジョルナーレ」開業を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同年さらなる転機が訪れた。「スターバックス」が1984年に併合した「ピーツ・コーヒー＆ティー」を残して、残りの資産の売却を決断したのである。シュルツは「スターバックス」のコーヒー焙煎卸・小売り事業と「イル・ジョルナーレ」のエスプレッソ・バー事業は完全に補えあえると判断して、「スターバックス」の買収を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1987年８月「イル・ジョルナーレ」は「スターバックス」を買収し、ここに2024年現在では、世界80か国以上、店舗数4万軒を超える世界最大のカフェ・チェーン「スターバックス・コーポレーション」が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは現在でも、「スターバックス・コーポレーション」の名誉会長として、実業家として活躍しているほか、民主党系の政治的活動、退役軍人の支援、若者の失業対策の財団などの活動をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                    　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%84&amp;diff=49809</id>
		<title>ハワード・シュルツ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%84&amp;diff=49809"/>
		<updated>2026-03-28T16:23:40Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ハワード・シュルツ   Howard  D Schultz：&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1953年～　アメリカの実業家。1986年～2000年、2008年～2017年、スターバックスの会長兼最高経営責任者（CEO）、2022年～2023年暫定CEO。&lt;br /&gt;
　シュルツはドイツ系ユダヤ人の両親のもと、ニューヨークのブルックリンで生まれた。幼少期は経済的に恵まれていなかったが、1975年にノーザンミシガン大学 Northern Michigan University を卒業後、ニューヨークのゼロックス社のセールスマンに、のちにスウェーデンの台所用品メーカーのハマープラスト Hammarplast 社のアメリカ子会社のゼネラルマネージャーに就任した。この時に「スターバックス」のコーヒーと出会った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　品質の高いコーヒー豆を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーに感化されたシュルツは、ニューヨークでの将来を約束された地位を捨てて、シアトルの小さな会社「スターバックス」への入社を決意した。当初はシュルツの革新的な考えに戸惑っていた経営者たちとの話し合いを重ね、1982年シュルツは「スターバックス」で働き始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1983年出張先のミラノで出会ったバール Bar（エスプレッソ・バー）文化に魅了されて、エスプレッソ・バーを「スターバックス」の名でアメリカ中に展開したいと考えたが、他の役員の賛同を得ることができなかった。シュルツはスターバックスを退社して、1986年エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開に乗り出した。（1986年「イル・ジョルナーレ」開業を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同年さらなる転機が訪れた。「スターバックス」が1984年に併合した「ピーツ・コーヒー＆ティー」を残して、残りの資産の売却を決断したのである。シュルツは「スターバックス」のコーヒー焙煎卸・小売り事業と「イル・ジョルナーレ」のエスプレッソ・バー事業は完全に補えあえると判断して、「スターバックス」の買収を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1987年８月「イル・ジョルナーレ」は「スターバックス」を買収し、ここに2024年現在では、世界80か国以上、店舗数4万軒を超える世界最大のカフェ・チェーン「スターバックス・コーポレーション」が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは現在でも、「スターバックス・コーポレーション」の名誉会長として、実業家として活躍しているほか、民主党系の政治的活動、退役軍人の支援、若者の失業対策の財団などの活動をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                    　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%84&amp;diff=49808</id>
		<title>ハワード・シュルツ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ハワード・シュルツ   Howard  D Schultz：&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1953年～　アメリカの実業家。1986年～2000年、2008年～2017年、スターバックスの会長兼最高経営責任者（CEO）、2022年～2023年暫定CEO。&lt;br /&gt;
　シュルツはドイツ系ユダヤ人の両親のもと、ニューヨークのブルックリンで生まれた。幼少期は経済的に恵まれていなかったが、1975年にノーザンミシガン大学 Northern Michigan University を卒業後、ニューヨークのゼロックス社のセールスマンに、のちにスウェーデンの台所用品メーカーのハマープラスト Hammarplast 社のアメリカ子会社のゼネラルマネージャーに就任した。この時に「スターバックス」のコーヒーと出会った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　品質の高いコーヒー豆を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーに感化されたシュルツは、ニューヨークでの将来を約束された地位を捨てて、シアトルの小さな会社「スターバックス」への入社を決意した。当初はシュルツの革新的な考えに戸惑っていた経営者たちとの話し合いを重ね、1982年シュルツは「スターバックス」で働き始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1983年出張先のミラノで出会ったバール Bar（エスプレッソ・バー）文化に魅了されて、エスプレッソ・バーを「スターバックス」の名でアメリカ中に展開したいと考えたが、他の役員の賛同を得ることができなかった。シュルツはスターバックスを退社して、1986年エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開に乗り出した。（1986年「イル・ジョルナーレ」開業を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同年さらなる転機が訪れた。「スターバックス」が1984年に併合した「ピーツ・コーヒー＆ティー」を残して、残りの資産の売却を決断したのである。シュルツは「スターバックス」のコーヒー焙煎卸・小売り事業と「イル・ジョルナーレ」のエスプレッソ・バー事業は完全に補えあえると判断して、「スターバックス」の買収を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1987年８月「イル・ジョルナーレ」は「スターバックス」を買収し、ここに2024年現在では、世界80か国以上、店舗数4万軒を超える世界最大のカフェ・チェーン「スターバックス・コーポレーション」が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは現在でも、「スターバックス・コーポレーション」の名誉会長として、実業家として活躍しているほか、民主党系の政治的活動、退役軍人の支援、若者の失業対策の財団などの活動をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>ハワード・シュルツ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ハワード・シュルツ   Howard  D Schultz：&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1953年～　アメリカの実業家。1986年～2000年、2008年～2017年、スターバックスの会長兼最高経営責任者（CEO）、2022年～2023年暫定CEO。&lt;br /&gt;
　シュルツはドイツ系ユダヤ人の両親のもと、ニューヨークのブルックリンで生まれた。幼少期は経済的に恵まれていなかったが、1975年にノーザンミシガン大学 Northern Michigan University を卒業後、ニューヨークのゼロックス社のセールスマンに、のちにスウェーデンの台所用品メーカーのハマープラスト Hammarplast 社のアメリカ子会社のゼネラルマネージャーに就任した。この時に「スターバックス」のコーヒーと出会った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　品質の高いコーヒー豆を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーに感化されたシュルツは、ニューヨークでの将来を約束された地位を捨てて、シアトルの小さな会社「スターバックス」への入社を決意した。当初はシュルツの革新的な考えに戸惑っていた経営者たちとの話し合いを重ね、1982年シュルツは「スターバックス」で働き始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1983年出張先のミラノで出会ったバール Bar（エスプレッソ・バー）文化に魅了されて、エスプレッソ・バーを「スターバックス」の名でアメリカ中に展開したいと考えたが、他の役員の賛同を得ることができなかった。シュルツはスターバックスを退社して、1986年エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開に乗り出した。（1986年「イル・ジョルナーレ」開業を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同年さらなる転機が訪れた。「スターバックス」が1984年に併合した「ピーツ・コーヒー＆ティー」を残して、残りの資産の売却を決断したのである。シュルツは「スターバックス」のコーヒー焙煎卸・小売り事業と「イル・ジョルナーレ」のエスプレッソ・バー事業は完全に補えあえると判断して、「スターバックス」の買収を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1987年８月「イル・ジョルナーレ」は「スターバックス」を買収し、ここに2024年現在では、世界80か国以上、店舗数4万軒を超える世界最大のカフェ・チェーン「スターバックス・コーポレーション」が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは現在でも、「スターバックス・コーポレーション」の名誉会長として、実業家として活躍しているほか、民主党系の政治的活動、退役軍人の支援、若者の失業対策の財団などの活動をしている。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
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		<title>ハワード・シュルツ</title>
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		<updated>2026-03-28T16:20:41Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ハワード・シュルツ  Howard  D Schultz：&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1953年～　アメリカの実業家。1986年～2000年、2008年～2017年、スターバックスの会長兼最高経営責任者（CEO）、2022年～2023年暫定CEO。&lt;br /&gt;
　シュルツはドイツ系ユダヤ人の両親のもと、ニューヨークのブルックリンで生まれた。幼少期は経済的に恵まれていなかったが、1975年にノーザンミシガン大学 Northern Michigan University を卒業後、ニューヨークのゼロックス社のセールスマンに、のちにスウェーデンの台所用品メーカーのハマープラスト Hammarplast 社のアメリカ子会社のゼネラルマネージャーに就任した。この時に「スターバックス」のコーヒーと出会った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　品質の高いコーヒー豆を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーに感化されたシュルツは、ニューヨークでの将来を約束された地位を捨てて、シアトルの小さな会社「スターバックス」への入社を決意した。当初はシュルツの革新的な考えに戸惑っていた経営者たちとの話し合いを重ね、1982年シュルツは「スターバックス」で働き始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1983年出張先のミラノで出会ったバール Bar（エスプレッソ・バー）文化に魅了されて、エスプレッソ・バーを「スターバックス」の名でアメリカ中に展開したいと考えたが、他の役員の賛同を得ることができなかった。シュルツはスターバックスを退社して、1986年エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ Il Giornale」の展開に乗り出した。（1986年「イル・ジョルナーレ」開業を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同年さらなる転機が訪れた。「スターバックス」が1984年に併合した「ピーツ・コーヒー＆ティー」を残して、残りの資産の売却を決断したのである。シュルツは「スターバックス」のコーヒー焙煎卸・小売り事業と「イル・ジョルナーレ」のエスプレッソ・バー事業は完全に補えあえると判断して、「スターバックス」の買収を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1987年８月「イル・ジョルナーレ」は「スターバックス」を買収し、ここに2024年現在では、世界80か国以上、店舗数4万軒を超える世界最大のカフェ・チェーン「スターバックス・コーポレーション」が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シュルツは現在でも、「スターバックス・コーポレーション」の名誉会長として、実業家として活躍しているほか、民主党系の政治的活動、退役軍人の支援、若者の失業対策の財団などの活動をしている。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<updated>2026-03-28T16:18:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;「スターバックス」 Starbucks　開業：&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界80か国以上で４万軒（2024年現在）を超える店舗を持つ世界最大のコーヒーチェーン「スターバックス」の最初の店は、1971年3月30日アメリカのシアトルで、良質のコーヒー豆やコーヒー器具を販売する小売店「スターバックス コーヒー ティー アンド スパイス　Starbucks Coffee, Tea &amp;amp; Spices」という店名で開業した。場所はシアトルのウエスタン通りで、後にパイクプレイスマーケットへ移転した。創業店は移転とともに閉店して、現在は名実ともにパイクプレイス店が１号店として観光客が行列をなす聖地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「スターバックス」の創業者は、ジェリー・ボールドウィン Jerry Baldwin、ゼブ・シーグル Zev Siegl、ゴードン・ボウカー Gordon Bowker の３人である。ともにカリフォルニア州バークレーにある「ピーツ・コーヒー＆ティー」の良質のアラビカ種のコーヒー豆を深煎りにしたコーヒーに魅了されていた。彼らは、アルフレッド・ピートにコーヒー焙煎技術をはじめとするコーヒービジネスのいろはを教わり、自分たちでコーヒー豆とコーヒー器具を販売する店を開業することにした。店名はシアトル郊外のレーニア山 Mt. Rainier 近くの鉱石採掘場スターボ Starbo と、アメリカの小説『白鯨 』Moby-Dickの登場人物スターバック Starbuck の両方に由来している。またロゴマークはギリシア神話のセイレーン の美しい歌声に由来しており、多くの人々を魅了する存在でありたいという願いが込められた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:スタバ大西さん.jpg|サムネイル|338x338ピクセル|スターバックス　パイクプレイス店本会会員　大西文明さんのご友人　提供]]&lt;br /&gt;
「スターバックス」は、開業当初「ピーツ・コーヒー＆ティー」からコーヒー豆を仕入れていたが、1972年にはコーヒー豆の焙煎も手掛け、1972年末には２号店を開業した。コーヒー生豆の流通販路を開拓し、コーヒー豆の輸入から焙煎、小売りの業績を着実に拡大していった。コーヒーの質を高めることが目的で、事業を拡大するつもりはないという創業者たちであったが、1981年にはシアトル市内に直営店5店と焙煎工場をもつ会社に成長し、良質のアラビカ種を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーの評判は高くなってきた。ただしこの時はまだ直営店で飲み物の販売はされておらず（試飲はできた）、コーヒー豆の焙煎と小売りが主であった。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9&amp;diff=49802</id>
		<title>スターバックス</title>
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		<updated>2026-03-28T16:14:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;「スターバックス」 Starbucks　開業：&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界80か国以上で４万軒（2024年現在）を超える店舗を持つ世界最大のコーヒーチェーン「スターバックス」の最初の店は、1971年3月30日アメリカのシアトルで、良質のコーヒー豆やコーヒー器具を販売する小売店「スターバックス コーヒー ティー アンド スパイス　Starbucks Coffee, Tea &amp;amp; Spices」という店名で開業した。場所はシアトルのウエスタン通りで、後にパイクプレイスマーケットへ移転した。創業店は移転とともに閉店して、現在は名実ともにパイクプレイス店が１号店として観光客が行列をなす聖地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「スターバックス」の創業者は、ジェリー・ボールドウィン Jerry Baldwin、ゼブ・シーグル Zev Siegl、ゴードン・ボウカー Gordon Bowker の３人である。ともにカリフォルニア州バークレーにある「ピーツ・コーヒー＆ティー」の良質のアラビカ種のコーヒー豆を深煎りにしたコーヒーに魅了されていた。彼らは、アルフレッド・ピートにコーヒー焙煎技術をはじめとするコーヒービジネスのいろはを教わり、自分たちでコーヒー豆とコーヒー器具を販売する店を開業することにした。店名はシアトル郊外のレーニア山 Mt. Rainier 近くの鉱石採掘場スターボ Starbo と、アメリカの小説『白鯨 』Moby-Dickの登場人物スターバック Starbuck の両方に由来している。またロゴマークはギリシア神話のセイレーン の美しい歌声に由来しており、多くの人々を魅了する存在でありたいという願いが込められた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:スタバ大西さん.jpg|サムネイル|338x338ピクセル|スターバックス　パイクプレイス店本会会員　大西文明さんのご友人　提供]]&lt;br /&gt;
「スターバックス」は、開業当初「ピーツ・コーヒー＆ティー」からコーヒー豆を仕入れていたが、1972年にはコーヒー豆の焙煎も手掛け、1972年末には２号店を開業した。コーヒー生豆の流通販路を開拓し、コーヒー豆の輸入から焙煎、小売りの業績を着実に拡大していった。コーヒーの質を高めることが目的で、事業を拡大するつもりはないという創業者たちであったが、1981年にはシアトル市内に直営店5店と焙煎工場をもつ会社に成長し、良質のアラビカ種を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーの評判は高くなってきた。ただしこの時はまだ直営店で飲み物の販売はされておらず（試飲はできた）、コーヒー豆の焙煎と小売りが主であった。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9&amp;diff=49801</id>
		<title>スターバックス</title>
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		<updated>2026-03-28T16:13:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 写真挿入&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;「スターバックス」 Starbucks　開業：&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界80か国以上で４万軒（2024年現在）を超える店舗を持つ世界最大のコーヒーチェーン「スターバックス」の最初の店は、1971年3月30日アメリカのシアトルで、良質のコーヒー豆やコーヒー器具を販売する小売店「スターバックス コーヒー ティー アンド スパイス　Starbucks Coffee, Tea &amp;amp; Spices」という店名で開業した。場所はシアトルのウエスタン通りで、後にパイクプレイスマーケットへ移転した。創業店は移転とともに閉店して、現在は名実ともにパイクプレイス店が１号店として観光客が行列をなす聖地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「スターバックス」の創業者は、ジェリー・ボールドウィン Jerry Baldwin、ゼブ・シーグル Zev Siegl、ゴードン・ボウカー Gordon Bowker の３人である。ともにカリフォルニア州バークレーにある「ピーツ・コーヒー＆ティー」の良質のアラビカ種のコーヒー豆を深煎りにしたコーヒーに魅了されていた。彼らは、アルフレッド・ピートにコーヒー焙煎技術をはじめとするコーヒービジネスのいろはを教わり、自分たちでコーヒー豆とコーヒー器具を販売する店を開業することにした。店名はシアトル郊外のレーニア山 Mt. Rainier 近くの鉱石採掘場スターボ Starbo と、アメリカの小説『白鯨 』Moby-Dickの登場人物スターバック Starbuck の両方に由来している。またロゴマークはギリシア神話のセイレーン の美しい歌声に由来しており、多くの人々を魅了する存在でありたいという願いが込められた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:スタバ大西さん.jpg|サムネイル|338x338ピクセル|スターバックス　パイクプレイス店本会会員　大西文明さんのご友人　提供]]&lt;br /&gt;
「スターバックス」は、開業当初「ピーツ・コーヒー＆ティー」からコーヒー豆を仕入れていたが、1972年にはコーヒー豆の焙煎も手掛け、1972年末には２号店を開業した。コーヒー生豆の流通販路を開拓し、コーヒー豆の輸入から焙煎、小売りの業績を着実に拡大していった。コーヒーの質を高めることが目的で、事業を拡大するつもりはないという創業者たちであったが、1981年にはシアトル市内に直営店5店と焙煎工場をもつ会社に成長し、良質のアラビカ種を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーの評判は高くなってきた。ただしこの時はまだ直営店で飲み物の販売はされておらず（試飲はできた）、コーヒー豆の焙煎と小売りが主であった。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<updated>2026-03-28T16:08:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;スターバックス　パイクプレイス店&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>スターバックス</title>
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		<updated>2026-03-28T16:05:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;「スターバックス」 Starbucks　開業： &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界80か国以上で４万軒（2024年現在）を超える店舗を持つ世界最大のコーヒーチェーン「スターバックス」の最初の店は、1971年3月30日アメリカのシアトルで、良質のコーヒー豆やコーヒー器具を販売する小売店「スターバックス コーヒー ティー アンド スパイス　Starbucks Coffee, Tea &amp;amp; Spices」という店名で開業した。場所はシアトルのウエスタン通りで、後にパイクプレイスマーケットへ移転した。創業店は移転とともに閉店して、現在は名実ともにパイクプレイス店が１号店として観光客が行列をなす聖地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「スターバックス」の創業者は、ジェリー・ボールドウィン Jerry Baldwin、ゼブ・シーグル Zev Siegl、ゴードン・ボウカー Gordon Bowker の３人である。ともにカリフォルニア州バークレーにある「ピーツ・コーヒー＆ティー」の良質のアラビカ種のコーヒー豆を深煎りにしたコーヒーに魅了されていた。彼らは、アルフレッド・ピートにコーヒー焙煎技術をはじめとするコーヒービジネスのいろはを教わり、自分たちでコーヒー豆とコーヒー器具を販売する店を開業することにした。店名はシアトル郊外のレーニア山 Mt. Rainier 近くの鉱石採掘場スターボ Starbo と、アメリカの小説『白鯨 』Moby-Dickの登場人物スターバック Starbuck の両方に由来している。またロゴマークはギリシア神話のセイレーン の美しい歌声に由来しており、多くの人々を魅了する存在でありたいという願いが込められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「スターバックス」は、開業当初「ピーツ・コーヒー＆ティー」からコーヒー豆を仕入れていたが、1972年にはコーヒー豆の焙煎も手掛け、1972年末には２号店を開業した。コーヒー生豆の流通販路を開拓し、コーヒー豆の輸入から焙煎、小売りの業績を着実に拡大していった。コーヒーの質を高めることが目的で、事業を拡大するつもりはないという創業者たちであったが、1981年にはシアトル市内に直営店5店と焙煎工場をもつ会社に成長し、良質のアラビカ種を深煎りにした「スターバックス」のコーヒーの評判は高くなってきた。ただしこの時はまだ直営店で飲み物の販売はされておらず（試飲はできた）、コーヒー豆の焙煎と小売りが主であった。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　パイクプレイス店の入り口&lt;br /&gt;
本会会員 大西文明さんのご友人　提供&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：&lt;br /&gt;
・『スターバックス成功物語』 ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著&lt;br /&gt;
　　小幡照雄、大川修二訳　日経BP社　1989年&lt;br /&gt;
・Wikipedia　スターバックス　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
・Wikipedia　ハワード・シュルツ　（日本語版・英語版）&lt;br /&gt;
・WEB　www.starbucks.com&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8&amp;diff=49798</id>
		<title>コーヒー歴史年表</title>
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		<updated>2026-03-28T16:03:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!15世紀以前&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|約1400万年前&lt;br /&gt;
|[[コフィア属]]（[[コーヒーノキ]]）の祖先がアフリカ大陸（中央アフリカ）に生まれる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1000万〜500万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[コフィア属]]（[[アラビカ種]]、[[カネフォラ種]]、[[ユーゲニオイデス種]]、[[リベリカ種]]等）の祖先がアフリカ大陸の各地域の気候に適応して分岐。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|数100万〜数10万年前&lt;br /&gt;
|ビクトリア湖北西部に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配して自家受粉可能な四倍体の[[アラビカ種]]の祖先が生まれる。コラム：[[＊アラビカ種の誕生と旅立ち]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|100万〜1万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[アラビカ種]]の直接の祖先が、[[エチオピア高原]]に生き残る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|紀元前3世紀&lt;br /&gt;
|[[エチオピア]]で山羊飼いカルディがコーヒーを発見（伝説）？（[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9〜11世紀&lt;br /&gt;
|ペルシャの医師・哲学者[[アル・ラーズィー（ラーゼス）]]と[[イブン・スィーナー（アヴィセンナ）]]が、薬としてコーヒー（ブン、ブンカ、ブンクム）について記述？[[＊コラム：コーヒーを薬として使用？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|13世紀半ば&lt;br /&gt;
|イスラムの修道僧[[シェイク・オマル]]が[[モカ]]の山中でコーヒー発見（伝説）？　＊コラム：シェイク・オマルのコーヒー発見伝説&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!15世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1454年頃&lt;br /&gt;
|[[アデン]]の律法学者[[シェイク・ジェマレディン]]（ザブハーニー）がコーヒーの効用を知り、イスラムの修道僧の間に広める。＊コラム：最初はどんなコーヒーを飲んだのか？＊コラム：コーヒーとワイン、カート&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀半ば&lt;br /&gt;
|この頃[[モカ]]の東、[[イエメン]] の山中でコーヒーの栽培始まる？　[[*コラム:いつコーヒーの栽培が始まったのか？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1470年頃&lt;br /&gt;
|[[シェイク・ジェマレディン]]死去。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀末&lt;br /&gt;
|コーヒーの飲用がメッカ、メディナなどアラビア半島南部に広まる。ほぼ同時期にカフェも現れる[コラム]スーフィーによるイスラム世界へのコーヒーの伝播。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!16世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1510年頃&lt;br /&gt;
|コーヒーがカイロに広まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1511年&lt;br /&gt;
|メッカで最初のコーヒー、カフェ弾圧。[コラム]イスラム世界でのコーヒー論争と弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1517年&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝[[セリム一世]]がエジプト征服（マムルク朝）。コーヒーがカイロからコンスタンチノープルに伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1530年頃&lt;br /&gt;
|ダマスカスにコーヒー伝わる。カフェ「バラ」「救済の門」ができる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1532年頃&lt;br /&gt;
|アレッポにコーヒー伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1534年&lt;br /&gt;
|カイロでコーヒー反対運動起こる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1554年&lt;br /&gt;
|コンスタンチノープルにカフェ（トルコではカフェ・カネ）ができる。[コラム]コンスタンティノープルのカフェの姿。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16世紀半ば&lt;br /&gt;
|[[トルコ式コーヒー]]の形態（焙煎、粉砕、抽出、サーヴィス方法）が完成。[[＊コラム：トルコ式コーヒーの器具と抽出法]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1570年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝セリム二世（在位1566〜74）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1580年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝ムラト三世（在位1574〜92）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1582(3)年&lt;br /&gt;
|ドイツの医師・植物学者[[レオンハルト・ラウヴォルフ]]が著作（『[[東方諸国への旅Journey into the eastern countries|東方諸国への旅]]』）の中でコーヒーについて言及。ヨーロッパで初めて印刷物中にコーヒーが登場。[コラム]コーヒーのヨーロッパへの紹介者たち。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1585年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアのトルコ大使、ジャンフランチェスコ・モロシーニ、ヴェネチア評議会にトルコでのコーヒー飲用について報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1587年&lt;br /&gt;
|[[アブダル・カディール]]『[[アブダル・カディールの書|コーヒーの合法性の擁護]]』を著述。現存する最古のコーヒー書。[コラム]アブダル・カディールの写本の翻訳と概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1588年頃&lt;br /&gt;
|[[シャー・アッバス]]の治世（1588〜1629年）には、ペルシャにカフェが存在したとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1592年&lt;br /&gt;
|[[プロスペロ・アルピーニ]]、[[『エジプトの植物』]]出版。コーヒーの木のデッサンと記述。[コラム]イタリアのコーヒーへの関心の高まり&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1595年&lt;br /&gt;
|[[バルダヌス]]『[[リンスホーテン]]の旅』の注でコーヒーに関して記述。イギリスで初めてのコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!17世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|インドのイスラムの巡礼者[[ババ・ブダン]]がモカからマイソールにコーヒーを持ち帰る（伝説？1640年、1695年頃という説も）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|ローマ教皇[[クレメンス八世]]、コーヒーに洗礼を施す（？伝説）。[[＊コラム：クレメンス八世のコーヒー洗礼は本当か？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1602年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、『[[旅と冒険]]』でコーヒーについて記述。[コラム]イギリス の知識人のコーヒーへの関心の高まりと著作。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1607年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、バージニア植民地にコーヒーを持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1609年&lt;br /&gt;
|ウィリアム・ビダルフ、『ある英国人たちのアジア、アフリカその他の地への旅行記』出版。コーヒーについて詳細な記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1610年&lt;br /&gt;
|（オランダ、ヨーロッパに初めて中国、日本から茶を輸送）。[コラム]陶磁器（コーヒーカップ）のヨーロッパへの輸出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1614年&lt;br /&gt;
|[[ピエトロ・デッラ・ヴァッレ]]がコーヒーをヴェネツィアに持ち帰る。？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1616年&lt;br /&gt;
|オランダが[[モカ]]から初めてヨーロッパにコーヒーを輸送。1640年に商業的に輸入が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1620年&lt;br /&gt;
|ピルグリム・ファーザーズ、アメリカ入植。コーヒー器具を持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1623年&lt;br /&gt;
|フランシス・ベーコン、『死生論』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1632年&lt;br /&gt;
|ロバート・バートン、『メランコリーの解剖学』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1644年&lt;br /&gt;
|[[ピエール・ド・ラ・ローク|ド・ラ・ローク]]、トルコからマルセイユにコーヒー器具を持ち帰る。[[＊コラム:フランスのコーヒーへの関心の高まり。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1645年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアに最初のカフェ開店（コーヒーが一般化）？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|トルコの使節団がウィーンにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1649年&lt;br /&gt;
|（清教徒革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年&lt;br /&gt;
|オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウス（「[[ジェイコブズ]]」）開業。　[[＊コラム：ヨーロッパ諸国のカフェの始まり]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年頃&lt;br /&gt;
|この頃に[[シリンダー型焙煎機]]が登場。　[[＊コラム：17～18世紀のコーヒー焙煎機。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1652年&lt;br /&gt;
|アルメニア人[[パスカ・ロゼ]]、ロンドン初のコーヒーハウス開業。以後、続々とコーヒーハウスが誕生し、17世紀末には3000軒を数える。[[＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯|＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1656年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコの大宰相[[キョプリュリュ]]（・メフメト・パシャ）によるカフェ弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年以前&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・ファー]]、「[[レインボウ]]」を開業(ロンドン）。ロンドンで２番目のコーヒー・ハウス。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|スウエーデンの旅行家[[クレス・ロラン]]、トルコを使節として訪問。コーヒーの飲み方を報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|「[[ギャラウェイズ|ギャラウェイズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）で茶の販売広告¸　[[＊コラム：コーヒーハウスと茶、チョコレート]]  [[コーヒーハウスと広告の誕生|＊コラム：コーヒーハウスと広告の誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|[[ジャン・ド・テヴノー]]、パリにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1658年&lt;br /&gt;
|オランダ、モカから[[セイロン島（スリランカ）]]へコーヒーを移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）に[[ロータ・クラブ]]設立。 [[＊コラム：コーヒーハウスとクラブ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーが売られる（薬屋）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。（〜1749年） [[＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1664年&lt;br /&gt;
|ハーグにオランダ初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|（ロンドンでペスト大流行。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人の[[ニコラス・ブック]]、コーヒー専用のミルを開発。　[[＊コラム：コーヒー・グラインダー（ミル）の変遷。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1666年&lt;br /&gt;
|ロンドン大火。レンガ作りで再建。続々とコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：代用貨幣の発行]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1668年&lt;br /&gt;
|アメリカ最初のコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|トルコの大使[[ソリマン・アガ]]がコーヒーを携えてパリに赴任。上流階級の間でコーヒーがブームになる。[[＊コラム：セヴィニェ夫人とフランス宮廷人のコーヒー観。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|ロンドンにロイヤル・エクスチェンジ（商品取引市場）開設。近辺に多数のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1670年&lt;br /&gt;
|[[ノワンテル侯爵]]、フランス大使としてトルコ訪問¸（1670〜79年）。[[アブダル・カディールの書]]、[[ビチヴィリの写本]]を持ち帰り、ルイ一四世に献上。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|ローマのオリエント語教師[[ファウスト・ナイロニ]]が著作の中で[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]を紹介。[[＊コラム：「山羊飼いコーヒー発見伝説」の真実]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]にフランス初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]]『[[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して』|コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して]]』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[ヘンリー・ブラント]]（コーヒー・ハウスの父、と呼ばれる）、『レバントへの旅』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1672年&lt;br /&gt;
|パリに最初のカフェ。アルメニア人[[パスカル]]が露店のカフェを開業。[[＊コラム:「カフェ・プロコプ」以前のカフェ]] [[＊コラム：コーヒーの呼び売りカンディオ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674年&lt;br /&gt;
|ロンドンで女性たちによるコーヒー禁止の請願。[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674〜88年&lt;br /&gt;
|ロベール・ボナール（Robert Bonnart）の版画シリーズ（貴族Homme de quarité¸)にコーヒーを飲む貴族の数点のポートレイト。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1675年&lt;br /&gt;
|[[チャールズ二世]]、コーヒー・ハウス禁止令。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1676年&lt;br /&gt;
|ルイ一四世によりカフェのギルド（カフティエ＝リモナディエ＝ディスティラトゥール）のギルド認可。[コラム]ギルドの排他特権とカフェの商品アイテム&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|ハンブルクにカフェが開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーの薬効について論争。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|[[コルシツキー]]がウィーン初のカフェ「[[青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）]]」開業（作り話？）。[[＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|ヴェネツィアのサン・マルコ広場にカフェがあったとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年頃&lt;br /&gt;
|この頃ロンドンに3000軒のコーヒーハウスとの記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]][[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関する新たな興味をそそる論説』]]刊行&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1686年&lt;br /&gt;
|「プロコプ」開業（パリ）。フランスのカフェの原型となる。[コラム]「プロコプ」を巡って&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|「[[ロイズ|ロイズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。 [コラム][[コラム：ロイズを巡って|「ロイズ」を巡って]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|[[ヨハネス・ディオダド]]、ウィーンにカフェ開業。ウィーンの最初のカフェか。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|（名誉革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|ボストンにニュー・イングランド初のコーヒーハウス（「ロンドン・コーヒーハウス」）開業。 [[＊コラム：ボストンの初期のコーヒーハウス]]　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年　&lt;br /&gt;
|（イギリス東インド会社が初めて中国から直接イギリスに茶を輸送）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|ストックホルムに２軒のカフェ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ローラン]]」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1694年&lt;br /&gt;
|ライプチッヒに初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1696年&lt;br /&gt;
|ニューヨークに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：ニューヨークの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1698年頃&lt;br /&gt;
|「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|オランダが[[ジャワ]]にインドのマラバールからコーヒーの苗木を運び、移植に成功。[コラム]イエメンからのコーヒー栽培の伝播¸と経路&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|[[アントワーヌ・ガラン]]、『[[コーヒーの起源と伝播]]』を著述。『[[アブダル・カディールの書]]』の抄訳。[コラム]『アブダル・カディールの書』のガラン抄訳について&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!18世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年&lt;br /&gt;
|フィラデルフィアに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：フィラデルフィアの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年頃&lt;br /&gt;
|「[[トムズ|トムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年&lt;br /&gt;
|「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からアムステルダムにコーヒーの苗木を移送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1709年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]『[[タトラー]]』創刊。 [[＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からオランダにコーヒーを輸送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]、[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[スペクテイター]]』創刊&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1712年&lt;br /&gt;
|「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|アムステルダム市からルイ一四世にコーヒーの苗木を献呈。[[パリ植物園|パリ王立植物園]]に移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|（ジョージ一世がイギリス国王に。ハノーヴァー朝の成立）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|プラハ初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|（ルイ一四世崩御。ルイ一五世即位。オルレアン公が摂政に）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・パレ・ロワイヤル」が、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」に改名。豪華カフェに生まれ変わる（パリ）。[コラム①]ジュール・ミシュレ『フランス史・レジャンス』から　[コラム②]カフェとゲーム（チェス）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|ジャン・ド・ラ・ローク『幸福なアラビアの旅』刊行。コーヒーに関しての記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]と[[ドミニカ]]にコーヒー栽培が伝わる（[[ド・クリュー]]と別ルート）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|フランス、[[モカ]]からコーヒーを[[ブルボン島]]（現レユニオン島）に移植し栽培に成功。ブルボン種の祖といわれる。[コラム]ブルボン島へのコーヒー移植の経緯。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|パリに300軒のカフェ。[コラム]フランス革命以前のパリのカフェ事情&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1718年&lt;br /&gt;
|[[スリナム]]にコーヒー栽培が伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1720年&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・フローリアン」開業（ヴェネツィア）。[コラム]サン・マルコ広場のカフェ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1721年&lt;br /&gt;
|ベルリンに初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1723年&lt;br /&gt;
|[[ガブリエル・ド・クリュー]]、パリ王立植物園のコーヒーの苗木を[[マルティニーク]]島に運び栽培に成功。ここからコーヒー栽培がカリブ海・中米諸国に伝わる（ティピカ種の祖）。[コラム]マルティニーク島へのコーヒー移植の経緯&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]島が[[モカ]]に代わって世界最大のコーヒー生産地に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・クワドリ」開業（ヴェネツィア）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フォワ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1727年&lt;br /&gt;
|フランシスコ・パリェッタがフランス領ギアナからパラにコーヒーを持ち帰り、移植に成功。＊コラム：[[ブラジルのコーヒー栽培の始まり]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年頃&lt;br /&gt;
|ハイチ島で本格的にコーヒーの栽培が始まる。18世紀後半には世界最大の生産地に。[コラム①]黄金の島、ハイチ（サン＝ドマング）　[コラム②]コーヒーと奴隷貿易&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年&lt;br /&gt;
|[[ジャマイカ]]でコーヒーの栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750頃～&lt;br /&gt;
|[[カリブ海、中南米諸国にコーヒーの栽培が伝わる]]。キューバ1748年、グァテマラ1760年頃、コスタリカ1774年、ベネズェラ1784年、メキシコ1790年頃、コロンビア18世紀末。コーヒー栽培が本格化するのは19世紀後半以降。[コラム]中南米、[[カリブ海諸国]]へのコーヒーの伝播&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1734年頃&lt;br /&gt;
|J.S.バッハ、ライプチッヒの「[[カフェ・ツィンマーマン]]」で「[[コーヒー・カンタータ]]」初演。[[＊コラム①：コーヒークレンツヒェンと女性へのコーヒーの流行（ドイツ）]][[＊コラム②：「コーヒー・カンタータ」解釈]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1737年&lt;br /&gt;
|「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」開業（ニューヨーク）。 [[＊コラム：植民地時代のアメリカ社会とコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750年&lt;br /&gt;
|カルロ・ゴルドーニの『ボデガ・デル・カフェ』ヴェネツィアで初演。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|『百科全書』の刊行始まる（〜1772年）。[コラム]百科全書の刊行と「プロコプ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|[[ウィリアム・ホガース]]画『[[ビール通りとジン横丁]]』を発表。＊[[コラム：18世紀ロンドンの居酒屋事情]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1752年&lt;br /&gt;
|「[[ラネラ・ガーデン]]」開業（ロンドン）。[[＊コラム：ロンドンのティーガーデン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|「カフェ・グレコ」開業（ローマ）。[コラム]「カフェ・グレコ」は「カフェ・テデスコ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|[[ブラジルのリオでコーヒー栽培が始まる]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年頃&lt;br /&gt;
|フランスで布で漉す浸漬式の抽出法が普及し始める（ボイル式も継続して行われる）。[コラム]抽出法の多様化&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1764年&lt;br /&gt;
|ミラノで文学誌『イル・カフェ』発刊。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1773年&lt;br /&gt;
|[[ボストン茶会事件]]。コーヒーがアメリカの国民飲料になるきっかけとなる。[コラム]ボストン・ティーパーティーとコーヒー。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1776年&lt;br /&gt;
|（アメリカ独立宣言）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1777年&lt;br /&gt;
|プロイセンのフリードリヒ２世（大王）、コーヒーの使用を制限する布告。[コラム]コーヒー禁止の影響&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|（パレ・ロワイヤルの改装完成（1781年〜））。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|ベネズエラにコーヒー栽培伝わる。1789年に輸出開始、栽培本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1785年頃〜&lt;br /&gt;
|オルレアン公（ルイ・フィリップ・ジョゼフ）がパレ・ロワイヤル改装し、賃貸（パリ）。パレ・ロワイヤルにカフェが集積。フランス革命時には各党派の活動の舞台ともなる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1788年頃&lt;br /&gt;
|この頃パリのカフェ、1700軒を数える。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|（フランス革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|カミーユ・デムーラン、「カフェ・ド・フォワ」のテラスでアジ演説。バスティーユへの行進のきっかけに（フランス革命の発火点）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|ニューヨークの「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」の前でジョージ・ワシントンの歓迎式典が行われる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1790年頃&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤルに次々にカフェ、レストランが開業。パリ随一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|ハイチで反乱発生。内乱でコーヒー生産に大打撃。[コラム]ハイチの独立とコーヒー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|「カフェ・リーシュ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1798年&lt;br /&gt;
|「トルトーニ（カフェ）」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1799年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アルディ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!19世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|ドリップ式のコーヒー器具、ド・ベロワのコーヒー・ポット登場。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|（中国で紅茶＝工夫茶の製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃〜&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤル繁栄の全盛期（1830年頃まで）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|アメリカが世界最大のコーヒー消費国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|スマトラ、セレベスなどでコーヒー栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1802年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アングレ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|(ナポレオン、皇帝に即位。第一帝政始まる)。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]が独立（史上初の黒人共和国）。フランス、コーヒーの覇権を失う。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|ナポレオン、大陸封鎖令。コーヒーが不足し、代用コーヒーが横行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・ド・サシ]]、[[アブダル・カディールの書]]（『コーヒーの合法性の擁護』）を部分訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年&lt;br /&gt;
|(フランス、ナポレオンが退位し、王政復古。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃&lt;br /&gt;
|ブラジルの[[フルミネンセ]]（リオデジャネイロ）でコーヒー生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃〜&lt;br /&gt;
|オーストリア、[[ビーダーマイヤー]]時代（〜48年）。[[＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ]]　[[＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール]]　[[＊コラム③：作曲家が通ったカフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1816年&lt;br /&gt;
|メキシコでコーヒーの商業的栽培始まる。栽培の本格化は1870年代から。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1823年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサム地方で茶の木（アッサム種）発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年&lt;br /&gt;
|(フランス、七月王政。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年頃&lt;br /&gt;
|イタリア通りにカフェ＝レストランが集積。次第にパレ・ロワイヤルに代わりパリ一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1832年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ペドロッキ」開業（イタリア・パドヴァ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1835年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・クランツラー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1838年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサムで紅茶の製造始まる。続いてダージリンでも紅茶を製造（1841年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1839年&lt;br /&gt;
|バルザック『近代興奮剤考』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|（アヘン戦争始まる〜1842年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|[[ジャン＝ピエール・プジョー]]が金属製のコーヒー・ミルを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人ロバート・ナピアーがサイフォンを発明。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1843年&lt;br /&gt;
|コスタリカ、他の中米諸国に先駆けコーヒー輸出を本格的に開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：ウィーンの文学カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジェイムズ・カーター]]がプル・アウト式焙煎機を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1848年&lt;br /&gt;
|フランス、第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領に（1852〜第二帝政）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷貿易を禁止。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～1870年頃&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培の黄金時代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～&lt;br /&gt;
|この頃から中米のコーヒー栽培が本格化。先行するコスタリカについでグァテマラ（1850年頃）、エルサルバドル（1852年）、ニカラグァ（1860年代）がコーヒー栽培に取り組み、1870年代から輸出が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃〜&lt;br /&gt;
|（ティー・レース始まる。〜1870年頃）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（フランス、第二帝政。ルイ・ナポレオンが皇帝に。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（オスマンのパリ大改造始まる（〜1870年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1855年&lt;br /&gt;
|（フランス、第一回パリ万博（1867：第二回、1878：第三回））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1858年&lt;br /&gt;
|ヴィクトリア湖の南で[[カネフォラ種|ロブスタ]]発見。新種として報告せず。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年&lt;br /&gt;
|（アメリカ南北戦争（〜65年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が軌道に乗る。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|（イタリア王国成立。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|アフリカで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1862年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・ペ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1864年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、新型焙煎機を開発（現在の焙煎機の原型）。[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|ジョン・アーバックル、初めてパック詰めにしたコーヒー「アリオーサ」を販売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|「[[ロイヤル・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績|グラニュレーターとコーヒー冷却器を開発]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[セイロン島（スリランカ）|セイロン島（現スリランカ）]]で[[さび病]]発生。コーヒーの生産は19世紀末までに壊滅。徐々に茶に切り替わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|インドのニルギリで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|ドイツのエメリッヒにエメリッヒ社創設（のちの焙煎機メーカー、[[プロバット社]]）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|（普仏戦争に敗北。第三共和制へ。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジョン・ベーカー]]が業務用ミル『エンタープライズ』を開発。　[[＊コラム：業務用コーヒー・ミル開発の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1871年&lt;br /&gt;
|（ドイツ統一）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1873年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・インペリアル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|リベリアで[[リベリカ種]]発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|（日本で紅茶製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・バウアー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃～&lt;br /&gt;
|ブラジル・サンパウロ地方で[[ブルボン種]]導入始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアのコーヒー栽培が本格化。1880年代から生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ツェントラル]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ|ジャワ島]]、スマトラ島で[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1878年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、コーヒー、紅茶、香辛料を扱う業界誌『スパイス・ミル』刊行を始める。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・シュペール]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年頃～&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培が徐々に衰退。1888年の奴隷解放により決定的打撃を受ける。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1882年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアの中央高地でコーヒーの栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1881年&lt;br /&gt;
|ニューヨーク・コーヒー取引所開設。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1883年&lt;br /&gt;
|（セイロン＝スリランカからの紅茶輸出始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1884年&lt;br /&gt;
|この年から、サンパウロを中心にコロノスとしてイタリア移民の導入が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「シャ・ノワール」移転して新装開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ドゥ・マゴ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[さび病]]蔓延。生産が減少。[[リベリカ種|リベリカ]]への植え替えが進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1887年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フロール」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1888年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷制廃止。農園からの奴隷の逃亡により、リオのコーヒー生産に壊滅的打撃。コーヒー生産の中心はサンパウロ州に移る&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|サンパウロ州が世界最大のコーヒー生産地に。90年代にはブラジルは世界生産量の70〜80％を占める（ブラジルの総輸出の60〜70％）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地、イタリア通りからモンマルトルへ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1893年&lt;br /&gt;
|ジョウエル・チーク、ジョン・ニールとチーク＝ニール・コーヒー社（「マックスウェル・ハウス」）をナッシュビルで設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1895年&lt;br /&gt;
|ヨハン・ヤコブス、ブレーメンにコーヒー店開業。（のちのヤコブス社）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|ローランがコンゴで[[カネフォラ種|ロブスタ]]を発見。カネフォーラ種と命名。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|「カフェ・デス・ヴェステンス」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|加藤サルトリがシカゴでインスタント・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ムゼウム]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|サンフランシスコにブランデンシュタイン兄弟（4人）がMJBコーヒー社設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|ドイツの[[ゴットホット社]]、高速焙煎機「イデアル・ラピッド」を開発。　[[＊コラム：熱風式焙煎機の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!20世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年&lt;br /&gt;
|ヒルズ・ブラザーズ社、真空包装缶のコーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[カネフォラ種|ロブスタ]]の栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|中南米諸国がコーヒーを大増産。中米諸国は次第にコーヒーのモノカルチャー化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が中国を圧倒）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ケニアにレユニオン島（[[ブルボン島]]）からコーヒーを移植、栽培が始まる。続いてタンザニアも栽培開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|イタリア人、ベゼラが蒸気圧による抽出器を発明。エスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ブラジル、コーヒー大豊作。世界のコーヒー生産量の81％に達する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1906年&lt;br /&gt;
|ルートヴィヒ・ロゼリウス（ドイツ）、カフェインレスコーヒーの特許を取得、会社を設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1907年&lt;br /&gt;
|コーヒー価格の暴落により、ブラジル政府がコーヒー買い上げ（ヴァロリゼーション）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|ドイツで[[メリタ・ベンツ]]がペーパー・ドリップによる抽出器具を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|（トマス・サリヴァン、ティーパック発明）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1914年&lt;br /&gt;
|（第一次世界大戦始まる。〜1918年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1916年&lt;br /&gt;
|「ロマニッシェスカフェ」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大霜害。コーヒーの相場が急騰。ヨーロッパの需要回復も要因。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年&lt;br /&gt;
|ドイツのエミリッヒ社（後の[[プロバット社]]）、現在のドラム式焙煎機の原型となる「プロバット・コール・コースター」を開発。　[[＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ|＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年頃&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地がモンパルナスへ。（狂乱の時代（〜1930頃））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1922年&lt;br /&gt;
|ウィリアム.H.ユーカーズ『オール・アバウト・コーヒー』を刊行（1935年・第2版）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1924年&lt;br /&gt;
|エドゥアルト・ショプッフ、ドイツ・ブレーメンにエドショー社を設立（通信販売）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1925年頃〜&lt;br /&gt;
|ケニア、タンザニア、ウガンダなどアフリカのヨーロッパ植民地でコーヒー生産が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1927年&lt;br /&gt;
|コロンビアが世界第２位のコーヒー生産国に。コロンビア・コーヒー連盟FNC設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1929年&lt;br /&gt;
|（大恐慌。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1931年〜&lt;br /&gt;
|エルサルバドルに独裁政権（エルナンデス・マルティネス）誕生。その後グァテマラ（1931年）、ニカラグァ（193４年）、ホンジュラス（1932年）で独裁政権が誕生。コーヒー生産は進展したが、土地の集中化が進み、貧富の格差が増大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1933年&lt;br /&gt;
|（ナチス、政権掌握）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1934年&lt;br /&gt;
|ブラジル、過剰生産によりコーヒーを焼却。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1937年&lt;br /&gt;
|ネスレ社がインスタントコーヒーを商品化（「ネスカフェ」）、翌年発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1941年&lt;br /&gt;
|第二次世界大戦（〜1945）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1947年&lt;br /&gt;
|ガジアがピストン方式のエスプレッソ・マシンを開発。現在のエスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1949～54年&lt;br /&gt;
|ブラジルの旱魃を引き金にコーヒー価格が上昇、アメリカで薄いコーヒーが蔓延し、インスタントコーヒーの需要が伸びる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|サン＝ジェルマン＝デ＝プレのカフェに実存主義者が集まる（サルトル、ボーボワール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|ヨーロッパの需要回復によりコーヒー価格が上昇。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1953年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害によりコーヒー減産。価格が急騰。アメリカでは薄いわゆるアメリカン・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1955年頃&lt;br /&gt;
|ニューヨークなどでエスプレッソ・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1956年&lt;br /&gt;
|西ヨーロッパのコーヒー消費量が第二次大戦前を上回る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1960年&lt;br /&gt;
|ブラジル、パラナ州のコーヒー生産量ががサンパウロ州を越える。生産地域の南下が顕著。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1962年&lt;br /&gt;
|第一次国際コーヒー協定（ICA)成立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1963年&lt;br /&gt;
|国際コーヒー機構（ICO）設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1966年&lt;br /&gt;
|[[アルフレッド・ピート]]がアメリカ・バークレーに「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」開業。スペシャルティコーヒーの先駆け。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1969年&lt;br /&gt;
|ＵＣＣ上島コーヒー、世界初の缶コーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1971年&lt;br /&gt;
|[[スターバックス]]、シアトルに開業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1974年&lt;br /&gt;
|エルナ・クヌッセン、スペシャルティ・コーヒーの概念を『ティー＆コーヒー・ジャーナル』誌上のインタビューで発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1975年&lt;br /&gt;
|ブラジル大霜害。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1976年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害の影響でICOが輸出総量割当制を実施。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年〜&lt;br /&gt;
|ニカラグァで「サンディニスタ」政権誕生。中米では続いてエルサルバドル、グァテマラでもゲリラの活動が活発化し、混乱の時代に。コーヒー生産も縮小傾向。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年&lt;br /&gt;
|スイスのコフェックス社がスイス・ウォーター方式のカフェインレス・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1980年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアでバリエダ・コロンビア品種導入、品質劣化へ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1982年&lt;br /&gt;
|アメリカスペシャルティコーヒー協会（SCAA）設立&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1983年頃～&lt;br /&gt;
|アメリカでのスペシャルティーコーヒーの市場が急速に拡大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大旱魃。翌年にコーヒーの相場が急騰。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年頃〜&lt;br /&gt;
|ブラジルのコーヒー栽培の中心が、ミナスジェライス州の高原地域（セラード）に移行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1990年頃～&lt;br /&gt;
|ヴェトナムでのコーヒー栽培（主に[[カネフォラ種|ロブスタ]]）が本格化。生産量が急速に拡大し2003年には世界第2位の生産国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1986年&lt;br /&gt;
|[[ハワード・シュルツ]]、スターバックス社から独立し、エスプレッソ・バー「[[イル・ジョルナーレ]]」を開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1987年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックスの商標を買収し、コーヒーチェーン展開を開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1995年&lt;br /&gt;
|SCAA、コーヒーフレーバーホイールを作成・発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年頃〜&lt;br /&gt;
|コーヒー生産におけるサスティナビリティ運動（認証コーヒー）が盛んに。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年&lt;br /&gt;
|オークションシステムによるカップ・オブ・エクセレンスのプロジェクト始まる。1999年に現行の方式に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!21世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2000年&lt;br /&gt;
|ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ始まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|現行の国際コーヒー協定発効。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|パナマ・オークションでゲイシャ種が最高値を更新。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002年&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・フリーマン]]、「ブルー・ボトル」開業。アメリカでサードウェーブのコーヒー流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005年頃〜&lt;br /&gt;
|パカマラ、ジャバ等のコーヒーの新品種の導入が盛んになる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|中米を中心に新タイプのナチュラル、ハニー（パルプド・ナチュラル）など新たな精製法の研究・開発が進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010年頃〜&lt;br /&gt;
|ラオス、タイ、ミャンマーなどアジア諸国でコーヒー栽培が盛んになる。&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC&amp;diff=49695</id>
		<title>ビーダーマイヤー</title>
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		<updated>2026-03-04T15:08:25Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ビーダーマイヤー　Biedermeier&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　１９世紀前半のドイツ・オーストリアを中心に生まれた「もっと日常的なものに目を向けよう」とした市民文化の形態。ビーダーマイヤーとは、ドイツの風刺雑誌「フリーゲンテ・ブレッター」に発表された作品に登場する、小学校教師の名前「ゴットリープ・ビーダーマイヤー先生」に由来しており、政治にかかわらず、堅実な日常を重視する当時の小市民生活を揶揄する言葉であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ナポレオンの占領下では市民社会という概念が普及し始めたが、それに対抗するオーストリア政府は厳しい言論統制を強いた。さらに、ナポレオン戦争の後1815年の「ウィーン会議」を経て、オーストリア首相メッテルニヒ Klemens von Metternichのもとで全ヨーロッパは王政復古政治が推進された。権力による圧力のもと、市民には「政治への無関心」・「現実逃避」の風潮が生まれた。この時代の市民の生活文化を総称して、ビーダーマイヤー時代と呼ばれるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、この時代に愛用された装飾の少ない実用的な建築・家具・服飾が、後年ビーダーマイヤー様式と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　絵画では宗教的・歴史的なモチーフを排除する作風で、カール・シュピッツヴェーク Carl Spitzweg、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミューラー Ferdinand Georg Waldmüllerらの作品が有名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　音楽においてはビーダーマイヤー時代という区分はあまりしないが、家庭やサロンで軽やかで慎ましいピアノ曲・四重奏曲・歌曲などが演奏された時期にあたる。この時代を生きた作曲家の中では、フランツ・シューベルト Franz Peter Schubertが最も影響を受けたといわれている。一方政治思想から離れて、ワルツを踊り楽しむヨハン・シュトラウス一世  Johann Strauss Ⅰやヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍した時代でもあった。&lt;br /&gt;
詩人のニコラス・レーナウ Nikolaus Lenau、劇作家フランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzer、作家フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimundもこの時代の人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1848年フランスで二月革命が起きると、その余波はヨーロッパ各地に及び、オーストリア・ドイツにおいても自由主義を目指す三月革命騒ぎが起きて、「ウィーン会議」以降の社会秩序は崩壊に向かう。これと同時にビーダーマイヤー時代も終焉を迎えた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『ウィーンのカフェ』　平田達治著　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：ビーダーマイヤー　（日本語版・ドイツ語版）　&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49694</id>
		<title>＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49694"/>
		<updated>2026-03-04T15:07:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;[コラム]　コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「コルシツキー伝説」とは&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache）」を開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;謎多い人物コルシツキー&#039;&#039;&#039;　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;アルメニア人は英雄&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人＝コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーンのカフェの始まりの真実&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年（1685年説もある）にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。&lt;br /&gt;
　これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ・ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』　&lt;br /&gt;
平田達治・友田和秀　訳　大修館書店　2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49693</id>
		<title>＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？</title>
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		<updated>2026-03-04T15:05:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;[コラム]　コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「コルシツキー伝説」とは&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache）」を開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;謎多い人物コルシツキー&#039;&#039;&#039;　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;アルメニア人は英雄&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人＝コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーンのカフェの始まりの真実&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年（1685年説もある）にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。&lt;br /&gt;
　これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;===　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊平田達治　『ウィーンのカフェ』　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊クラウス・ティーレ・ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』　&lt;br /&gt;
平田達治・友田和秀　訳　大修館書店　2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）</title>
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		<updated>2026-03-04T15:04:06Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）&#039;&#039;&#039;　Zue blauen Flache ==&lt;br /&gt;
長い間[[コルシツキー]]が営んだ「ウィーン最初のカフェ」と語り継がれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[コルシツキー]]は1683年のオスマン・トルコとの戦いの勝利に貢献をし、その褒賞としてトルコ軍の残したコーヒー豆を譲り受けた。このコーヒー豆を利用してシュテファン寺院近く、シュトック・イム・アイゼン広場 Stock im Eisenplatz のシュヴァンフェルナー館で屋台風の店を開き、トルコ風コーヒーを売り始めた。この店がおおいに繁盛をして手狭となり、ブラントシュ&lt;br /&gt;
テッテ街 Brandstätte へ、さらにシュロッサー通り Schlossergasse の「ブラウエン・フラッツェ」という館に移転して&lt;br /&gt;
、ここに「ウィーン最初のカフェ」を開業したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、[[コルシツキー]]の「ブラウエン・フラッツェ」開業は史実としては認められていないが、「ブラウエン・フラッツェ」という店名のカフェは存在していた。アルメニア人のイザーク・デゥ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転して、1775年まで続いたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに2002年アメリカ人[[ジェイムズ・フリーマン]] James Freeman が開業した「ブルー・ボトル・コーヒー Blue Bottle Coffee 」も、コルシツキーの栄誉に敬意を表して、「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）」という名を付けたといわれている。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店,1996&lt;br /&gt;
* クラウス・ティーレ・ドールマン著『ヨーロッパのカフェ文化』1997　平田達治・友田 和秀訳、大修館書店,2000&lt;br /&gt;
　{{年表}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）</title>
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		<updated>2026-03-04T15:02:17Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）&#039;&#039;&#039;　Zue blauen Flache ==&lt;br /&gt;
長い間[[コルシツキー]]が営んだ「ウィーン最初のカフェ」と語り継がれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[コルシツキー]]は1683年のオスマン・トルコとの戦いの勝利に貢献をし、その褒賞としてトルコ軍の残したコーヒー豆を譲り受けた。このコーヒー豆を利用してシュテファン寺院近く、シュトック・イム・アイゼン広場 Stock im Eisenplatz のシュヴァンフェルナー館で屋台風の店を開き、トルコ風コーヒーを売り始めた。この店がおおいに繁盛をして手狭となり、ブラントシュ&lt;br /&gt;
テッテ街 Brandstätte へ、さらにシュロッサー通り Schlossergasse の「ブラウエン・フラッツェ」という館に移転して&lt;br /&gt;
、ここに「ウィーン最初のカフェ」を開業したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、[[コルシツキー]]の「ブラウエン・フラッツェ」開業は史実としては認められていないが、「ブラウエン・フラッツェ」という店名のカフェは存在していた。アルメニア人のイザーク・デゥ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転して、1775年まで続いたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに2002年アメリカ人[[ジェイムズ・フリーマン]] James Freeman が開業した「ブルー・ボトル・コーヒー Blue Bottle Coffee 」も、コルシツキーの栄誉に敬意を表して、「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）」という名を付けたといわれている。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== &#039;&#039;&#039;参照文献:&#039;&#039;&#039; ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店,1996&lt;br /&gt;
* クラウス・ティーレ・ドールマン著『ヨーロッパのカフェ文化』1997　平田達治・友田 和秀訳、大修館書店,2000&lt;br /&gt;
　{{年表}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<title>＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール</title>
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		<updated>2026-03-04T14:42:57Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;[コラム]　ウィーンのカフェ・コンセール（コンサートカフェ）&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ビーダーマイヤーの時代の前後は、家庭やサロンで小さな演奏会が開かれ、音楽が市民の身近となり、現在に続く「音楽の都」の始まりとなった。さらに、18世紀の終わりごろからカフェの広い店内や、店先、庭でコンサートが催されるカフェ・コンセール（コンサートカフェ）が生まれ、１９世紀中ごろには最盛期を迎えた。しかしこの時代のカフェは王政復古主義などの政治的ないろいろな制約を受けており、もしフランス革命の影響による政治不安がなければ、カフェ・コンセールも違う形で展開していたのかもしれない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　代表的なコンサートカフェ（カフェ・コンセール）を紹介する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ワーグナー  Cafe Wagner」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　レオポルトシュタット Leopoldstadt地区（ドナウ運河の北側でシュラーク橋（現在のシュヴェーデン橋）の近く）で、イグナーツ・ワーグナー Igunaz Wagnerが開業した宮殿のような豪華大型カフェ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;ユングリングのカフェ Cafe Jungllingu」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくレオポルトシュタット地区のカフェ。1803年にカフェ・サロンに改装し、庭とバルコニーを作り多くのコンサートが開催された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヴィーガントのカフェ Cafe Wiegand」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ケルントナー Kärntner門（現在の国立歌劇場近くにあった城壁の門）近くにあり、音楽愛好家が庭先で多くのコンサートを開催した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第一カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1789年にプラーター Prater（もとはハプスブルク家の狩場で、1873年のウィーン万博の会場になった。）で開業した３軒のカフェ・コンセールのひとつ。1814年にはベートーヴェン Ludwig van Beethovenが自身作曲のピアノ三重奏を演奏した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第二カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくプラーターの３軒のうちのひとつで、1844年にはヨハン・シュトラウス二世 Johann Strauss Ⅱが出演した。19世紀後半まで営業していた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ドムマイヤー Cafe Dommayer」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hietzinger Haupstr 1889.jpg|サムネイル|1889年の「カフェ・ドムマイヤー」Wikipedia 「Cafe Dommayer」（ドイツ語版）　より]]&lt;br /&gt;
　シェーンブルン宮殿 Schloss Schönbrunnの近くで1783年の開業。ヨハン・シュトラウス一世 Johann Strauss １やヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍し、1844年にヨハン・シュトラウス二世がデビューコンサートを開いた。カフェの経営者は次々に変わり改装がなされたが、外観や中庭はそのまま当時を偲ぶことができる、現存するカフェである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Dommayergasse 1, 1130 Wien） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヤーンの宮廷料理店」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1788年に開業したサロン付きの料理店で、ベートーヴェンやモーツァルト Wolfgang Amadeus Mozartが演奏した記録がある。1891年にカフェに業態変更し、現在も「カフェ・フラウエンフーバー cafe Frauenhubaer」として営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Himmelpfortgasse 6, A-1010 Wien）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hietzinger_Haupstr_1889.jpg&amp;diff=49689</id>
		<title>ファイル:Hietzinger Haupstr 1889.jpg</title>
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		<updated>2026-03-04T14:38:06Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;1889年の「カフェ・ドムマイヤー」&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A1%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;diff=49688</id>
		<title>＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール</title>
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		<updated>2026-03-04T14:35:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;[コラム]　ウィーンのカフェ・コンセール（コンサートカフェ）&#039;&#039;&#039;== &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ビーダーマイヤーの時代の前後は、家庭やサロンで小さな演奏会が開かれ、音楽が市民の身近となり、現在に続く「音楽の都」の始まりとなった。さらに、18世紀の終わりごろからカフェの広い店内や、店先、庭でコンサートが催されるカフェ・コンセール（コンサートカフェ）が生まれ、１９世紀中ごろには最盛期を迎えた。しかしこの時代のカフェは王政復古主義などの政治的ないろいろな制約を受けており、もしフランス革命の影響による政治不安がなければ、カフェ・コンセールも違う形で展開していたのかもしれない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　代表的なコンサートカフェ（カフェ・コンセール）を紹介する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ワーグナー  Cafe Wagner」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　レオポルトシュタット Leopoldstadt地区（ドナウ運河の北側でシュラーク橋（現在のシュヴェーデン橋）の近く）で、イグナーツ・ワーグナー Igunaz Wagnerが開業した宮殿のような豪華大型カフェ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;ユングリングのカフェ Cafe Jungllingu」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくレオポルトシュタット地区のカフェ。1803年にカフェ・サロンに改装し、庭とバルコニーを作り多くのコンサートが開催された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヴィーガントのカフェ Cafe Wiegand」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ケルントナー Kärntner門（現在の国立歌劇場近くにあった城壁の門）近くにあり、音楽愛好家が庭先で多くのコンサートを開催した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第一カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1789年にプラーター Prater（もとはハプスブルク家の狩場で、1873年のウィーン万博の会場になった。）で開業した３軒のカフェ・コンセールのひとつ。1814年にはベートーヴェン Ludwig van Beethovenが自身作曲のピアノ三重奏を演奏した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第二カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくプラーターの３軒のうちのひとつで、1844年にはヨハン・シュトラウス二世 Johann Strauss Ⅱが出演した。19世紀後半まで営業していた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ドムマイヤー Cafe Dommayer」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シェーンブルン宮殿 Schloss Schönbrunnの近くで1783年の開業。ヨハン・シュトラウス一世 Johann Strauss １やヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍し、1844年にヨハン・シュトラウス二世がデビューコンサートを開いた。カフェの経営者は次々に変わり改装がなされたが、外観や中庭はそのまま当時を偲ぶことができる、現存するカフェである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Dommayergasse 1, 1130 Wien） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヤーンの宮廷料理店」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1788年に開業したサロン付きの料理店で、ベートーヴェンやモーツァルト Wolfgang Amadeus Mozartが演奏した記録がある。1891年にカフェに業態変更し、現在も「カフェ・フラウエンフーバー cafe Frauenhubaer」として営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Himmelpfortgasse 6, A-1010 Wien）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A0%EF%BC%9A%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49687</id>
		<title>＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A0%EF%BC%9A%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49687"/>
		<updated>2026-03-04T14:34:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;[コラム]　ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　王政復古政治を推進するメッテルニヒ体制により民衆への圧迫が続くこの時代では、特定の場所での頻繁な会合も警察にマークされた。会合場所になるカフェや居酒屋も、当然のことながら当局が目をつけた。カフェには人々が集ってはいるが、政治的な議論をはじめ刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになり、賑わいや快活さもなくなっていった。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代を代表するカフェを紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・白銀館  das silbernes Kaffeehaus 」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　イグナーツ・ノイナー Ignaz Neunerが1800年ごろ開業したカフェ。1824年ノイナーは突如店を豪華に改造し、食器からドアノブなどのすべてを銀製品に変更した。言論統制・王政復古の影響で、作家をはじめ文化人には生きにくい世の中ではあったが、「黄金の自由」がない分「銀の館」で満足しようと「カフェ白銀館」には多くの著名人が訪問して、この時代を代表する文学カフェとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1846年二代目店主ノイナーの死後、文化人・芸術家は徐々に「カフェ・白銀館」から離散して、1848年ビーダーマイヤー時代の終焉とともにこの時代を代表した文学カフェも1855年に閉店した。（詳細はリンク先「カフェ・白銀館」を参照） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「カフェ・フーゲルマン Cafe Hugelmann」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　市の北部、ドナウ運河に架かるシュラーク橋（現在のシュヴェーデン橋）のたもとのレオポルトシュタット Leopoldstadt地区にあった２軒のカフェを1764年フランツ・フーゲルマン Franz Hugelmannが譲り受け、１軒の大型豪華カフェに大改装をした。一階に大きなビリヤードホールがあり、ニコラウス・レーナウ Nikolaus Lenau、フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimund、エドゥアルト・フォン・バイエルンフェルト Eduard von Bauernfeldらの文化人・芸術家が玉突きに興じており、「ビリヤード大学」の異名でも呼ばれたていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ワーグナー  Cafe Wagner」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「カフェ・フーゲルマン」の向かいに、イグナーツ・ワーグナー Ignaz Wagnerが開業した宮殿のような大型の豪華カフェ。作家のフェルディナント・ライムントはこのカフェの娘「トニー」に恋をするが、貧乏作家に娘はやれぬと父親に反対され、この恋は実らなかったという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ライベンフロスト Café Lambenfurost」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「カフェ・白銀館」の隣にあった芸術家が集うカフェで、俳優フリードリヒ・ミッターヴァルツァー Friedrich Mitterwurzer、画家のヨーゼフ・ダンハウザー Josef Franz Danhauser、同アウグスト・フォン・ペッテンコーフェン August von Pettenkofenらが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC&amp;diff=49686</id>
		<title>ビーダーマイヤー</title>
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		<updated>2026-03-04T14:33:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ビーダーマイヤー　Biedermeier&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　１９世紀前半のドイツ・オーストリアを中心に生まれた「もっと日常的なものに目を向けよう」とした市民文化の形態。ビーダーマイヤーとは、ドイツの風刺雑誌「フリーゲンテ・ブレッター」に発表された作品に登場する、小学校教師の名前「ゴットリープ・ビーダーマイヤー先生」に由来しており、政治にかかわらず、堅実な日常を重視する当時の小市民生活を揶揄する言葉であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ナポレオンの占領下では市民社会という概念が普及し始めたが、それに対抗するオーストリア政府は厳しい言論統制を強いた。さらに、ナポレオン戦争の後1815年の「ウィーン会議」を経て、オーストリア首相メッテルニヒ Klemens von Metternichのもとで全ヨーロッパは王政復古政治が推進された。権力による圧力のもと、市民には「政治への無関心」・「現実逃避」の風潮が生まれた。この時代の市民の生活文化を総称して、ビーダーマイヤー時代と呼ばれるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、この時代に愛用された装飾の少ない実用的な建築・家具・服飾が、後年ビーダーマイヤー様式と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　絵画では宗教的・歴史的なモチーフを排除する作風で、カール・シュピッツヴェーク Carl Spitzweg、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミューラー Ferdinand Georg Waldmüllerらの作品が有名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　音楽においてはビーダーマイヤー時代という区分はあまりしないが、家庭やサロンで軽やかで慎ましいピアノ曲・四重奏曲・歌曲などが演奏された時期にあたる。この時代を生きた作曲家の中では、フランツ・シューベルト Franz Peter Schubertが最も影響を受けたといわれている。一方政治思想から離れて、ワルツを踊り楽しむヨハン・シュトラウス一世  Johann Strauss Ⅰやヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍した時代でもあった。&lt;br /&gt;
詩人のニコラス・レーナウ Nikolaus Lenau、劇作家フランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzer、作家フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimundもこの時代の人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1848年フランスで二月革命が起きると、その余波はヨーロッパ各地に及び、オーストリア・ドイツにおいても自由主義を目指す三月革命騒ぎが起きて、「ウィーン会議」以降の社会秩序は崩壊に向かう。これと同時にビーダーマイヤー時代も終焉を迎えた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『ウィーンのカフェ』　平田達治著　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：ビーダーマイヤー　（日本語版・ドイツ語版）　&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49685</id>
		<title>＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49685"/>
		<updated>2026-03-04T14:32:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;[コラム]　コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「コルシツキー伝説」とは&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache）」を開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;謎多い人物コルシツキー&#039;&#039;&#039;　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;アルメニア人は英雄&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人＝コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーンのカフェの始まりの真実&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年（1685年説もある）にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。&lt;br /&gt;
　これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ・ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』　&lt;br /&gt;
平田達治・友田和秀　訳　大修館書店　2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49680</id>
		<title>＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49680"/>
		<updated>2026-03-03T18:27:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[コラム]　コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「コルシツキー伝説」とは&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache）」を開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;謎多い人物コルシツキー&#039;&#039;&#039;　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;アルメニア人は英雄&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人＝コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;ウィーンのカフェの始まりの真実&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年（1685年説もある）にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。&lt;br /&gt;
　これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ・ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』　&lt;br /&gt;
平田達治・友田和秀　訳　大修館書店　2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A1%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;diff=49679</id>
		<title>＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A1%EF%BC%9A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;diff=49679"/>
		<updated>2026-03-03T18:14:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;[コラム]　ウィーンのカフェ・コンセール（コンサートカフェ）&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;   　ビーダーマイヤーの時代の前後は、家庭やサロンで小さな演奏会が開かれ、音楽が市民の身近となり、現在に続く「音楽の都」の始まりとなった。さらに、18世紀の終わりごろからカフェの広い店内や、店先、庭でコンサートが催されるカフェ・コンセール（コンサートカフェ…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[コラム]　ウィーンのカフェ・コンセール（コンサートカフェ）&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ビーダーマイヤーの時代の前後は、家庭やサロンで小さな演奏会が開かれ、音楽が市民の身近となり、現在に続く「音楽の都」の始まりとなった。さらに、18世紀の終わりごろからカフェの広い店内や、店先、庭でコンサートが催されるカフェ・コンセール（コンサートカフェ）が生まれ、１９世紀中ごろには最盛期を迎えた。しかしこの時代のカフェは王政復古主義などの政治的ないろいろな制約を受けており、もしフランス革命の影響による政治不安がなければ、カフェ・コンセールも違う形で展開していたのかもしれない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　代表的なコンサートカフェ（カフェ・コンセール）を紹介する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ワーグナー  Cafe Wagner」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　レオポルトシュタット Leopoldstadt地区（ドナウ運河の北側でシュラーク橋（現在のシュヴェーデン橋）の近く）で、イグナーツ・ワーグナー Igunaz Wagnerが開業した宮殿のような豪華大型カフェ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;ユングリングのカフェ Cafe Jungllingu」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくレオポルトシュタット地区のカフェ。1803年にカフェ・サロンに改装し、庭とバルコニーを作り多くのコンサートが開催された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヴィーガントのカフェ Cafe Wiegand」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ケルントナー Kärntner門（現在の国立歌劇場近くにあった城壁の門）近くにあり、音楽愛好家が庭先で多くのコンサートを開催した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第一カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1789年にプラーター Prater（もとはハプスブルク家の狩場で、1873年のウィーン万博の会場になった。）で開業した３軒のカフェ・コンセールのひとつ。1814年にはベートーヴェン Ludwig van Beethovenが自身作曲のピアノ三重奏を演奏した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「第二カフェ館」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じくプラーターの３軒のうちのひとつで、1844年にはヨハン・シュトラウス二世 Johann Strauss Ⅱが出演した。19世紀後半まで営業していた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ドムマイヤー Cafe Dommayer」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シェーンブルン宮殿 Schloss Schönbrunnの近くで1783年の開業。ヨハン・シュトラウス一世 Johann Strauss １やヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍し、1844年にヨハン・シュトラウス二世がデビューコンサートを開いた。カフェの経営者は次々に変わり改装がなされたが、外観や中庭はそのまま当時を偲ぶことができる、現存するカフェである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Dommayergasse 1, 1130 Wien） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ヤーンの宮廷料理店」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1788年に開業したサロン付きの料理店で、ベートーヴェンやモーツァルト Wolfgang Amadeus Mozartが演奏した記録がある。1891年にカフェに業態変更し、現在も「カフェ・フラウエンフーバー cafe Frauenhubaer」として営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現住所：Himmelpfortgasse 6, A-1010 Wien）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A0%EF%BC%9A%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49678</id>
		<title>＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E2%91%A0%EF%BC%9A%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7&amp;diff=49678"/>
		<updated>2026-03-03T18:12:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;[コラム]　ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;  　王政復古政治を推進するメッテルニヒ体制により民衆への圧迫が続くこの時代では、特定の場所での頻繁な会合も警察にマークされた。会合場所になるカフェや居酒屋も、当然のことながら当局が目をつけた。カフェには人々が集ってはいるが、政治的な議論をはじめ刺激的な会話は少な…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[コラム]　ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　王政復古政治を推進するメッテルニヒ体制により民衆への圧迫が続くこの時代では、特定の場所での頻繁な会合も警察にマークされた。会合場所になるカフェや居酒屋も、当然のことながら当局が目をつけた。カフェには人々が集ってはいるが、政治的な議論をはじめ刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになり、賑わいや快活さもなくなっていった。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代を代表するカフェを紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・白銀館  das silbernes Kaffeehaus 」&#039;&#039;&#039;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　イグナーツ・ノイナー Ignaz Neunerが1800年ごろ開業したカフェ。1824年ノイナーは突如店を豪華に改造し、食器からドアノブなどのすべてを銀製品に変更した。言論統制・王政復古の影響で、作家をはじめ文化人には生きにくい世の中ではあったが、「黄金の自由」がない分「銀の館」で満足しようと「カフェ白銀館」には多くの著名人が訪問して、この時代を代表する文学カフェとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1846年二代目店主ノイナーの死後、文化人・芸術家は徐々に「カフェ・白銀館」から離散して、1848年ビーダーマイヤー時代の終焉とともにこの時代を代表した文学カフェも1855年に閉店した。（詳細はリンク先「カフェ・白銀館」を参照） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;　「カフェ・フーゲルマン Cafe Hugelmann」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　市の北部、ドナウ運河に架かるシュラーク橋（現在のシュヴェーデン橋）のたもとのレオポルトシュタット Leopoldstadt地区にあった２軒のカフェを1764年フランツ・フーゲルマン Franz Hugelmannが譲り受け、１軒の大型豪華カフェに大改装をした。一階に大きなビリヤードホールがあり、ニコラウス・レーナウ Nikolaus Lenau、フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimund、エドゥアルト・フォン・バイエルンフェルト Eduard von Bauernfeldらの文化人・芸術家が玉突きに興じており、「ビリヤード大学」の異名でも呼ばれたていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ワーグナー  Cafe Wagner」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「カフェ・フーゲルマン」の向かいに、イグナーツ・ワーグナー Ignaz Wagnerが開業した宮殿のような大型の豪華カフェ。作家のフェルディナント・ライムントはこのカフェの娘「トニー」に恋をするが、貧乏作家に娘はやれぬと父親に反対され、この恋は実らなかったという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ライベンフロスト Café Lambenfurost」：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「カフェ・白銀館」の隣にあった芸術家が集うカフェで、俳優フリードリヒ・ミッターヴァルツァー Friedrich Mitterwurzer、画家のヨーゼフ・ダンハウザー Josef Franz Danhauser、同アウグスト・フォン・ペッテンコーフェン August von Pettenkofenらが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC&amp;diff=49676</id>
		<title>ビーダーマイヤー</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC&amp;diff=49676"/>
		<updated>2026-03-03T18:08:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;ビーダーマイヤー　Biedermeier　：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　１９世紀前半のドイツ・オーストリアを中心に生まれた「もっと日常的なものに目を向けよう」とした市民文化の形態。ビーダーマイヤーとは、ドイツの風刺雑誌「フリーゲンテ・ブレッター」に発表された作品に登場する、小学校教師の名前「ゴットリープ・ビーダーマイヤー先生」に由来しており、政治にかかわらず、堅実な日常を重視する当時の小市民生活を揶揄する言葉であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ナポレオンの占領下では市民社会という概念が普及し始めたが、それに対抗するオーストリア政府は厳しい言論統制を強いた。さらに、ナポレオン戦争の後1815年の「ウィーン会議」を経て、オーストリア首相メッテルニヒ Klemens von Metternichのもとで全ヨーロッパは王政復古政治が推進された。権力による圧力のもと、市民には「政治への無関心」・「現実逃避」の風潮が生まれた。この時代の市民の生活文化を総称して、ビーダーマイヤー時代と呼ばれるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、この時代に愛用された装飾の少ない実用的な建築・家具・服飾が、後年ビーダーマイヤー様式と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　絵画では宗教的・歴史的なモチーフを排除する作風で、カール・シュピッツヴェーク Carl Spitzweg、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミューラー Ferdinand Georg Waldmüllerらの作品が有名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　音楽においてはビーダーマイヤー時代という区分はあまりしないが、家庭やサロンで軽やかで慎ましいピアノ曲・四重奏曲・歌曲などが演奏された時期にあたる。この時代を生きた作曲家の中では、フランツ・シューベルト Franz Peter Schubertが最も影響を受けたといわれている。一方政治思想から離れて、ワルツを踊り楽しむヨハン・シュトラウス一世  Johann Strauss Ⅰやヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍した時代でもあった。&lt;br /&gt;
詩人のニコラス・レーナウ Nikolaus Lenau、劇作家フランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzer、作家フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimundもこの時代の人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1848年フランスで二月革命が起きると、その余波はヨーロッパ各地に及び、オーストリア・ドイツにおいても自由主義を目指す三月革命騒ぎが起きて、「ウィーン会議」以降の社会秩序は崩壊に向かう。これと同時にビーダーマイヤー時代も終焉を迎えた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『ウィーンのカフェ』　平田達治著　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：ビーダーマイヤー　（日本語版・ドイツ語版）　&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC&amp;diff=49675</id>
		<title>ビーダーマイヤー</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC&amp;diff=49675"/>
		<updated>2026-03-03T18:04:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: コラムの追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;ビーダーマイヤー　Biedermeier&lt;br /&gt;
１９世紀前半のドイツ・オーストリアを中心に生まれた「もっと日常的なものに目を向けよう」とした市民文化の形態。ビーダーマイヤーとは、ドイツの風刺雑誌「フリーゲンテ・ブレッター」に発表された作品に登場する、小学校教師の名前「ゴットリープ・ビーダーマイヤー先生」に由来しており、政治にかかわらず、堅実な日常を重視する当時の小市民生活を揶揄する言葉であった。&lt;br /&gt;
ナポレオンの占領下では市民社会という概念が普及し始めたが、それに対抗するオーストリア政府は厳しい言論統制を強いた。さらに、ナポレオン戦争の後1815年の「ウィーン会議」を経て、オーストリア首相メッテルニヒ Klemens von Metternichのもとで全ヨーロッパは王政復古政治が推進された。権力による圧力のもと、市民には「政治への無関心」・「現実逃避」の風潮が生まれた。この時代の市民の生活文化を総称して、ビーダーマイヤー時代と呼ばれるようになる。&lt;br /&gt;
また、この時代に愛用された装飾の少ない実用的な建築・家具・服飾が、後年ビーダーマイヤー様式と呼ばれる。&lt;br /&gt;
絵画では宗教的・歴史的なモチーフを排除する作風で、カール・シュピッツヴェーク Carl Spitzweg、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミューラー Ferdinand Georg Waldmüllerらの作品が有名。&lt;br /&gt;
音楽においてはビーダーマイヤー時代という区分はあまりしないが、家庭やサロンで軽やかで慎ましいピアノ曲・四重奏曲・歌曲などが演奏された時期にあたる。この時代を生きた作曲家の中では、フランツ・シューベルト Franz Peter Schubertが最も影響を受けたといわれている。一方政治思想から離れて、ワルツを踊り楽しむヨハン・シュトラウス一世  Johann Strauss Ⅰやヨーゼフ・ランナー Joseph Lannerが活躍した時代でもあった。&lt;br /&gt;
詩人のニコラス・レーナウ Nikolaus Lenau、劇作家フランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzer、作家フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimundもこの時代の人物である。&lt;br /&gt;
　1848年フランスで二月革命が起きると、その余波はヨーロッパ各地に及び、オーストリア・ドイツにおいても自由主義を目指す三月革命騒ぎが起きて、「ウィーン会議」以降の社会秩序は崩壊に向かう。これと同時にビーダーマイヤー時代も終焉を迎えた。&lt;br /&gt;
　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
・『ウィーンのカフェ』　平田達治著　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
・Wikipedia：ビーダーマイヤー　　&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49674</id>
		<title>＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？</title>
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		<updated>2026-03-03T17:58:32Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[コラム]　コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「コルシツキー伝説」とは&lt;br /&gt;
1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache）」を開業した。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。&lt;br /&gt;
　「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
謎多い人物コルシツキー&lt;br /&gt;
　コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。&lt;br /&gt;
伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アルメニア人は英雄&lt;br /&gt;
　次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人＝コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィーンのカフェの始まりの真実&lt;br /&gt;
史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年（1685年説もある）にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。&lt;br /&gt;
　また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。&lt;br /&gt;
　これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化&lt;br /&gt;
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。&lt;br /&gt;
時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』　大修館書店　1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ・ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』　&lt;br /&gt;
平田達治・友田和秀　訳　大修館書店　2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E7%93%B6%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%BD%9C%E3%82%8A%E8%A9%B1%EF%BC%9F&amp;diff=49673</id>
		<title>＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？</title>
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		<updated>2026-03-03T17:55:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: コラムの追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[コラム]　コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「コルシツキー伝説」とは&lt;br /&gt;
1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶（ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache）」を開業した。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。&lt;br /&gt;
　「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
謎多い人物コルシツキー&lt;br /&gt;
　コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。&lt;br /&gt;
伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アルメニア人は英雄&lt;br /&gt;
　次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人＝コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィーンのカフェの始まりの真実&lt;br /&gt;
史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年（1685年説もある）にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。&lt;br /&gt;
　また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年（1694年説もある）に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。&lt;br /&gt;
　これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化&lt;br /&gt;
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。&lt;br /&gt;
時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：　&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』　　　　　　大修館書店　　1996年&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ・ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』　&lt;br /&gt;
平田達治・友田和秀　訳　　　　　大修館書店　　2000年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
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		<title>コーヒー歴史年表</title>
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		<updated>2026-03-01T17:57:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!15世紀以前&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|約1400万年前&lt;br /&gt;
|[[コフィア属]]（[[コーヒーノキ]]）の祖先がアフリカ大陸（中央アフリカ）に生まれる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1000万〜500万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[コフィア属]]（[[アラビカ種]]、[[カネフォラ種]]、[[ユーゲニオイデス種]]、[[リベリカ種]]等）の祖先がアフリカ大陸の各地域の気候に適応して分岐。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|数100万〜数10万年前&lt;br /&gt;
|ビクトリア湖北西部に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配して自家受粉可能な四倍体の[[アラビカ種]]の祖先が生まれる。コラム：[[＊アラビカ種の誕生と旅立ち]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|100万〜1万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[アラビカ種]]の直接の祖先が、[[エチオピア高原]]に生き残る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|紀元前3世紀&lt;br /&gt;
|[[エチオピア]]で山羊飼いカルディがコーヒーを発見（伝説）？（[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9〜11世紀&lt;br /&gt;
|ペルシャの医師・哲学者[[アル・ラーズィー（ラーゼス）]]と[[イブン・スィーナー（アヴィセンナ）]]が、薬としてコーヒー（ブン、ブンカ、ブンクム）について記述？[[＊コラム：コーヒーを薬として使用？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|13世紀半ば&lt;br /&gt;
|イスラムの修道僧[[シェイク・オマル]]が[[モカ]]の山中でコーヒー発見（伝説）？　＊コラム：シェイク・オマルのコーヒー発見伝説&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!15世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1454年頃&lt;br /&gt;
|[[アデン]]の律法学者[[シェイク・ジェマレディン]]（ザブハーニー）がコーヒーの効用を知り、イスラムの修道僧の間に広める。＊コラム：最初はどんなコーヒーを飲んだのか？＊コラム：コーヒーとワイン、カート&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀半ば&lt;br /&gt;
|この頃[[モカ]]の東、[[イエメン]] の山中でコーヒーの栽培始まる？　[[*コラム:いつコーヒーの栽培が始まったのか？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1470年頃&lt;br /&gt;
|[[シェイク・ジェマレディン]]死去。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀末&lt;br /&gt;
|コーヒーの飲用がメッカ、メディナなどアラビア半島南部に広まる。ほぼ同時期にカフェも現れる[コラム]スーフィーによるイスラム世界へのコーヒーの伝播。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!16世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1510年頃&lt;br /&gt;
|コーヒーがカイロに広まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1511年&lt;br /&gt;
|メッカで最初のコーヒー、カフェ弾圧。[コラム]イスラム世界でのコーヒー論争と弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1517年&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝[[セリム一世]]がエジプト征服（マムルク朝）。コーヒーがカイロからコンスタンチノープルに伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1530年頃&lt;br /&gt;
|ダマスカスにコーヒー伝わる。カフェ「バラ」「救済の門」ができる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1532年頃&lt;br /&gt;
|アレッポにコーヒー伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1534年&lt;br /&gt;
|カイロでコーヒー反対運動起こる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1554年&lt;br /&gt;
|コンスタンチノープルにカフェ（トルコではカフェ・カネ）ができる。[コラム]コンスタンティノープルのカフェの姿。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16世紀半ば&lt;br /&gt;
|[[トルコ式コーヒー]]の形態（焙煎、粉砕、抽出、サーヴィス方法）が完成。[[＊コラム：トルコ式コーヒーの器具と抽出法]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1570年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝セリム二世（在位1566〜74）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1580年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝ムラト三世（在位1574〜92）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1582(3)年&lt;br /&gt;
|ドイツの医師・植物学者[[レオンハルト・ラウヴォルフ]]が著作（『[[東方諸国への旅Journey into the eastern countries|東方諸国への旅]]』）の中でコーヒーについて言及。ヨーロッパで初めて印刷物中にコーヒーが登場。[コラム]コーヒーのヨーロッパへの紹介者たち。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1585年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアのトルコ大使、ジャンフランチェスコ・モロシーニ、ヴェネチア評議会にトルコでのコーヒー飲用について報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1587年&lt;br /&gt;
|[[アブダル・カディール]]『[[アブダル・カディールの書|コーヒーの合法性の擁護]]』を著述。現存する最古のコーヒー書。[コラム]アブダル・カディールの写本の翻訳と概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1588年頃&lt;br /&gt;
|[[シャー・アッバス]]の治世（1588〜1629年）には、ペルシャにカフェが存在したとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1592年&lt;br /&gt;
|[[プロスペロ・アルピーニ]]、[[『エジプトの植物』]]出版。コーヒーの木のデッサンと記述。[コラム]イタリアのコーヒーへの関心の高まり&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1595年&lt;br /&gt;
|[[バルダヌス]]『[[リンスホーテン]]の旅』の注でコーヒーに関して記述。イギリスで初めてのコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!17世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|インドのイスラムの巡礼者[[ババ・ブダン]]がモカからマイソールにコーヒーを持ち帰る（伝説？1640年、1695年頃という説も）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|ローマ教皇[[クレメンス八世]]、コーヒーに洗礼を施す（？伝説）。[[＊コラム：クレメンス八世のコーヒー洗礼は本当か？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1602年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、『[[旅と冒険]]』でコーヒーについて記述。[コラム]イギリス の知識人のコーヒーへの関心の高まりと著作。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1607年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、バージニア植民地にコーヒーを持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1609年&lt;br /&gt;
|ウィリアム・ビダルフ、『ある英国人たちのアジア、アフリカその他の地への旅行記』出版。コーヒーについて詳細な記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1610年&lt;br /&gt;
|（オランダ、ヨーロッパに初めて中国、日本から茶を輸送）。[コラム]陶磁器（コーヒーカップ）のヨーロッパへの輸出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1614年&lt;br /&gt;
|[[ピエトロ・デッラ・ヴァッレ]]がコーヒーをヴェネツィアに持ち帰る。？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1616年&lt;br /&gt;
|オランダが[[モカ]]から初めてヨーロッパにコーヒーを輸送。1640年に商業的に輸入が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1620年&lt;br /&gt;
|ピルグリム・ファーザーズ、アメリカ入植。コーヒー器具を持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1623年&lt;br /&gt;
|フランシス・ベーコン、『死生論』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1632年&lt;br /&gt;
|ロバート・バートン、『メランコリーの解剖学』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1644年&lt;br /&gt;
|[[ピエール・ド・ラ・ローク|ド・ラ・ローク]]、トルコからマルセイユにコーヒー器具を持ち帰る。[[＊コラム:フランスのコーヒーへの関心の高まり。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1645年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアに最初のカフェ開店（コーヒーが一般化）？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|トルコの使節団がウィーンにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1649年&lt;br /&gt;
|（清教徒革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年&lt;br /&gt;
|オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウス（「[[ジェイコブズ]]」）開業。　[[＊コラム：ヨーロッパ諸国のカフェの始まり]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年頃&lt;br /&gt;
|この頃に[[シリンダー型焙煎機]]が登場。　[[＊コラム：17～18世紀のコーヒー焙煎機。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1652年&lt;br /&gt;
|アルメニア人[[パスカ・ロゼ]]、ロンドン初のコーヒーハウス開業。以後、続々とコーヒーハウスが誕生し、17世紀末には3000軒を数える。[[＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯|＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1656年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコの大宰相[[キョプリュリュ]]（・メフメト・パシャ）によるカフェ弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年以前&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・ファー]]、「[[レインボウ]]」を開業(ロンドン）。ロンドンで２番目のコーヒー・ハウス。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|スウエーデンの旅行家[[クレス・ロラン]]、トルコを使節として訪問。コーヒーの飲み方を報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|「[[ギャラウェイズ|ギャラウェイズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）で茶の販売広告¸　[[＊コラム：コーヒーハウスと茶、チョコレート]]  [[コーヒーハウスと広告の誕生|＊コラム：コーヒーハウスと広告の誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|[[ジャン・ド・テヴノー]]、パリにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1658年&lt;br /&gt;
|オランダ、モカから[[セイロン島（スリランカ）]]へコーヒーを移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）に[[ロータ・クラブ]]設立。 [[＊コラム：コーヒーハウスとクラブ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーが売られる（薬屋）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。（〜1749年） [[＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1664年&lt;br /&gt;
|ハーグにオランダ初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|（ロンドンでペスト大流行。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人の[[ニコラス・ブック]]、コーヒー専用のミルを開発。　[[＊コラム：コーヒー・グラインダー（ミル）の変遷。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1666年&lt;br /&gt;
|ロンドン大火。レンガ作りで再建。続々とコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：代用貨幣の発行]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1668年&lt;br /&gt;
|アメリカ最初のコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|トルコの大使[[ソリマン・アガ]]がコーヒーを携えてパリに赴任。上流階級の間でコーヒーがブームになる。[[＊コラム：セヴィニェ夫人とフランス宮廷人のコーヒー観。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|ロンドンにロイヤル・エクスチェンジ（商品取引市場）開設。近辺に多数のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1670年&lt;br /&gt;
|[[ノワンテル侯爵]]、フランス大使としてトルコ訪問¸（1670〜79年）。[[アブダル・カディールの書]]、[[ビチヴィリの写本]]を持ち帰り、ルイ一四世に献上。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|ローマのオリエント語教師[[ファウスト・ナイロニ]]が著作の中で[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]を紹介。[[＊コラム：「山羊飼いコーヒー発見伝説」の真実]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]にフランス初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]]『[[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して』|コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して]]』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[ヘンリー・ブラント]]（コーヒー・ハウスの父、と呼ばれる）、『レバントへの旅』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1672年&lt;br /&gt;
|パリに最初のカフェ。アルメニア人[[パスカル]]が露店のカフェを開業。[[＊コラム:「カフェ・プロコプ」以前のカフェ]] [[＊コラム：コーヒーの呼び売りカンディオ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674年&lt;br /&gt;
|ロンドンで女性たちによるコーヒー禁止の請願。[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674〜88年&lt;br /&gt;
|ロベール・ボナール（Robert Bonnart）の版画シリーズ（貴族Homme de quarité¸)にコーヒーを飲む貴族の数点のポートレイト。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1675年&lt;br /&gt;
|[[チャールズ二世]]、コーヒー・ハウス禁止令。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1676年&lt;br /&gt;
|ルイ一四世によりカフェのギルド（カフティエ＝リモナディエ＝ディスティラトゥール）のギルド認可。[コラム]ギルドの排他特権とカフェの商品アイテム&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|ハンブルクにカフェが開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーの薬効について論争。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|[[コルシツキー]]がウィーン初のカフェ「[[青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）]]」開業（作り話？）。[[＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|ヴェネツィアのサン・マルコ広場にカフェがあったとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年頃&lt;br /&gt;
|この頃ロンドンに3000軒のコーヒーハウスとの記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]][[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関する新たな興味をそそる論説』]]刊行&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1686年&lt;br /&gt;
|「プロコプ」開業（パリ）。フランスのカフェの原型となる。[コラム]「プロコプ」を巡って&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|「[[ロイズ|ロイズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。 [コラム][[コラム：ロイズを巡って|「ロイズ」を巡って]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|[[ヨハネス・ディオダド]]、ウィーンにカフェ開業。ウィーンの最初のカフェか。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|（名誉革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|ボストンにニュー・イングランド初のコーヒーハウス（「ロンドン・コーヒーハウス」）開業。 [[＊コラム：ボストンの初期のコーヒーハウス]]　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年　&lt;br /&gt;
|（イギリス東インド会社が初めて中国から直接イギリスに茶を輸送）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|ストックホルムに２軒のカフェ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ローラン]]」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1694年&lt;br /&gt;
|ライプチッヒに初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1696年&lt;br /&gt;
|ニューヨークに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：ニューヨークの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1698年頃&lt;br /&gt;
|「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|オランダが[[ジャワ]]にインドのマラバールからコーヒーの苗木を運び、移植に成功。[コラム]イエメンからのコーヒー栽培の伝播¸と経路&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|[[アントワーヌ・ガラン]]、『[[コーヒーの起源と伝播]]』を著述。『[[アブダル・カディールの書]]』の抄訳。[コラム]『アブダル・カディールの書』のガラン抄訳について&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!18世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年&lt;br /&gt;
|フィラデルフィアに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：フィラデルフィアの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年頃&lt;br /&gt;
|「[[トムズ|トムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年&lt;br /&gt;
|「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からアムステルダムにコーヒーの苗木を移送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1709年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]『[[タトラー]]』創刊。 [[＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からオランダにコーヒーを輸送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]、[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[スペクテイター]]』創刊&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1712年&lt;br /&gt;
|「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|アムステルダム市からルイ一四世にコーヒーの苗木を献呈。[[パリ植物園|パリ王立植物園]]に移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|（ジョージ一世がイギリス国王に。ハノーヴァー朝の成立）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|プラハ初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|（ルイ一四世崩御。ルイ一五世即位。オルレアン公が摂政に）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・パレ・ロワイヤル」が、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」に改名。豪華カフェに生まれ変わる（パリ）。[コラム①]ジュール・ミシュレ『フランス史・レジャンス』から　[コラム②]カフェとゲーム（チェス）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|ジャン・ド・ラ・ローク『幸福なアラビアの旅』刊行。コーヒーに関しての記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]と[[ドミニカ]]にコーヒー栽培が伝わる（[[ド・クリュー]]と別ルート）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|フランス、[[モカ]]からコーヒーを[[ブルボン島]]（現レユニオン島）に移植し栽培に成功。ブルボン種の祖といわれる。[コラム]ブルボン島へのコーヒー移植の経緯。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|パリに300軒のカフェ。[コラム]フランス革命以前のパリのカフェ事情&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1718年&lt;br /&gt;
|[[スリナム]]にコーヒー栽培が伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1720年&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・フローリアン」開業（ヴェネツィア）。[コラム]サン・マルコ広場のカフェ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1721年&lt;br /&gt;
|ベルリンに初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1723年&lt;br /&gt;
|[[ガブリエル・ド・クリュー]]、パリ王立植物園のコーヒーの苗木を[[マルティニーク]]島に運び栽培に成功。ここからコーヒー栽培がカリブ海・中米諸国に伝わる（ティピカ種の祖）。[コラム]マルティニーク島へのコーヒー移植の経緯&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]島が[[モカ]]に代わって世界最大のコーヒー生産地に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・クワドリ」開業（ヴェネツィア）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フォワ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1727年&lt;br /&gt;
|フランシスコ・パリェッタがフランス領ギアナからパラにコーヒーを持ち帰り、移植に成功。＊コラム：[[ブラジルのコーヒー栽培の始まり]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年頃&lt;br /&gt;
|ハイチ島で本格的にコーヒーの栽培が始まる。18世紀後半には世界最大の生産地に。[コラム①]黄金の島、ハイチ（サン＝ドマング）　[コラム②]コーヒーと奴隷貿易&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年&lt;br /&gt;
|[[ジャマイカ]]でコーヒーの栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750頃～&lt;br /&gt;
|[[カリブ海、中南米諸国にコーヒーの栽培が伝わる]]。キューバ1748年、グァテマラ1760年頃、コスタリカ1774年、ベネズェラ1784年、メキシコ1790年頃、コロンビア18世紀末。コーヒー栽培が本格化するのは19世紀後半以降。[コラム]中南米、[[カリブ海諸国]]へのコーヒーの伝播&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1734年頃&lt;br /&gt;
|J.S.バッハ、ライプチッヒの「[[カフェ・ツィンマーマン]]」で「[[コーヒー・カンタータ]]」初演。[[＊コラム①：コーヒークレンツヒェンと女性へのコーヒーの流行（ドイツ）]][[＊コラム②：「コーヒー・カンタータ」解釈]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1737年&lt;br /&gt;
|「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」開業（ニューヨーク）。 [[＊コラム：植民地時代のアメリカ社会とコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750年&lt;br /&gt;
|カルロ・ゴルドーニの『ボデガ・デル・カフェ』ヴェネツィアで初演。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|『百科全書』の刊行始まる（〜1772年）。[コラム]百科全書の刊行と「プロコプ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|[[ウィリアム・ホガース]]画『[[ビール通りとジン横丁]]』を発表。＊[[コラム：18世紀ロンドンの居酒屋事情]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1752年&lt;br /&gt;
|「[[ラネラ・ガーデン]]」開業（ロンドン）。[[＊コラム：ロンドンのティーガーデン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|「カフェ・グレコ」開業（ローマ）。[コラム]「カフェ・グレコ」は「カフェ・テデスコ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|[[ブラジルのリオでコーヒー栽培が始まる]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年頃&lt;br /&gt;
|フランスで布で漉す浸漬式の抽出法が普及し始める（ボイル式も継続して行われる）。[コラム]抽出法の多様化&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1764年&lt;br /&gt;
|ミラノで文学誌『イル・カフェ』発刊。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1773年&lt;br /&gt;
|[[ボストン茶会事件]]。コーヒーがアメリカの国民飲料になるきっかけとなる。[コラム]ボストン・ティーパーティーとコーヒー。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1776年&lt;br /&gt;
|（アメリカ独立宣言）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1777年&lt;br /&gt;
|プロイセンのフリードリヒ２世（大王）、コーヒーの使用を制限する布告。[コラム]コーヒー禁止の影響&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|（パレ・ロワイヤルの改装完成（1781年〜））。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|ベネズエラにコーヒー栽培伝わる。1789年に輸出開始、栽培本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1785年頃〜&lt;br /&gt;
|オルレアン公（ルイ・フィリップ・ジョゼフ）がパレ・ロワイヤル改装し、賃貸（パリ）。パレ・ロワイヤルにカフェが集積。フランス革命時には各党派の活動の舞台ともなる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1788年頃&lt;br /&gt;
|この頃パリのカフェ、1700軒を数える。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|（フランス革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|カミーユ・デムーラン、「カフェ・ド・フォワ」のテラスでアジ演説。バスティーユへの行進のきっかけに（フランス革命の発火点）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|ニューヨークの「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」の前でジョージ・ワシントンの歓迎式典が行われる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1790年頃&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤルに次々にカフェ、レストランが開業。パリ随一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|ハイチで反乱発生。内乱でコーヒー生産に大打撃。[コラム]ハイチの独立とコーヒー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|「カフェ・リーシュ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1798年&lt;br /&gt;
|「トルトーニ（カフェ）」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1799年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アルディ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!19世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|ドリップ式のコーヒー器具、ド・ベロワのコーヒー・ポット登場。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|（中国で紅茶＝工夫茶の製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃〜&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤル繁栄の全盛期（1830年頃まで）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|アメリカが世界最大のコーヒー消費国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|スマトラ、セレベスなどでコーヒー栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1802年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アングレ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|(ナポレオン、皇帝に即位。第一帝政始まる)。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]が独立（史上初の黒人共和国）。フランス、コーヒーの覇権を失う。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|ナポレオン、大陸封鎖令。コーヒーが不足し、代用コーヒーが横行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・ド・サシ]]、[[アブダル・カディールの書]]（『コーヒーの合法性の擁護』）を部分訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年&lt;br /&gt;
|(フランス、ナポレオンが退位し、王政復古。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃&lt;br /&gt;
|ブラジルの[[フルミネンセ]]（リオデジャネイロ）でコーヒー生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃〜&lt;br /&gt;
|オーストリア、[[ビーダーマイヤー]]時代（〜48年）。[[＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ]]　[[＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール]]　[[＊コラム③：作曲家が通ったカフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1816年&lt;br /&gt;
|メキシコでコーヒーの商業的栽培始まる。栽培の本格化は1870年代から。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1823年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサム地方で茶の木（アッサム種）発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年&lt;br /&gt;
|(フランス、七月王政。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年頃&lt;br /&gt;
|イタリア通りにカフェ＝レストランが集積。次第にパレ・ロワイヤルに代わりパリ一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1832年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ペドロッキ」開業（イタリア・パドヴァ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1835年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・クランツラー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1838年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサムで紅茶の製造始まる。続いてダージリンでも紅茶を製造（1841年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1839年&lt;br /&gt;
|バルザック『近代興奮剤考』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|（アヘン戦争始まる〜1842年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|[[ジャン＝ピエール・プジョー]]が金属製のコーヒー・ミルを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人ロバート・ナピアーがサイフォンを発明。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1843年&lt;br /&gt;
|コスタリカ、他の中米諸国に先駆けコーヒー輸出を本格的に開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：ウィーンの文学カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジェイムズ・カーター]]がプル・アウト式焙煎機を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1848年&lt;br /&gt;
|フランス、第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領に（1852〜第二帝政）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷貿易を禁止。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～1870年頃&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培の黄金時代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～&lt;br /&gt;
|この頃から中米のコーヒー栽培が本格化。先行するコスタリカについでグァテマラ（1850年頃）、エルサルバドル（1852年）、ニカラグァ（1860年代）がコーヒー栽培に取り組み、1870年代から輸出が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃〜&lt;br /&gt;
|（ティー・レース始まる。〜1870年頃）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（フランス、第二帝政。ルイ・ナポレオンが皇帝に。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（オスマンのパリ大改造始まる（〜1870年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1855年&lt;br /&gt;
|（フランス、第一回パリ万博（1867：第二回、1878：第三回））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1858年&lt;br /&gt;
|ヴィクトリア湖の南で[[カネフォラ種|ロブスタ]]発見。新種として報告せず。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年&lt;br /&gt;
|（アメリカ南北戦争（〜65年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が軌道に乗る。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|（イタリア王国成立。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|アフリカで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1862年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・ペ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1864年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、新型焙煎機を開発（現在の焙煎機の原型）。[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|ジョン・アーバックル、初めてパック詰めにしたコーヒー「アリオーサ」を販売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|「[[ロイヤル・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績|グラニュレーターとコーヒー冷却器を開発]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[セイロン島（スリランカ）|セイロン島（現スリランカ）]]で[[さび病]]発生。コーヒーの生産は19世紀末までに壊滅。徐々に茶に切り替わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|インドのニルギリで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|ドイツのエメリッヒにエメリッヒ社創設（のちの焙煎機メーカー、[[プロバット社]]）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|（普仏戦争に敗北。第三共和制へ。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジョン・ベーカー]]が業務用ミル『エンタープライズ』を開発。　[[＊コラム：業務用コーヒー・ミル開発の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1871年&lt;br /&gt;
|（ドイツ統一）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1873年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・インペリアル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|リベリアで[[リベリカ種]]発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|（日本で紅茶製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・バウアー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃～&lt;br /&gt;
|ブラジル・サンパウロ地方で[[ブルボン種]]導入始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアのコーヒー栽培が本格化。1880年代から生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ツェントラル]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ|ジャワ島]]、スマトラ島で[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1878年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、コーヒー、紅茶、香辛料を扱う業界誌『スパイス・ミル』刊行を始める。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・シュペール]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年頃～&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培が徐々に衰退。1888年の奴隷解放により決定的打撃を受ける。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1882年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアの中央高地でコーヒーの栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1881年&lt;br /&gt;
|ニューヨーク・コーヒー取引所開設。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1883年&lt;br /&gt;
|（セイロン＝スリランカからの紅茶輸出始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1884年&lt;br /&gt;
|この年から、サンパウロを中心にコロノスとしてイタリア移民の導入が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「シャ・ノワール」移転して新装開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ドゥ・マゴ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[さび病]]蔓延。生産が減少。[[リベリカ種|リベリカ]]への植え替えが進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1887年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フロール」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1888年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷制廃止。農園からの奴隷の逃亡により、リオのコーヒー生産に壊滅的打撃。コーヒー生産の中心はサンパウロ州に移る&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|サンパウロ州が世界最大のコーヒー生産地に。90年代にはブラジルは世界生産量の70〜80％を占める（ブラジルの総輸出の60〜70％）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地、イタリア通りからモンマルトルへ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1893年&lt;br /&gt;
|ジョウエル・チーク、ジョン・ニールとチーク＝ニール・コーヒー社（「マックスウェル・ハウス」）をナッシュビルで設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1895年&lt;br /&gt;
|ヨハン・ヤコブス、ブレーメンにコーヒー店開業。（のちのヤコブス社）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|ローランがコンゴで[[カネフォラ種|ロブスタ]]を発見。カネフォーラ種と命名。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|「カフェ・デス・ヴェステンス」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|加藤サルトリがシカゴでインスタント・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ムゼウム]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|サンフランシスコにブランデンシュタイン兄弟（4人）がMJBコーヒー社設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|ドイツの[[ゴットホット社]]、高速焙煎機「イデアル・ラピッド」を開発。　[[＊コラム：熱風式焙煎機の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!20世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年&lt;br /&gt;
|ヒルズ・ブラザーズ社、真空包装缶のコーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[カネフォラ種|ロブスタ]]の栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|中南米諸国がコーヒーを大増産。中米諸国は次第にコーヒーのモノカルチャー化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が中国を圧倒）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ケニアにレ・ユニオン島からコーヒーを移植、栽培が始まる。続いてタンザニアも栽培開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|イタリア人、ベゼラが蒸気圧による抽出器を発明。エスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ブラジル、コーヒー大豊作。世界のコーヒー生産量の81％に達する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1906年&lt;br /&gt;
|ルートヴィヒ・ロゼリウス（ドイツ）、カフェインレスコーヒーの特許を取得、会社を設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1907年&lt;br /&gt;
|コーヒー価格の暴落により、ブラジル政府がコーヒー買い上げ（ヴァロリゼーション）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|ドイツで[[メリタ・ベンツ]]がペーパー・ドリップによる抽出器具を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|（トマス・サリヴァン、ティーパック発明）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1914年&lt;br /&gt;
|（第一次世界大戦始まる。〜1918年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1916年&lt;br /&gt;
|「ロマニッシェスカフェ」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大霜害。コーヒーの相場が急騰。ヨーロッパの需要回復も要因。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年&lt;br /&gt;
|ドイツのエミリッヒ社（後の[[プロバット社]]）、現在のドラム式焙煎機の原型となる「プロバット・コール・コースター」を開発。　[[＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ|＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年頃&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地がモンパルナスへ。（狂乱の時代（〜1930頃））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1922年&lt;br /&gt;
|ウィリアム.H.ユーカーズ『オール・アバウト・コーヒー』を刊行（1935年・第2版）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1924年&lt;br /&gt;
|エドゥアルト・ショプッフ、ドイツ・ブレーメンにエドショー社を設立（通信販売）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1925年頃〜&lt;br /&gt;
|ケニア、タンザニア、ウガンダなどアフリカのヨーロッパ植民地でコーヒー生産が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1927年&lt;br /&gt;
|コロンビアが世界第２位のコーヒー生産国に。コロンビア・コーヒー連盟FNC設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1929年&lt;br /&gt;
|（大恐慌。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1931年〜&lt;br /&gt;
|エルサルバドルに独裁政権（エルナンデス・マルティネス）誕生。その後グァテマラ（1931年）、ニカラグァ（193４年）、ホンジュラス（1932年）で独裁政権が誕生。コーヒー生産は進展したが、土地の集中化が進み、貧富の格差が増大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1933年&lt;br /&gt;
|（ナチス、政権掌握）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1934年&lt;br /&gt;
|ブラジル、過剰生産によりコーヒーを焼却。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1937年&lt;br /&gt;
|ネスレ社がインスタントコーヒーを商品化（「ネスカフェ」）、翌年発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1941年&lt;br /&gt;
|第二次世界大戦（〜1945）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1947年&lt;br /&gt;
|ガジアがピストン方式のエスプレッソ・マシンを開発。現在のエスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1949～54年&lt;br /&gt;
|ブラジルの旱魃を引き金にコーヒー価格が上昇、アメリカで薄いコーヒーが蔓延し、インスタントコーヒーの需要が伸びる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|サン＝ジェルマン＝デ＝プレのカフェに実存主義者が集まる（サルトル、ボーボワール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|ヨーロッパの需要回復によりコーヒー価格が上昇。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1953年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害によりコーヒー減産。価格が急騰。アメリカでは薄いわゆるアメリカン・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1955年頃&lt;br /&gt;
|ニューヨークなどでエスプレッソ・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1956年&lt;br /&gt;
|西ヨーロッパのコーヒー消費量が第二次大戦前を上回る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1960年&lt;br /&gt;
|ブラジル、パラナ州のコーヒー生産量ががサンパウロ州を越える。生産地域の南下が顕著。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1962年&lt;br /&gt;
|第一次国際コーヒー協定（ICA)成立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1963年&lt;br /&gt;
|国際コーヒー機構（ICO）設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1966年&lt;br /&gt;
|[[アルフレッド・ピート]]がアメリカ・バークレーに「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」開業。スペシャルティコーヒーの先駆け。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1969年&lt;br /&gt;
|ＵＣＣ上島コーヒー、世界初の缶コーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1971年&lt;br /&gt;
|スターバックス、シアトルに開業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1974年&lt;br /&gt;
|エルナ・クヌッセン、スペシャルティ・コーヒーの概念を『ティー＆コーヒー・ジャーナル』誌上のインタビューで発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1975年&lt;br /&gt;
|ブラジル大霜害。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1976年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害の影響でICOが輸出総量割当制を実施。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年〜&lt;br /&gt;
|ニカラグァで「サンディニスタ」政権誕生。中米では続いてエルサルバドル、グァテマラでもゲリラの活動が活発化し、混乱の時代に。コーヒー生産も縮小傾向。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年&lt;br /&gt;
|スイスのコフェックス社がスイス・ウォーター方式のカフェインレス・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1980年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアでバリエダ・コロンビア品種導入、品質劣化へ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1982年&lt;br /&gt;
|アメリカスペシャルティコーヒー協会（SCAA）設立&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1983年頃～&lt;br /&gt;
|アメリカでのスペシャルティーコーヒーの市場が急速に拡大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大旱魃。翌年にコーヒーの相場が急騰。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年頃〜&lt;br /&gt;
|ブラジルのコーヒー栽培の中心が、ミナスジェライス州の高原地域（セラード）に移行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1990年頃～&lt;br /&gt;
|ヴェトナムでのコーヒー栽培（主に[[カネフォラ種|ロブスタ]]）が本格化。生産量が急速に拡大し2003年には世界第2位の生産国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1986年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックス社から独立し、エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ」を開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1987年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックスの商標を買収し、コーヒーチェーン展開を開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1995年&lt;br /&gt;
|SCAA、コーヒーフレーバーホイールを作成・発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年頃〜&lt;br /&gt;
|コーヒー生産におけるサスティナビリティ運動（認証コーヒー）が盛んに。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年&lt;br /&gt;
|オークションシステムによるカップ・オブ・エクセレンスのプロジェクト始まる。1999年に現行の方式に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!21世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2000年&lt;br /&gt;
|ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ始まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|現行の国際コーヒー協定発効。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|パナマ・オークションでゲイシャ種が最高値を更新。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002年&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・フリーマン]]、「ブルー・ボトル」開業。アメリカでサードウェーブのコーヒー流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005年頃〜&lt;br /&gt;
|パカマラ、ジャバ等のコーヒーの新品種の導入が盛んになる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|中米を中心に新タイプのナチュラル、ハニー（パルプド・ナチュラル）など新たな精製法の研究・開発が進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010年頃〜&lt;br /&gt;
|ラオス、タイ、ミャンマーなどアジア諸国でコーヒー栽培が盛んになる。&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8&amp;diff=49652</id>
		<title>コーヒー歴史年表</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8&amp;diff=49652"/>
		<updated>2026-03-01T17:49:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!15世紀以前&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|約1400万年前&lt;br /&gt;
|[[コフィア属]]（[[コーヒーノキ]]）の祖先がアフリカ大陸（中央アフリカ）に生まれる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1000万〜500万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[コフィア属]]（[[アラビカ種]]、[[カネフォラ種]]、[[ユーゲニオイデス種]]、[[リベリカ種]]等）の祖先がアフリカ大陸の各地域の気候に適応して分岐。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|数100万〜数10万年前&lt;br /&gt;
|ビクトリア湖北西部に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配して自家受粉可能な四倍体の[[アラビカ種]]の祖先が生まれる。コラム：[[＊アラビカ種の誕生と旅立ち]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|100万〜1万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[アラビカ種]]の直接の祖先が、[[エチオピア高原]]に生き残る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|紀元前3世紀&lt;br /&gt;
|[[エチオピア]]で山羊飼いカルディがコーヒーを発見（伝説）？（[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9〜11世紀&lt;br /&gt;
|ペルシャの医師・哲学者[[アル・ラーズィー（ラーゼス）]]と[[イブン・スィーナー（アヴィセンナ）]]が、薬としてコーヒー（ブン、ブンカ、ブンクム）について記述？[[＊コラム：コーヒーを薬として使用？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|13世紀半ば&lt;br /&gt;
|イスラムの修道僧[[シェイク・オマル]]が[[モカ]]の山中でコーヒー発見（伝説）？　＊コラム：シェイク・オマルのコーヒー発見伝説&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!15世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1454年頃&lt;br /&gt;
|[[アデン]]の律法学者[[シェイク・ジェマレディン]]（ザブハーニー）がコーヒーの効用を知り、イスラムの修道僧の間に広める。＊コラム：最初はどんなコーヒーを飲んだのか？＊コラム：コーヒーとワイン、カート&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀半ば&lt;br /&gt;
|この頃[[モカ]]の東、[[イエメン]] の山中でコーヒーの栽培始まる？　[[*コラム:いつコーヒーの栽培が始まったのか？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1470年頃&lt;br /&gt;
|[[シェイク・ジェマレディン]]死去。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀末&lt;br /&gt;
|コーヒーの飲用がメッカ、メディナなどアラビア半島南部に広まる。ほぼ同時期にカフェも現れる[コラム]スーフィーによるイスラム世界へのコーヒーの伝播。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!16世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1510年頃&lt;br /&gt;
|コーヒーがカイロに広まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1511年&lt;br /&gt;
|メッカで最初のコーヒー、カフェ弾圧。[コラム]イスラム世界でのコーヒー論争と弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1517年&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝[[セリム一世]]がエジプト征服（マムルク朝）。コーヒーがカイロからコンスタンチノープルに伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1530年頃&lt;br /&gt;
|ダマスカスにコーヒー伝わる。カフェ「バラ」「救済の門」ができる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1532年頃&lt;br /&gt;
|アレッポにコーヒー伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1534年&lt;br /&gt;
|カイロでコーヒー反対運動起こる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1554年&lt;br /&gt;
|コンスタンチノープルにカフェ（トルコではカフェ・カネ）ができる。[コラム]コンスタンティノープルのカフェの姿。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16世紀半ば&lt;br /&gt;
|[[トルコ式コーヒー]]の形態（焙煎、粉砕、抽出、サーヴィス方法）が完成。[[＊コラム：トルコ式コーヒーの器具と抽出法]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1570年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝セリム二世（在位1566〜74）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1580年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝ムラト三世（在位1574〜92）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1582(3)年&lt;br /&gt;
|ドイツの医師・植物学者[[レオンハルト・ラウヴォルフ]]が著作（『[[東方諸国への旅Journey into the eastern countries|東方諸国への旅]]』）の中でコーヒーについて言及。ヨーロッパで初めて印刷物中にコーヒーが登場。[コラム]コーヒーのヨーロッパへの紹介者たち。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1585年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアのトルコ大使、ジャンフランチェスコ・モロシーニ、ヴェネチア評議会にトルコでのコーヒー飲用について報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1587年&lt;br /&gt;
|[[アブダル・カディール]]『[[アブダル・カディールの書|コーヒーの合法性の擁護]]』を著述。現存する最古のコーヒー書。[コラム]アブダル・カディールの写本の翻訳と概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1588年頃&lt;br /&gt;
|[[シャー・アッバス]]の治世（1588〜1629年）には、ペルシャにカフェが存在したとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1592年&lt;br /&gt;
|[[プロスペロ・アルピーニ]]、[[『エジプトの植物』]]出版。コーヒーの木のデッサンと記述。[コラム]イタリアのコーヒーへの関心の高まり&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1595年&lt;br /&gt;
|[[バルダヌス]]『[[リンスホーテン]]の旅』の注でコーヒーに関して記述。イギリスで初めてのコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!17世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|インドのイスラムの巡礼者[[ババ・ブダン]]がモカからマイソールにコーヒーを持ち帰る（伝説？1640年、1695年頃という説も）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|ローマ教皇[[クレメンス八世]]、コーヒーに洗礼を施す（？伝説）。[[＊コラム：クレメンス八世のコーヒー洗礼は本当か？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1602年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、『[[旅と冒険]]』でコーヒーについて記述。[コラム]イギリス の知識人のコーヒーへの関心の高まりと著作。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1607年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、バージニア植民地にコーヒーを持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1609年&lt;br /&gt;
|ウィリアム・ビダルフ、『ある英国人たちのアジア、アフリカその他の地への旅行記』出版。コーヒーについて詳細な記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1610年&lt;br /&gt;
|（オランダ、ヨーロッパに初めて中国、日本から茶を輸送）。[コラム]陶磁器（コーヒーカップ）のヨーロッパへの輸出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1614年&lt;br /&gt;
|[[ピエトロ・デッラ・ヴァッレ]]がコーヒーをヴェネツィアに持ち帰る。？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1616年&lt;br /&gt;
|オランダが[[モカ]]から初めてヨーロッパにコーヒーを輸送。1640年に商業的に輸入が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1620年&lt;br /&gt;
|ピルグリム・ファーザーズ、アメリカ入植。コーヒー器具を持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1623年&lt;br /&gt;
|フランシス・ベーコン、『死生論』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1632年&lt;br /&gt;
|ロバート・バートン、『メランコリーの解剖学』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1644年&lt;br /&gt;
|[[ピエール・ド・ラ・ローク|ド・ラ・ローク]]、トルコからマルセイユにコーヒー器具を持ち帰る。[[＊コラム:フランスのコーヒーへの関心の高まり。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1645年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアに最初のカフェ開店（コーヒーが一般化）？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|トルコの使節団がウィーンにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1649年&lt;br /&gt;
|（清教徒革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年&lt;br /&gt;
|オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウス（「[[ジェイコブズ]]」）開業。　[[＊コラム：ヨーロッパ諸国のカフェの始まり]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年頃&lt;br /&gt;
|この頃に[[シリンダー型焙煎機]]が登場。　[[＊コラム：17～18世紀のコーヒー焙煎機。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1652年&lt;br /&gt;
|アルメニア人[[パスカ・ロゼ]]、ロンドン初のコーヒーハウス開業。以後、続々とコーヒーハウスが誕生し、17世紀末には3000軒を数える。[[＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯|＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1656年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコの大宰相[[キョプリュリュ]]（・メフメト・パシャ）によるカフェ弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年以前&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・ファー]]、「[[レインボウ]]」を開業(ロンドン）。ロンドンで２番目のコーヒー・ハウス。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|スウエーデンの旅行家[[クレス・ロラン]]、トルコを使節として訪問。コーヒーの飲み方を報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|「[[ギャラウェイズ|ギャラウェイズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）で茶の販売広告¸　[[＊コラム：コーヒーハウスと茶、チョコレート]]  [[コーヒーハウスと広告の誕生|＊コラム：コーヒーハウスと広告の誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|[[ジャン・ド・テヴノー]]、パリにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1658年&lt;br /&gt;
|オランダ、モカから[[セイロン島（スリランカ）]]へコーヒーを移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）に[[ロータ・クラブ]]設立。 [[＊コラム：コーヒーハウスとクラブ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーが売られる（薬屋）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。（〜1749年） [[＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1664年&lt;br /&gt;
|ハーグにオランダ初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|（ロンドンでペスト大流行。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人の[[ニコラス・ブック]]、コーヒー専用のミルを開発。　[[＊コラム：コーヒー・グラインダー（ミル）の変遷。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1666年&lt;br /&gt;
|ロンドン大火。レンガ作りで再建。続々とコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：代用貨幣の発行]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1668年&lt;br /&gt;
|アメリカ最初のコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|トルコの大使[[ソリマン・アガ]]がコーヒーを携えてパリに赴任。上流階級の間でコーヒーがブームになる。[[＊コラム：セヴィニェ夫人とフランス宮廷人のコーヒー観。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|ロンドンにロイヤル・エクスチェンジ（商品取引市場）開設。近辺に多数のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1670年&lt;br /&gt;
|[[ノワンテル侯爵]]、フランス大使としてトルコ訪問¸（1670〜79年）。[[アブダル・カディールの書]]、[[ビチヴィリの写本]]を持ち帰り、ルイ一四世に献上。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|ローマのオリエント語教師[[ファウスト・ナイロニ]]が著作の中で[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]を紹介。[[＊コラム：「山羊飼いコーヒー発見伝説」の真実]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]にフランス初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]]『[[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して』|コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して]]』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[ヘンリー・ブラント]]（コーヒー・ハウスの父、と呼ばれる）、『レバントへの旅』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1672年&lt;br /&gt;
|パリに最初のカフェ。アルメニア人[[パスカル]]が露店のカフェを開業。[[＊コラム:「カフェ・プロコプ」以前のカフェ]] [[＊コラム：コーヒーの呼び売りカンディオ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674年&lt;br /&gt;
|ロンドンで女性たちによるコーヒー禁止の請願。[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674〜88年&lt;br /&gt;
|ロベール・ボナール（Robert Bonnart）の版画シリーズ（貴族Homme de quarité¸)にコーヒーを飲む貴族の数点のポートレイト。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1675年&lt;br /&gt;
|[[チャールズ二世]]、コーヒー・ハウス禁止令。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1676年&lt;br /&gt;
|ルイ一四世によりカフェのギルド（カフティエ＝リモナディエ＝ディスティラトゥール）のギルド認可。[コラム]ギルドの排他特権とカフェの商品アイテム&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|ハンブルクにカフェが開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーの薬効について論争。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|[[コルシツキー]]がウィーン初のカフェ「[[青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）]]」開業（作り話？）。[[＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|ヴェネツィアのサン・マルコ広場にカフェがあったとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年頃&lt;br /&gt;
|この頃ロンドンに3000軒のコーヒーハウスとの記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]][[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関する新たな興味をそそる論説』]]刊行&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1686年&lt;br /&gt;
|「プロコプ」開業（パリ）。フランスのカフェの原型となる。[コラム]「プロコプ」を巡って&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|「[[ロイズ|ロイズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。 [コラム][[コラム：ロイズを巡って|「ロイズ」を巡って]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|[[ヨハネス・ディオダド]]、ウィーンにカフェ開業。ウィーンの最初のカフェか。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|（名誉革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|ボストンにニュー・イングランド初のコーヒーハウス（「ロンドン・コーヒーハウス」）開業。 [[＊コラム：ボストンの初期のコーヒーハウス]]　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年　&lt;br /&gt;
|（イギリス東インド会社が初めて中国から直接イギリスに茶を輸送）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|ストックホルムに２軒のカフェ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ローラン]]」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1694年&lt;br /&gt;
|ライプチッヒに初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1696年&lt;br /&gt;
|ニューヨークに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：ニューヨークの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1698年頃&lt;br /&gt;
|「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|オランダが[[ジャワ]]にインドのマラバールからコーヒーの苗木を運び、移植に成功。[コラム]イエメンからのコーヒー栽培の伝播¸と経路&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|[[アントワーヌ・ガラン]]、『[[コーヒーの起源と伝播]]』を著述。『[[アブダル・カディールの書]]』の抄訳。[コラム]『アブダル・カディールの書』のガラン抄訳について&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!18世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年&lt;br /&gt;
|フィラデルフィアに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：フィラデルフィアの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年頃&lt;br /&gt;
|「[[トムズ|トムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年&lt;br /&gt;
|「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からアムステルダムにコーヒーの苗木を移送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1709年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]『[[タトラー]]』創刊。 [[＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からオランダにコーヒーを輸送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]、[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[スペクテイター]]』創刊&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1712年&lt;br /&gt;
|「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|アムステルダム市からルイ一四世にコーヒーの苗木を献呈。[[パリ植物園|パリ王立植物園]]に移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|（ジョージ一世がイギリス国王に。ハノーヴァー朝の成立）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|プラハ初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|（ルイ一四世崩御。ルイ一五世即位。オルレアン公が摂政に）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・パレ・ロワイヤル」が、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」に改名。豪華カフェに生まれ変わる（パリ）。[コラム①]ジュール・ミシュレ『フランス史・レジャンス』から　[コラム②]カフェとゲーム（チェス）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|ジャン・ド・ラ・ローク『幸福なアラビアの旅』刊行。コーヒーに関しての記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]と[[ドミニカ]]にコーヒー栽培が伝わる（[[ド・クリュー]]と別ルート）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|フランス、[[モカ]]からコーヒーを[[ブルボン島]]（現レユニオン島）に移植し栽培に成功。ブルボン種の祖といわれる。[コラム]ブルボン島へのコーヒー移植の経緯。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|パリに300軒のカフェ。[コラム]フランス革命以前のパリのカフェ事情&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1718年&lt;br /&gt;
|[[スリナム]]にコーヒー栽培が伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1720年&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・フローリアン」開業（ヴェネツィア）。[コラム]サン・マルコ広場のカフェ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1721年&lt;br /&gt;
|ベルリンに初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1723年&lt;br /&gt;
|[[ガブリエル・ド・クリュー]]、パリ王立植物園のコーヒーの苗木を[[マルティニーク]]島に運び栽培に成功。ここからコーヒー栽培がカリブ海・中米諸国に伝わる（ティピカ種の祖）。[コラム]マルティニーク島へのコーヒー移植の経緯&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]島が[[モカ]]に代わって世界最大のコーヒー生産地に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・クワドリ」開業（ヴェネツィア）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フォワ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1727年&lt;br /&gt;
|フランシスコ・パリェッタがフランス領ギアナからパラにコーヒーを持ち帰り、移植に成功。＊コラム：[[ブラジルのコーヒー栽培の始まり]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年頃&lt;br /&gt;
|ハイチ島で本格的にコーヒーの栽培が始まる。18世紀後半には世界最大の生産地に。[コラム①]黄金の島、ハイチ（サン＝ドマング）　[コラム②]コーヒーと奴隷貿易&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年&lt;br /&gt;
|[[ジャマイカ]]でコーヒーの栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750頃～&lt;br /&gt;
|[[カリブ海、中南米諸国にコーヒーの栽培が伝わる]]。キューバ1748年、グァテマラ1760年頃、コスタリカ1774年、ベネズェラ1784年、メキシコ1790年頃、コロンビア18世紀末。コーヒー栽培が本格化するのは19世紀後半以降。[コラム]中南米、[[カリブ海諸国]]へのコーヒーの伝播&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1734年頃&lt;br /&gt;
|J.S.バッハ、ライプチッヒの「[[カフェ・ツィンマーマン]]」で「[[コーヒー・カンタータ]]」初演。[[＊コラム①：コーヒークレンツヒェンと女性へのコーヒーの流行（ドイツ）]][[＊コラム②：「コーヒー・カンタータ」解釈]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1737年&lt;br /&gt;
|「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」開業（ニューヨーク）。 [[＊コラム：植民地時代のアメリカ社会とコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750年&lt;br /&gt;
|カルロ・ゴルドーニの『ボデガ・デル・カフェ』ヴェネツィアで初演。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|『百科全書』の刊行始まる（〜1772年）。[コラム]百科全書の刊行と「プロコプ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|[[ウィリアム・ホガース]]画『[[ビール通りとジン横丁]]』を発表。＊[[コラム：18世紀ロンドンの居酒屋事情]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1752年&lt;br /&gt;
|「[[ラネラ・ガーデン]]」開業（ロンドン）。[[＊コラム：ロンドンのティーガーデン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|「カフェ・グレコ」開業（ローマ）。[コラム]「カフェ・グレコ」は「カフェ・テデスコ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|[[ブラジルのリオでコーヒー栽培が始まる]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年頃&lt;br /&gt;
|フランスで布で漉す浸漬式の抽出法が普及し始める（ボイル式も継続して行われる）。[コラム]抽出法の多様化&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1764年&lt;br /&gt;
|ミラノで文学誌『イル・カフェ』発刊。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1773年&lt;br /&gt;
|[[ボストン茶会事件]]。コーヒーがアメリカの国民飲料になるきっかけとなる。[コラム]ボストン・ティーパーティーとコーヒー。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1776年&lt;br /&gt;
|（アメリカ独立宣言）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1777年&lt;br /&gt;
|プロイセンのフリードリヒ２世（大王）、コーヒーの使用を制限する布告。[コラム]コーヒー禁止の影響&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|（パレ・ロワイヤルの改装完成（1781年〜））。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|ベネズエラにコーヒー栽培伝わる。1789年に輸出開始、栽培本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1785年頃〜&lt;br /&gt;
|オルレアン公（ルイ・フィリップ・ジョゼフ）がパレ・ロワイヤル改装し、賃貸（パリ）。パレ・ロワイヤルにカフェが集積。フランス革命時には各党派の活動の舞台ともなる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1788年頃&lt;br /&gt;
|この頃パリのカフェ、1700軒を数える。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|（フランス革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|カミーユ・デムーラン、「カフェ・ド・フォワ」のテラスでアジ演説。バスティーユへの行進のきっかけに（フランス革命の発火点）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|ニューヨークの「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」の前でジョージ・ワシントンの歓迎式典が行われる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1790年頃&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤルに次々にカフェ、レストランが開業。パリ随一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|ハイチで反乱発生。内乱でコーヒー生産に大打撃。[コラム]ハイチの独立とコーヒー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|「カフェ・リーシュ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1798年&lt;br /&gt;
|「トルトーニ（カフェ）」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1799年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アルディ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!19世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|ドリップ式のコーヒー器具、ド・ベロワのコーヒー・ポット登場。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|（中国で紅茶＝工夫茶の製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃〜&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤル繁栄の全盛期（1830年頃まで）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|アメリカが世界最大のコーヒー消費国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|スマトラ、セレベスなどでコーヒー栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1802年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アングレ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|(ナポレオン、皇帝に即位。第一帝政始まる)。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]が独立（史上初の黒人共和国）。フランス、コーヒーの覇権を失う。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|ナポレオン、大陸封鎖令。コーヒーが不足し、代用コーヒーが横行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・ド・サシ]]、[[アブダル・カディールの書]]（『コーヒーの合法性の擁護』）を部分訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年&lt;br /&gt;
|(フランス、ナポレオンが退位し、王政復古。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃&lt;br /&gt;
|ブラジルの[[フルミネンセ]]（リオデジャネイロ）でコーヒー生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃〜&lt;br /&gt;
|オーストリア、[[ビーダーマイヤー]]時代（〜48年）。[[＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ]]  [[＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール]]　[[＊コラム③：作曲家が通ったカフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1816年&lt;br /&gt;
|メキシコでコーヒーの商業的栽培始まる。栽培の本格化は1870年代から。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1823年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサム地方で茶の木（アッサム種）発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年&lt;br /&gt;
|(フランス、七月王政。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年頃&lt;br /&gt;
|イタリア通りにカフェ＝レストランが集積。次第にパレ・ロワイヤルに代わりパリ一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1832年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ペドロッキ」開業（イタリア・パドヴァ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1835年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・クランツラー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1838年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサムで紅茶の製造始まる。続いてダージリンでも紅茶を製造（1841年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1839年&lt;br /&gt;
|バルザック『近代興奮剤考』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|（アヘン戦争始まる〜1842年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|[[ジャン＝ピエール・プジョー]]が金属製のコーヒー・ミルを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人ロバート・ナピアーがサイフォンを発明。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1843年&lt;br /&gt;
|コスタリカ、他の中米諸国に先駆けコーヒー輸出を本格的に開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：ウィーンの文学カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジェイムズ・カーター]]がプル・アウト式焙煎機を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1848年&lt;br /&gt;
|フランス、第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領に（1852〜第二帝政）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷貿易を禁止。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～1870年頃&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培の黄金時代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～&lt;br /&gt;
|この頃から中米のコーヒー栽培が本格化。先行するコスタリカについでグァテマラ（1850年頃）、エルサルバドル（1852年）、ニカラグァ（1860年代）がコーヒー栽培に取り組み、1870年代から輸出が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃〜&lt;br /&gt;
|（ティー・レース始まる。〜1870年頃）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（フランス、第二帝政。ルイ・ナポレオンが皇帝に。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（オスマンのパリ大改造始まる（〜1870年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1855年&lt;br /&gt;
|（フランス、第一回パリ万博（1867：第二回、1878：第三回））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1858年&lt;br /&gt;
|ヴィクトリア湖の南で[[カネフォラ種|ロブスタ]]発見。新種として報告せず。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年&lt;br /&gt;
|（アメリカ南北戦争（〜65年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が軌道に乗る。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|（イタリア王国成立。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|アフリカで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1862年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・ペ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1864年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、新型焙煎機を開発（現在の焙煎機の原型）。[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|ジョン・アーバックル、初めてパック詰めにしたコーヒー「アリオーサ」を販売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|「[[ロイヤル・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績|グラニュレーターとコーヒー冷却器を開発]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[セイロン島（スリランカ）|セイロン島（現スリランカ）]]で[[さび病]]発生。コーヒーの生産は19世紀末までに壊滅。徐々に茶に切り替わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|インドのニルギリで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|ドイツのエメリッヒにエメリッヒ社創設（のちの焙煎機メーカー、[[プロバット社]]）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|（普仏戦争に敗北。第三共和制へ。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジョン・ベーカー]]が業務用ミル『エンタープライズ』を開発。　[[＊コラム：業務用コーヒー・ミル開発の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1871年&lt;br /&gt;
|（ドイツ統一）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1873年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・インペリアル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|リベリアで[[リベリカ種]]発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|（日本で紅茶製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・バウアー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃～&lt;br /&gt;
|ブラジル・サンパウロ地方で[[ブルボン種]]導入始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアのコーヒー栽培が本格化。1880年代から生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ツェントラル]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ|ジャワ島]]、スマトラ島で[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1878年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、コーヒー、紅茶、香辛料を扱う業界誌『スパイス・ミル』刊行を始める。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・シュペール]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年頃～&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培が徐々に衰退。1888年の奴隷解放により決定的打撃を受ける。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1882年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアの中央高地でコーヒーの栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1881年&lt;br /&gt;
|ニューヨーク・コーヒー取引所開設。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1883年&lt;br /&gt;
|（セイロン＝スリランカからの紅茶輸出始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1884年&lt;br /&gt;
|この年から、サンパウロを中心にコロノスとしてイタリア移民の導入が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「シャ・ノワール」移転して新装開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ドゥ・マゴ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[さび病]]蔓延。生産が減少。[[リベリカ種|リベリカ]]への植え替えが進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1887年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フロール」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1888年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷制廃止。農園からの奴隷の逃亡により、リオのコーヒー生産に壊滅的打撃。コーヒー生産の中心はサンパウロ州に移る&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|サンパウロ州が世界最大のコーヒー生産地に。90年代にはブラジルは世界生産量の70〜80％を占める（ブラジルの総輸出の60〜70％）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地、イタリア通りからモンマルトルへ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1893年&lt;br /&gt;
|ジョウエル・チーク、ジョン・ニールとチーク＝ニール・コーヒー社（「マックスウェル・ハウス」）をナッシュビルで設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1895年&lt;br /&gt;
|ヨハン・ヤコブス、ブレーメンにコーヒー店開業。（のちのヤコブス社）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|ローランがコンゴで[[カネフォラ種|ロブスタ]]を発見。カネフォーラ種と命名。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|「カフェ・デス・ヴェステンス」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|加藤サルトリがシカゴでインスタント・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ムゼウム]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|サンフランシスコにブランデンシュタイン兄弟（4人）がMJBコーヒー社設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|ドイツの[[ゴットホット社]]、高速焙煎機「イデアル・ラピッド」を開発。　[[＊コラム：熱風式焙煎機の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!20世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年&lt;br /&gt;
|ヒルズ・ブラザーズ社、真空包装缶のコーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[カネフォラ種|ロブスタ]]の栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|中南米諸国がコーヒーを大増産。中米諸国は次第にコーヒーのモノカルチャー化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が中国を圧倒）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ケニアにレ・ユニオン島からコーヒーを移植、栽培が始まる。続いてタンザニアも栽培開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|イタリア人、ベゼラが蒸気圧による抽出器を発明。エスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ブラジル、コーヒー大豊作。世界のコーヒー生産量の81％に達する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1906年&lt;br /&gt;
|ルートヴィヒ・ロゼリウス（ドイツ）、カフェインレスコーヒーの特許を取得、会社を設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1907年&lt;br /&gt;
|コーヒー価格の暴落により、ブラジル政府がコーヒー買い上げ（ヴァロリゼーション）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|ドイツで[[メリタ・ベンツ]]がペーパー・ドリップによる抽出器具を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|（トマス・サリヴァン、ティーパック発明）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1914年&lt;br /&gt;
|（第一次世界大戦始まる。〜1918年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1916年&lt;br /&gt;
|「ロマニッシェスカフェ」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大霜害。コーヒーの相場が急騰。ヨーロッパの需要回復も要因。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年&lt;br /&gt;
|ドイツのエミリッヒ社（後の[[プロバット社]]）、現在のドラム式焙煎機の原型となる「プロバット・コール・コースター」を開発。　[[＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ|＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年頃&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地がモンパルナスへ。（狂乱の時代（〜1930頃））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1922年&lt;br /&gt;
|ウィリアム.H.ユーカーズ『オール・アバウト・コーヒー』を刊行（1935年・第2版）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1924年&lt;br /&gt;
|エドゥアルト・ショプッフ、ドイツ・ブレーメンにエドショー社を設立（通信販売）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1925年頃〜&lt;br /&gt;
|ケニア、タンザニア、ウガンダなどアフリカのヨーロッパ植民地でコーヒー生産が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1927年&lt;br /&gt;
|コロンビアが世界第２位のコーヒー生産国に。コロンビア・コーヒー連盟FNC設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1929年&lt;br /&gt;
|（大恐慌。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1931年〜&lt;br /&gt;
|エルサルバドルに独裁政権（エルナンデス・マルティネス）誕生。その後グァテマラ（1931年）、ニカラグァ（193４年）、ホンジュラス（1932年）で独裁政権が誕生。コーヒー生産は進展したが、土地の集中化が進み、貧富の格差が増大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1933年&lt;br /&gt;
|（ナチス、政権掌握）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1934年&lt;br /&gt;
|ブラジル、過剰生産によりコーヒーを焼却。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1937年&lt;br /&gt;
|ネスレ社がインスタントコーヒーを商品化（「ネスカフェ」）、翌年発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1941年&lt;br /&gt;
|第二次世界大戦（〜1945）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1947年&lt;br /&gt;
|ガジアがピストン方式のエスプレッソ・マシンを開発。現在のエスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1949～54年&lt;br /&gt;
|ブラジルの旱魃を引き金にコーヒー価格が上昇、アメリカで薄いコーヒーが蔓延し、インスタントコーヒーの需要が伸びる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|サン＝ジェルマン＝デ＝プレのカフェに実存主義者が集まる（サルトル、ボーボワール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|ヨーロッパの需要回復によりコーヒー価格が上昇。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1953年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害によりコーヒー減産。価格が急騰。アメリカでは薄いわゆるアメリカン・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1955年頃&lt;br /&gt;
|ニューヨークなどでエスプレッソ・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1956年&lt;br /&gt;
|西ヨーロッパのコーヒー消費量が第二次大戦前を上回る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1960年&lt;br /&gt;
|ブラジル、パラナ州のコーヒー生産量ががサンパウロ州を越える。生産地域の南下が顕著。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1962年&lt;br /&gt;
|第一次国際コーヒー協定（ICA)成立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1963年&lt;br /&gt;
|国際コーヒー機構（ICO）設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1966年&lt;br /&gt;
|[[アルフレッド・ピート]]がアメリカ・バークレーに「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」開業。スペシャルティコーヒーの先駆け。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1969年&lt;br /&gt;
|ＵＣＣ上島コーヒー、世界初の缶コーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1971年&lt;br /&gt;
|スターバックス、シアトルに開業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1974年&lt;br /&gt;
|エルナ・クヌッセン、スペシャルティ・コーヒーの概念を『ティー＆コーヒー・ジャーナル』誌上のインタビューで発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1975年&lt;br /&gt;
|ブラジル大霜害。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1976年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害の影響でICOが輸出総量割当制を実施。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年〜&lt;br /&gt;
|ニカラグァで「サンディニスタ」政権誕生。中米では続いてエルサルバドル、グァテマラでもゲリラの活動が活発化し、混乱の時代に。コーヒー生産も縮小傾向。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年&lt;br /&gt;
|スイスのコフェックス社がスイス・ウォーター方式のカフェインレス・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1980年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアでバリエダ・コロンビア品種導入、品質劣化へ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1982年&lt;br /&gt;
|アメリカスペシャルティコーヒー協会（SCAA）設立&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1983年頃～&lt;br /&gt;
|アメリカでのスペシャルティーコーヒーの市場が急速に拡大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大旱魃。翌年にコーヒーの相場が急騰。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年頃〜&lt;br /&gt;
|ブラジルのコーヒー栽培の中心が、ミナスジェライス州の高原地域（セラード）に移行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1990年頃～&lt;br /&gt;
|ヴェトナムでのコーヒー栽培（主に[[カネフォラ種|ロブスタ]]）が本格化。生産量が急速に拡大し2003年には世界第2位の生産国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1986年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックス社から独立し、エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ」を開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1987年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックスの商標を買収し、コーヒーチェーン展開を開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1995年&lt;br /&gt;
|SCAA、コーヒーフレーバーホイールを作成・発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年頃〜&lt;br /&gt;
|コーヒー生産におけるサスティナビリティ運動（認証コーヒー）が盛んに。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年&lt;br /&gt;
|オークションシステムによるカップ・オブ・エクセレンスのプロジェクト始まる。1999年に現行の方式に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!21世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2000年&lt;br /&gt;
|ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ始まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|現行の国際コーヒー協定発効。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|パナマ・オークションでゲイシャ種が最高値を更新。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002年&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・フリーマン]]、「ブルー・ボトル」開業。アメリカでサードウェーブのコーヒー流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005年頃〜&lt;br /&gt;
|パカマラ、ジャバ等のコーヒーの新品種の導入が盛んになる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|中米を中心に新タイプのナチュラル、ハニー（パルプド・ナチュラル）など新たな精製法の研究・開発が進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010年頃〜&lt;br /&gt;
|ラオス、タイ、ミャンマーなどアジア諸国でコーヒー栽培が盛んになる。&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8&amp;diff=49651</id>
		<title>コーヒー歴史年表</title>
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		<updated>2026-03-01T17:47:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: コラムの追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!15世紀以前&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|約1400万年前&lt;br /&gt;
|[[コフィア属]]（[[コーヒーノキ]]）の祖先がアフリカ大陸（中央アフリカ）に生まれる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1000万〜500万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[コフィア属]]（[[アラビカ種]]、[[カネフォラ種]]、[[ユーゲニオイデス種]]、[[リベリカ種]]等）の祖先がアフリカ大陸の各地域の気候に適応して分岐。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|数100万〜数10万年前&lt;br /&gt;
|ビクトリア湖北西部に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配して自家受粉可能な四倍体の[[アラビカ種]]の祖先が生まれる。コラム：[[＊アラビカ種の誕生と旅立ち]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|100万〜1万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[アラビカ種]]の直接の祖先が、[[エチオピア高原]]に生き残る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|紀元前3世紀&lt;br /&gt;
|[[エチオピア]]で山羊飼いカルディがコーヒーを発見（伝説）？（[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9〜11世紀&lt;br /&gt;
|ペルシャの医師・哲学者[[アル・ラーズィー（ラーゼス）]]と[[イブン・スィーナー（アヴィセンナ）]]が、薬としてコーヒー（ブン、ブンカ、ブンクム）について記述？[[＊コラム：コーヒーを薬として使用？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|13世紀半ば&lt;br /&gt;
|イスラムの修道僧[[シェイク・オマル]]が[[モカ]]の山中でコーヒー発見（伝説）？　＊コラム：シェイク・オマルのコーヒー発見伝説&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!15世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1454年頃&lt;br /&gt;
|[[アデン]]の律法学者[[シェイク・ジェマレディン]]（ザブハーニー）がコーヒーの効用を知り、イスラムの修道僧の間に広める。＊コラム：最初はどんなコーヒーを飲んだのか？＊コラム：コーヒーとワイン、カート&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀半ば&lt;br /&gt;
|この頃[[モカ]]の東、[[イエメン]] の山中でコーヒーの栽培始まる？　[[*コラム:いつコーヒーの栽培が始まったのか？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1470年頃&lt;br /&gt;
|[[シェイク・ジェマレディン]]死去。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀末&lt;br /&gt;
|コーヒーの飲用がメッカ、メディナなどアラビア半島南部に広まる。ほぼ同時期にカフェも現れる[コラム]スーフィーによるイスラム世界へのコーヒーの伝播。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!16世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1510年頃&lt;br /&gt;
|コーヒーがカイロに広まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1511年&lt;br /&gt;
|メッカで最初のコーヒー、カフェ弾圧。[コラム]イスラム世界でのコーヒー論争と弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1517年&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝[[セリム一世]]がエジプト征服（マムルク朝）。コーヒーがカイロからコンスタンチノープルに伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1530年頃&lt;br /&gt;
|ダマスカスにコーヒー伝わる。カフェ「バラ」「救済の門」ができる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1532年頃&lt;br /&gt;
|アレッポにコーヒー伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1534年&lt;br /&gt;
|カイロでコーヒー反対運動起こる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1554年&lt;br /&gt;
|コンスタンチノープルにカフェ（トルコではカフェ・カネ）ができる。[コラム]コンスタンティノープルのカフェの姿。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16世紀半ば&lt;br /&gt;
|[[トルコ式コーヒー]]の形態（焙煎、粉砕、抽出、サーヴィス方法）が完成。[[＊コラム：トルコ式コーヒーの器具と抽出法]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1570年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝セリム二世（在位1566〜74）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1580年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝ムラト三世（在位1574〜92）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1582(3)年&lt;br /&gt;
|ドイツの医師・植物学者[[レオンハルト・ラウヴォルフ]]が著作（『[[東方諸国への旅Journey into the eastern countries|東方諸国への旅]]』）の中でコーヒーについて言及。ヨーロッパで初めて印刷物中にコーヒーが登場。[コラム]コーヒーのヨーロッパへの紹介者たち。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1585年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアのトルコ大使、ジャンフランチェスコ・モロシーニ、ヴェネチア評議会にトルコでのコーヒー飲用について報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1587年&lt;br /&gt;
|[[アブダル・カディール]]『[[アブダル・カディールの書|コーヒーの合法性の擁護]]』を著述。現存する最古のコーヒー書。[コラム]アブダル・カディールの写本の翻訳と概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1588年頃&lt;br /&gt;
|[[シャー・アッバス]]の治世（1588〜1629年）には、ペルシャにカフェが存在したとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1592年&lt;br /&gt;
|[[プロスペロ・アルピーニ]]、[[『エジプトの植物』]]出版。コーヒーの木のデッサンと記述。[コラム]イタリアのコーヒーへの関心の高まり&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1595年&lt;br /&gt;
|[[バルダヌス]]『[[リンスホーテン]]の旅』の注でコーヒーに関して記述。イギリスで初めてのコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!17世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|インドのイスラムの巡礼者[[ババ・ブダン]]がモカからマイソールにコーヒーを持ち帰る（伝説？1640年、1695年頃という説も）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|ローマ教皇[[クレメンス八世]]、コーヒーに洗礼を施す（？伝説）。[[＊コラム：クレメンス八世のコーヒー洗礼は本当か？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1602年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、『[[旅と冒険]]』でコーヒーについて記述。[コラム]イギリス の知識人のコーヒーへの関心の高まりと著作。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1607年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、バージニア植民地にコーヒーを持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1609年&lt;br /&gt;
|ウィリアム・ビダルフ、『ある英国人たちのアジア、アフリカその他の地への旅行記』出版。コーヒーについて詳細な記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1610年&lt;br /&gt;
|（オランダ、ヨーロッパに初めて中国、日本から茶を輸送）。[コラム]陶磁器（コーヒーカップ）のヨーロッパへの輸出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1614年&lt;br /&gt;
|[[ピエトロ・デッラ・ヴァッレ]]がコーヒーをヴェネツィアに持ち帰る。？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1616年&lt;br /&gt;
|オランダが[[モカ]]から初めてヨーロッパにコーヒーを輸送。1640年に商業的に輸入が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1620年&lt;br /&gt;
|ピルグリム・ファーザーズ、アメリカ入植。コーヒー器具を持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1623年&lt;br /&gt;
|フランシス・ベーコン、『死生論』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1632年&lt;br /&gt;
|ロバート・バートン、『メランコリーの解剖学』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1644年&lt;br /&gt;
|[[ピエール・ド・ラ・ローク|ド・ラ・ローク]]、トルコからマルセイユにコーヒー器具を持ち帰る。[[＊コラム:フランスのコーヒーへの関心の高まり。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1645年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアに最初のカフェ開店（コーヒーが一般化）？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|トルコの使節団がウィーンにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1649年&lt;br /&gt;
|（清教徒革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年&lt;br /&gt;
|オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウス（「[[ジェイコブズ]]」）開業。　[[＊コラム：ヨーロッパ諸国のカフェの始まり]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年頃&lt;br /&gt;
|この頃に[[シリンダー型焙煎機]]が登場。　[[＊コラム：17～18世紀のコーヒー焙煎機。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1652年&lt;br /&gt;
|アルメニア人[[パスカ・ロゼ]]、ロンドン初のコーヒーハウス開業。以後、続々とコーヒーハウスが誕生し、17世紀末には3000軒を数える。[[＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯|＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1656年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコの大宰相[[キョプリュリュ]]（・メフメト・パシャ）によるカフェ弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年以前&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・ファー]]、「[[レインボウ]]」を開業(ロンドン）。ロンドンで２番目のコーヒー・ハウス。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|スウエーデンの旅行家[[クレス・ロラン]]、トルコを使節として訪問。コーヒーの飲み方を報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|「[[ギャラウェイズ|ギャラウェイズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）で茶の販売広告¸　[[＊コラム：コーヒーハウスと茶、チョコレート]]  [[コーヒーハウスと広告の誕生|＊コラム：コーヒーハウスと広告の誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|[[ジャン・ド・テヴノー]]、パリにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1658年&lt;br /&gt;
|オランダ、モカから[[セイロン島（スリランカ）]]へコーヒーを移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）に[[ロータ・クラブ]]設立。 [[＊コラム：コーヒーハウスとクラブ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーが売られる（薬屋）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。（〜1749年） [[＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1664年&lt;br /&gt;
|ハーグにオランダ初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|（ロンドンでペスト大流行。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人の[[ニコラス・ブック]]、コーヒー専用のミルを開発。　[[＊コラム：コーヒー・グラインダー（ミル）の変遷。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1666年&lt;br /&gt;
|ロンドン大火。レンガ作りで再建。続々とコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：代用貨幣の発行]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1668年&lt;br /&gt;
|アメリカ最初のコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|トルコの大使[[ソリマン・アガ]]がコーヒーを携えてパリに赴任。上流階級の間でコーヒーがブームになる。[[＊コラム：セヴィニェ夫人とフランス宮廷人のコーヒー観。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|ロンドンにロイヤル・エクスチェンジ（商品取引市場）開設。近辺に多数のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1670年&lt;br /&gt;
|[[ノワンテル侯爵]]、フランス大使としてトルコ訪問¸（1670〜79年）。[[アブダル・カディールの書]]、[[ビチヴィリの写本]]を持ち帰り、ルイ一四世に献上。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|ローマのオリエント語教師[[ファウスト・ナイロニ]]が著作の中で[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]を紹介。[[＊コラム：「山羊飼いコーヒー発見伝説」の真実]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]にフランス初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]]『[[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して』|コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して]]』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[ヘンリー・ブラント]]（コーヒー・ハウスの父、と呼ばれる）、『レバントへの旅』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1672年&lt;br /&gt;
|パリに最初のカフェ。アルメニア人[[パスカル]]が露店のカフェを開業。[[＊コラム:「カフェ・プロコプ」以前のカフェ]] [[＊コラム：コーヒーの呼び売りカンディオ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674年&lt;br /&gt;
|ロンドンで女性たちによるコーヒー禁止の請願。[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674〜88年&lt;br /&gt;
|ロベール・ボナール（Robert Bonnart）の版画シリーズ（貴族Homme de quarité¸)にコーヒーを飲む貴族の数点のポートレイト。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1675年&lt;br /&gt;
|[[チャールズ二世]]、コーヒー・ハウス禁止令。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1676年&lt;br /&gt;
|ルイ一四世によりカフェのギルド（カフティエ＝リモナディエ＝ディスティラトゥール）のギルド認可。[コラム]ギルドの排他特権とカフェの商品アイテム&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|ハンブルクにカフェが開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーの薬効について論争。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|[[コルシツキー]]がウィーン初のカフェ「[[青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）]]」開業（作り話？）。[[＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|ヴェネツィアのサン・マルコ広場にカフェがあったとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年頃&lt;br /&gt;
|この頃ロンドンに3000軒のコーヒーハウスとの記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]][[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関する新たな興味をそそる論説』]]刊行&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1686年&lt;br /&gt;
|「プロコプ」開業（パリ）。フランスのカフェの原型となる。[コラム]「プロコプ」を巡って&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|「[[ロイズ|ロイズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。 [コラム][[コラム：ロイズを巡って|「ロイズ」を巡って]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|[[ヨハネス・ディオダド]]、ウィーンにカフェ開業。ウィーンの最初のカフェか。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|（名誉革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|ボストンにニュー・イングランド初のコーヒーハウス（「ロンドン・コーヒーハウス」）開業。 [[＊コラム：ボストンの初期のコーヒーハウス]]　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年　&lt;br /&gt;
|（イギリス東インド会社が初めて中国から直接イギリスに茶を輸送）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|ストックホルムに２軒のカフェ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ローラン]]」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1694年&lt;br /&gt;
|ライプチッヒに初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1696年&lt;br /&gt;
|ニューヨークに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：ニューヨークの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1698年頃&lt;br /&gt;
|「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|オランダが[[ジャワ]]にインドのマラバールからコーヒーの苗木を運び、移植に成功。[コラム]イエメンからのコーヒー栽培の伝播¸と経路&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|[[アントワーヌ・ガラン]]、『[[コーヒーの起源と伝播]]』を著述。『[[アブダル・カディールの書]]』の抄訳。[コラム]『アブダル・カディールの書』のガラン抄訳について&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!18世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年&lt;br /&gt;
|フィラデルフィアに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：フィラデルフィアの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年頃&lt;br /&gt;
|「[[トムズ|トムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年&lt;br /&gt;
|「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からアムステルダムにコーヒーの苗木を移送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1709年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]『[[タトラー]]』創刊。 [[＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からオランダにコーヒーを輸送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]、[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[スペクテイター]]』創刊&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1712年&lt;br /&gt;
|「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|アムステルダム市からルイ一四世にコーヒーの苗木を献呈。[[パリ植物園|パリ王立植物園]]に移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|（ジョージ一世がイギリス国王に。ハノーヴァー朝の成立）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|プラハ初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|（ルイ一四世崩御。ルイ一五世即位。オルレアン公が摂政に）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・パレ・ロワイヤル」が、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」に改名。豪華カフェに生まれ変わる（パリ）。[コラム①]ジュール・ミシュレ『フランス史・レジャンス』から　[コラム②]カフェとゲーム（チェス）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|ジャン・ド・ラ・ローク『幸福なアラビアの旅』刊行。コーヒーに関しての記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]と[[ドミニカ]]にコーヒー栽培が伝わる（[[ド・クリュー]]と別ルート）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|フランス、[[モカ]]からコーヒーを[[ブルボン島]]（現レユニオン島）に移植し栽培に成功。ブルボン種の祖といわれる。[コラム]ブルボン島へのコーヒー移植の経緯。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|パリに300軒のカフェ。[コラム]フランス革命以前のパリのカフェ事情&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1718年&lt;br /&gt;
|[[スリナム]]にコーヒー栽培が伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1720年&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・フローリアン」開業（ヴェネツィア）。[コラム]サン・マルコ広場のカフェ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1721年&lt;br /&gt;
|ベルリンに初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1723年&lt;br /&gt;
|[[ガブリエル・ド・クリュー]]、パリ王立植物園のコーヒーの苗木を[[マルティニーク]]島に運び栽培に成功。ここからコーヒー栽培がカリブ海・中米諸国に伝わる（ティピカ種の祖）。[コラム]マルティニーク島へのコーヒー移植の経緯&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]島が[[モカ]]に代わって世界最大のコーヒー生産地に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・クワドリ」開業（ヴェネツィア）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フォワ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1727年&lt;br /&gt;
|フランシスコ・パリェッタがフランス領ギアナからパラにコーヒーを持ち帰り、移植に成功。＊コラム：[[ブラジルのコーヒー栽培の始まり]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年頃&lt;br /&gt;
|ハイチ島で本格的にコーヒーの栽培が始まる。18世紀後半には世界最大の生産地に。[コラム①]黄金の島、ハイチ（サン＝ドマング）　[コラム②]コーヒーと奴隷貿易&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年&lt;br /&gt;
|[[ジャマイカ]]でコーヒーの栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750頃～&lt;br /&gt;
|[[カリブ海、中南米諸国にコーヒーの栽培が伝わる]]。キューバ1748年、グァテマラ1760年頃、コスタリカ1774年、ベネズェラ1784年、メキシコ1790年頃、コロンビア18世紀末。コーヒー栽培が本格化するのは19世紀後半以降。[コラム]中南米、[[カリブ海諸国]]へのコーヒーの伝播&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1734年頃&lt;br /&gt;
|J.S.バッハ、ライプチッヒの「[[カフェ・ツィンマーマン]]」で「[[コーヒー・カンタータ]]」初演。[[＊コラム①：コーヒークレンツヒェンと女性へのコーヒーの流行（ドイツ）]][[＊コラム②：「コーヒー・カンタータ」解釈]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1737年&lt;br /&gt;
|「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」開業（ニューヨーク）。 [[＊コラム：植民地時代のアメリカ社会とコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750年&lt;br /&gt;
|カルロ・ゴルドーニの『ボデガ・デル・カフェ』ヴェネツィアで初演。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|『百科全書』の刊行始まる（〜1772年）。[コラム]百科全書の刊行と「プロコプ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|[[ウィリアム・ホガース]]画『[[ビール通りとジン横丁]]』を発表。＊[[コラム：18世紀ロンドンの居酒屋事情]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1752年&lt;br /&gt;
|「[[ラネラ・ガーデン]]」開業（ロンドン）。[[＊コラム：ロンドンのティーガーデン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|「カフェ・グレコ」開業（ローマ）。[コラム]「カフェ・グレコ」は「カフェ・テデスコ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|[[ブラジルのリオでコーヒー栽培が始まる]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年頃&lt;br /&gt;
|フランスで布で漉す浸漬式の抽出法が普及し始める（ボイル式も継続して行われる）。[コラム]抽出法の多様化&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1764年&lt;br /&gt;
|ミラノで文学誌『イル・カフェ』発刊。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1773年&lt;br /&gt;
|[[ボストン茶会事件]]。コーヒーがアメリカの国民飲料になるきっかけとなる。[コラム]ボストン・ティーパーティーとコーヒー。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1776年&lt;br /&gt;
|（アメリカ独立宣言）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1777年&lt;br /&gt;
|プロイセンのフリードリヒ２世（大王）、コーヒーの使用を制限する布告。[コラム]コーヒー禁止の影響&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|（パレ・ロワイヤルの改装完成（1781年〜））。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|ベネズエラにコーヒー栽培伝わる。1789年に輸出開始、栽培本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1785年頃〜&lt;br /&gt;
|オルレアン公（ルイ・フィリップ・ジョゼフ）がパレ・ロワイヤル改装し、賃貸（パリ）。パレ・ロワイヤルにカフェが集積。フランス革命時には各党派の活動の舞台ともなる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1788年頃&lt;br /&gt;
|この頃パリのカフェ、1700軒を数える。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|（フランス革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|カミーユ・デムーラン、「カフェ・ド・フォワ」のテラスでアジ演説。バスティーユへの行進のきっかけに（フランス革命の発火点）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|ニューヨークの「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」の前でジョージ・ワシントンの歓迎式典が行われる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1790年頃&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤルに次々にカフェ、レストランが開業。パリ随一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|ハイチで反乱発生。内乱でコーヒー生産に大打撃。[コラム]ハイチの独立とコーヒー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|「カフェ・リーシュ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1798年&lt;br /&gt;
|「トルトーニ（カフェ）」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1799年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アルディ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!19世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|ドリップ式のコーヒー器具、ド・ベロワのコーヒー・ポット登場。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|（中国で紅茶＝工夫茶の製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃〜&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤル繁栄の全盛期（1830年頃まで）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|アメリカが世界最大のコーヒー消費国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|スマトラ、セレベスなどでコーヒー栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1802年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アングレ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|(ナポレオン、皇帝に即位。第一帝政始まる)。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]が独立（史上初の黒人共和国）。フランス、コーヒーの覇権を失う。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|ナポレオン、大陸封鎖令。コーヒーが不足し、代用コーヒーが横行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・ド・サシ]]、[[アブダル・カディールの書]]（『コーヒーの合法性の擁護』）を部分訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年&lt;br /&gt;
|(フランス、ナポレオンが退位し、王政復古。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃&lt;br /&gt;
|ブラジルの[[フルミネンセ]]（リオデジャネイロ）でコーヒー生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃〜&lt;br /&gt;
|オーストリア、[[ビーダーマイヤー]]時代（〜48年）。[[＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ]] [[＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール]]　[[＊コラム③：作曲家が通ったカフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1816年&lt;br /&gt;
|メキシコでコーヒーの商業的栽培始まる。栽培の本格化は1870年代から。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1823年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサム地方で茶の木（アッサム種）発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年&lt;br /&gt;
|(フランス、七月王政。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年頃&lt;br /&gt;
|イタリア通りにカフェ＝レストランが集積。次第にパレ・ロワイヤルに代わりパリ一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1832年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ペドロッキ」開業（イタリア・パドヴァ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1835年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・クランツラー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1838年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサムで紅茶の製造始まる。続いてダージリンでも紅茶を製造（1841年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1839年&lt;br /&gt;
|バルザック『近代興奮剤考』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|（アヘン戦争始まる〜1842年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|[[ジャン＝ピエール・プジョー]]が金属製のコーヒー・ミルを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人ロバート・ナピアーがサイフォンを発明。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1843年&lt;br /&gt;
|コスタリカ、他の中米諸国に先駆けコーヒー輸出を本格的に開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：ウィーンの文学カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジェイムズ・カーター]]がプル・アウト式焙煎機を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1848年&lt;br /&gt;
|フランス、第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領に（1852〜第二帝政）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷貿易を禁止。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～1870年頃&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培の黄金時代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～&lt;br /&gt;
|この頃から中米のコーヒー栽培が本格化。先行するコスタリカについでグァテマラ（1850年頃）、エルサルバドル（1852年）、ニカラグァ（1860年代）がコーヒー栽培に取り組み、1870年代から輸出が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃〜&lt;br /&gt;
|（ティー・レース始まる。〜1870年頃）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（フランス、第二帝政。ルイ・ナポレオンが皇帝に。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（オスマンのパリ大改造始まる（〜1870年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1855年&lt;br /&gt;
|（フランス、第一回パリ万博（1867：第二回、1878：第三回））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1858年&lt;br /&gt;
|ヴィクトリア湖の南で[[カネフォラ種|ロブスタ]]発見。新種として報告せず。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年&lt;br /&gt;
|（アメリカ南北戦争（〜65年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が軌道に乗る。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|（イタリア王国成立。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|アフリカで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1862年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・ペ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1864年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、新型焙煎機を開発（現在の焙煎機の原型）。[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|ジョン・アーバックル、初めてパック詰めにしたコーヒー「アリオーサ」を販売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|「[[ロイヤル・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績|グラニュレーターとコーヒー冷却器を開発]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[セイロン島（スリランカ）|セイロン島（現スリランカ）]]で[[さび病]]発生。コーヒーの生産は19世紀末までに壊滅。徐々に茶に切り替わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|インドのニルギリで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|ドイツのエメリッヒにエメリッヒ社創設（のちの焙煎機メーカー、[[プロバット社]]）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|（普仏戦争に敗北。第三共和制へ。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジョン・ベーカー]]が業務用ミル『エンタープライズ』を開発。　[[＊コラム：業務用コーヒー・ミル開発の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1871年&lt;br /&gt;
|（ドイツ統一）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1873年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・インペリアル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|リベリアで[[リベリカ種]]発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|（日本で紅茶製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・バウアー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃～&lt;br /&gt;
|ブラジル・サンパウロ地方で[[ブルボン種]]導入始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアのコーヒー栽培が本格化。1880年代から生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ツェントラル]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ|ジャワ島]]、スマトラ島で[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1878年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、コーヒー、紅茶、香辛料を扱う業界誌『スパイス・ミル』刊行を始める。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・シュペール]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年頃～&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培が徐々に衰退。1888年の奴隷解放により決定的打撃を受ける。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1882年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアの中央高地でコーヒーの栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1881年&lt;br /&gt;
|ニューヨーク・コーヒー取引所開設。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1883年&lt;br /&gt;
|（セイロン＝スリランカからの紅茶輸出始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1884年&lt;br /&gt;
|この年から、サンパウロを中心にコロノスとしてイタリア移民の導入が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「シャ・ノワール」移転して新装開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ドゥ・マゴ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[さび病]]蔓延。生産が減少。[[リベリカ種|リベリカ]]への植え替えが進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1887年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フロール」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1888年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷制廃止。農園からの奴隷の逃亡により、リオのコーヒー生産に壊滅的打撃。コーヒー生産の中心はサンパウロ州に移る&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|サンパウロ州が世界最大のコーヒー生産地に。90年代にはブラジルは世界生産量の70〜80％を占める（ブラジルの総輸出の60〜70％）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地、イタリア通りからモンマルトルへ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1893年&lt;br /&gt;
|ジョウエル・チーク、ジョン・ニールとチーク＝ニール・コーヒー社（「マックスウェル・ハウス」）をナッシュビルで設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1895年&lt;br /&gt;
|ヨハン・ヤコブス、ブレーメンにコーヒー店開業。（のちのヤコブス社）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|ローランがコンゴで[[カネフォラ種|ロブスタ]]を発見。カネフォーラ種と命名。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|「カフェ・デス・ヴェステンス」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|加藤サルトリがシカゴでインスタント・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ムゼウム]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|サンフランシスコにブランデンシュタイン兄弟（4人）がMJBコーヒー社設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|ドイツの[[ゴットホット社]]、高速焙煎機「イデアル・ラピッド」を開発。　[[＊コラム：熱風式焙煎機の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!20世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年&lt;br /&gt;
|ヒルズ・ブラザーズ社、真空包装缶のコーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[カネフォラ種|ロブスタ]]の栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|中南米諸国がコーヒーを大増産。中米諸国は次第にコーヒーのモノカルチャー化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が中国を圧倒）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ケニアにレ・ユニオン島からコーヒーを移植、栽培が始まる。続いてタンザニアも栽培開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|イタリア人、ベゼラが蒸気圧による抽出器を発明。エスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ブラジル、コーヒー大豊作。世界のコーヒー生産量の81％に達する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1906年&lt;br /&gt;
|ルートヴィヒ・ロゼリウス（ドイツ）、カフェインレスコーヒーの特許を取得、会社を設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1907年&lt;br /&gt;
|コーヒー価格の暴落により、ブラジル政府がコーヒー買い上げ（ヴァロリゼーション）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|ドイツで[[メリタ・ベンツ]]がペーパー・ドリップによる抽出器具を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|（トマス・サリヴァン、ティーパック発明）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1914年&lt;br /&gt;
|（第一次世界大戦始まる。〜1918年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1916年&lt;br /&gt;
|「ロマニッシェスカフェ」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大霜害。コーヒーの相場が急騰。ヨーロッパの需要回復も要因。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年&lt;br /&gt;
|ドイツのエミリッヒ社（後の[[プロバット社]]）、現在のドラム式焙煎機の原型となる「プロバット・コール・コースター」を開発。　[[＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ|＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年頃&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地がモンパルナスへ。（狂乱の時代（〜1930頃））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1922年&lt;br /&gt;
|ウィリアム.H.ユーカーズ『オール・アバウト・コーヒー』を刊行（1935年・第2版）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1924年&lt;br /&gt;
|エドゥアルト・ショプッフ、ドイツ・ブレーメンにエドショー社を設立（通信販売）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1925年頃〜&lt;br /&gt;
|ケニア、タンザニア、ウガンダなどアフリカのヨーロッパ植民地でコーヒー生産が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1927年&lt;br /&gt;
|コロンビアが世界第２位のコーヒー生産国に。コロンビア・コーヒー連盟FNC設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1929年&lt;br /&gt;
|（大恐慌。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1931年〜&lt;br /&gt;
|エルサルバドルに独裁政権（エルナンデス・マルティネス）誕生。その後グァテマラ（1931年）、ニカラグァ（193４年）、ホンジュラス（1932年）で独裁政権が誕生。コーヒー生産は進展したが、土地の集中化が進み、貧富の格差が増大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1933年&lt;br /&gt;
|（ナチス、政権掌握）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1934年&lt;br /&gt;
|ブラジル、過剰生産によりコーヒーを焼却。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1937年&lt;br /&gt;
|ネスレ社がインスタントコーヒーを商品化（「ネスカフェ」）、翌年発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1941年&lt;br /&gt;
|第二次世界大戦（〜1945）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1947年&lt;br /&gt;
|ガジアがピストン方式のエスプレッソ・マシンを開発。現在のエスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1949～54年&lt;br /&gt;
|ブラジルの旱魃を引き金にコーヒー価格が上昇、アメリカで薄いコーヒーが蔓延し、インスタントコーヒーの需要が伸びる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|サン＝ジェルマン＝デ＝プレのカフェに実存主義者が集まる（サルトル、ボーボワール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|ヨーロッパの需要回復によりコーヒー価格が上昇。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1953年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害によりコーヒー減産。価格が急騰。アメリカでは薄いわゆるアメリカン・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1955年頃&lt;br /&gt;
|ニューヨークなどでエスプレッソ・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1956年&lt;br /&gt;
|西ヨーロッパのコーヒー消費量が第二次大戦前を上回る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1960年&lt;br /&gt;
|ブラジル、パラナ州のコーヒー生産量ががサンパウロ州を越える。生産地域の南下が顕著。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1962年&lt;br /&gt;
|第一次国際コーヒー協定（ICA)成立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1963年&lt;br /&gt;
|国際コーヒー機構（ICO）設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1966年&lt;br /&gt;
|[[アルフレッド・ピート]]がアメリカ・バークレーに「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」開業。スペシャルティコーヒーの先駆け。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1969年&lt;br /&gt;
|ＵＣＣ上島コーヒー、世界初の缶コーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1971年&lt;br /&gt;
|スターバックス、シアトルに開業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1974年&lt;br /&gt;
|エルナ・クヌッセン、スペシャルティ・コーヒーの概念を『ティー＆コーヒー・ジャーナル』誌上のインタビューで発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1975年&lt;br /&gt;
|ブラジル大霜害。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1976年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害の影響でICOが輸出総量割当制を実施。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年〜&lt;br /&gt;
|ニカラグァで「サンディニスタ」政権誕生。中米では続いてエルサルバドル、グァテマラでもゲリラの活動が活発化し、混乱の時代に。コーヒー生産も縮小傾向。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年&lt;br /&gt;
|スイスのコフェックス社がスイス・ウォーター方式のカフェインレス・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1980年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアでバリエダ・コロンビア品種導入、品質劣化へ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1982年&lt;br /&gt;
|アメリカスペシャルティコーヒー協会（SCAA）設立&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1983年頃～&lt;br /&gt;
|アメリカでのスペシャルティーコーヒーの市場が急速に拡大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大旱魃。翌年にコーヒーの相場が急騰。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年頃〜&lt;br /&gt;
|ブラジルのコーヒー栽培の中心が、ミナスジェライス州の高原地域（セラード）に移行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1990年頃～&lt;br /&gt;
|ヴェトナムでのコーヒー栽培（主に[[カネフォラ種|ロブスタ]]）が本格化。生産量が急速に拡大し2003年には世界第2位の生産国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1986年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックス社から独立し、エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ」を開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1987年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックスの商標を買収し、コーヒーチェーン展開を開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1995年&lt;br /&gt;
|SCAA、コーヒーフレーバーホイールを作成・発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年頃〜&lt;br /&gt;
|コーヒー生産におけるサスティナビリティ運動（認証コーヒー）が盛んに。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年&lt;br /&gt;
|オークションシステムによるカップ・オブ・エクセレンスのプロジェクト始まる。1999年に現行の方式に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!21世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2000年&lt;br /&gt;
|ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ始まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|現行の国際コーヒー協定発効。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|パナマ・オークションでゲイシャ種が最高値を更新。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002年&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・フリーマン]]、「ブルー・ボトル」開業。アメリカでサードウェーブのコーヒー流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005年頃〜&lt;br /&gt;
|パカマラ、ジャバ等のコーヒーの新品種の導入が盛んになる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|中米を中心に新タイプのナチュラル、ハニー（パルプド・ナチュラル）など新たな精製法の研究・開発が進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010年頃〜&lt;br /&gt;
|ラオス、タイ、ミャンマーなどアジア諸国でコーヒー栽培が盛んになる。&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB&amp;diff=49649</id>
		<title>カフェ・インペリアル</title>
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		<updated>2026-03-01T13:49:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[ファイル:カフェインペリアル.jpg|300px|thumb|right|「ホテル・インペリアル」全景：ホテル・インペリアルHPより。]]&lt;br /&gt;
== &#039;&#039;&#039;カフェ・インペリアル&#039;&#039;&#039;　Cafe Imperial ==&lt;br /&gt;
　1873年～現在　1863年に建てられたヴュルテンベルク公爵の館を、1873年のウィーン万国博覧会に合わせ改装し、「ホテル・インペリアル」として創業。その一階に併設されたカフェ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ホテルの裏手にウィーン楽友協会のホールがあるため、開業当時から、アントン・ブルックナー Joseph Anton Bruckner、ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms、さらに世紀末にはグスタフ・マーラー Gustav Mahler、アルノルト・シェーンベルク Arnold Franz Walter Schönberg、アルバン・ベルク Alban Maria Johannes Berg などの多くの音楽家が訪れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　カフェに直接往来ができるため、今日でもコンサート帰りのお客が多い。ザッハトルテと並ぶウィーンの代表的なチョコレート菓子、「インペリアルトルテ」が有名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現住所：Kärntner Ring 16, 1050, Wien　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書,1980&lt;br /&gt;
* 沖島博美著『ウィーンのカフェハウス』河出書房新社,2017&lt;br /&gt;
* Cafe Imperial HP  https://www.cafe-imperial.at&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:CaFe-imperial.jpg&amp;diff=49648</id>
		<title>ファイル:CaFe-imperial.jpg</title>
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		<updated>2026-03-01T13:37:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95&amp;diff=49528</id>
		<title>カフェ・ヘレンホーフ</title>
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		<updated>2026-02-22T16:42:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
==&#039;&#039;&#039;「カフェ・ヘレンホーフ」&#039;&#039;&#039;Café Herrenhof==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1918年〜1961年・1967年〜2006年。第一次世界大戦の末期、ヘレンガッセ Herrengasse「[[カフェ・ツェントラル]]」の向かい、証券取引所の建物に開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーストリア・バンガリー帝国の混乱の影響で、文学カフェとしての役割が崩壊しつつあった「ツェントラル」から若い世代の文化人・芸術家が「ヘレンホーフ」に移ってきた。また時代の流れを象徴するように女性客も増えてきたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ツェントラル」から文学カフェの座を引き継ぎ、プラハから移住してきたユダヤ系作家、レオ・ペルッツ Leo Perutz、エルンスト・ポラク Erunst Polak らをはじめ、ロベルト・ムジール Robert Musil、ヘルマン・ブロッホ Hermann Broch なども足繁く出入りしていた。常連客にはそれぞれ決まったテーブルがあり、そこに多くの友人・知人が日々集まっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、カフェの繁栄は長くは続かず、1938年ナチス・ドイツのオーストリア併合により多くのユダヤ系文化人は国外に亡命、「文学カフェ」の役割を終える。さらに第二次世界大戦の戦後復興の遅れもあり、1961年に閉店。1967年に規模を縮小して再開業するも、建物がドイツのホテルグループにより「シュタインゲンベルガーホテル・ヘレンホーフ」に改装され、2006年に閉店。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====  &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書, 1980&lt;br /&gt;
* 平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店, 1996&lt;br /&gt;
* Wikipedia：Café Herrenhof  (ドイツ語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　{{年表}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%BC%E3%82%A6%E3%83%A0&amp;diff=49527</id>
		<title>カフェ・ムゼウム</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%BC%E3%82%A6%E3%83%A0&amp;diff=49527"/>
		<updated>2026-02-22T16:35:19Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;カフェ・ムゼウム&#039;&#039;&#039;　Café Museum： ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:カフェムゼウム.jpg|300px|thumb|right|1930年ごろの店内：Wikipedia（ドイツ）。Cafe　Museum　より。]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1899年〜現在。オーストリアの代表的建築家でモダニズムの先駆者アドルフ・ロース Adolf Loos により建築されたカフェ。ロースは３年間のアメリカ滞在から帰国後、より機能的で装飾性を排除した建築を好み、１９世紀後半の芸術運動「セセッション」と決別をする。このカフェも簡素な建築であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　建物自体は「セセッション」運動と決別してはいたが、カフェには「セセッション」運動のメンバーも含め、画家のグスタフ・クリムト Gustav Klimt、エゴン・シーレ Egon Schiele、作家のロベルト・ムジール Robert Musil、建築家のオットー・ワーグナー Otto Wagner、作曲家のアントン・ブルックナー Joseph Anton Bruckner、グスタフ・マーラー Gustav Mahler など、この時代の人気芸術家が集っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その後数回の改装を経て、現在はロース建築の面影はなく、アメリカナイズされたカフェとなっている。現住所：Operngasse 7, 1010, Wien。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; ===&lt;br /&gt;
・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書, 1980&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店, 1996&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Café Museum HP  https:// www.cafemuseum.at&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<title>カフェ・シュペール</title>
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		<updated>2026-02-22T16:23:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;カフェ・シュペール&#039;&#039;&#039;　Café Sperl： ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Café Sperl.jpg|代替文=Café Sperl|フレーム|Wikipedia：Café Sperl（英語版）より]]&lt;br /&gt;
　1880年〜現在　街の中心部からやや離れた造形美術アカデミーの近くで開業。当初から多くの造形家・画家が集う「芸術カフェ」として栄えた。特にセセッション（ウィーンの芸術家グループ「分離派」)のメンバーが多く、グスタフ・クリムト Gustav Klimt （画家）、ヨーゼフ・ホフマン Josef Franz Maria Hoffmann （建築家）、コロマン・モーザー Koloman Moser （デザイナー）らが常連であった。さらに近くにアン・デア・ウィーン劇場（主にオペレッタを上演）があり、フランツ・レハール Franz Lehár、カール・ツェラー Carl Adam Johann Nepomuk Zeller、カール・ミレッカー Carl Joseph Millöker らオペレッタの作曲家もよく訪れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今も「芸術カフェ」の伝統は続いており、週末にはピアノの生演奏があり、美術アカデミーの関係者、劇場帰りの客や、ウィーンフィルのメンバーもよく訪れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また現存する「ウィーンの伝統的カフェ」のなかにおいて、伝統的カフェの要件である立地が角地で、ビリヤード台・チェス盤があり、新聞・雑誌の種類が多く、トーネット社（19世紀ドイツの家具職人ミヒャエル・トーネット創設）の家具があり、さらに夏にはシャニガルテン（路上のテラス席）が設けられる等・・、をほぼ満たす貴重なカフェの一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現住所：Gumpendorferstrasse11.1060,Wien　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 柄沢和雄著『ヨーロッパのカフェガイド』雄鶏社, 1990&lt;br /&gt;
* 田部井朋見著『ウィーンのカフェハウス』東京書籍, 2007&lt;br /&gt;
* Café Sperl HP　https://www.cafesperl.at&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<title>カフェ・シュペール</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;カフェ・シュペール&#039;&#039;&#039;　Café Sperl： ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Café Sperl.jpg|代替文=Café Sperl|フレーム|Wikipedia：Café Sperl（英語版）より]]&lt;br /&gt;
　1880年〜現在　街の中心部からやや離れた造形美術アカデミーの近くで開業。当初から多くの造形家・画家が集う「芸術カフェ」として栄えた。特にセセッション（ウィーンの芸術家グループ「分離派」)のメンバーが多く、グスタフ・クリムト Gustav Klimt （画家）、ヨーゼフ・ホフマン Josef Franz Maria Hoffmann （建築家）、コロマン・モーザー Koloman Moser （デザイナー）らが常連であった。さらに近くにアン・デア・ウィーン劇場（主にオペレッタを上演）があり、フランツ・レハール Franz Lehár、カール・ツェラー Carl Adam Johann Nepomuk Zeller、カール・ミレッカー Carl Joseph Millöker らオペレッタの作曲家もよく訪れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今も「芸術カフェ」の伝統は続いており、週末にはピアノの生演奏があり、美術アカデミーの関係者、劇場帰りの客や、ウィーンフィルのメンバーもよく訪れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また現存する「ウィーンの伝統的カフェ」のなかにおいて、伝統的カフェの要件である立地が角地で、ビリヤード台・チェス盤があり、新聞の種類多く、トーネット社（19世紀ドイツの家具職人ミヒャエル・トーネット創設）の家具があり、さらに夏にはシャニガルテン（路上のテラス席）が設けられる等・・、をほぼ満たす貴重なカフェの一つである。&lt;br /&gt;
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　現住所：Gumpendorferstrasse11.1060,Wien　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
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=== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 柄沢和雄著『ヨーロッパのカフェガイド』雄鶏社, 1990&lt;br /&gt;
* 田部井朋見著『ウィーンのカフェハウス』東京書籍, 2007&lt;br /&gt;
* Café Sperl HP　https://www.cafesperl.at&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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