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	<title>コーヒー歴史年表 - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-29T10:11:05Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>カフェ・白銀館</title>
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		<updated>2026-10-11T15:40:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==「カフェ・白銀館 」 das silbernes Kaffeehaus　==&lt;br /&gt;
　イグナーツ・ノイナー Ignaz Neunerが1800年ごろ開業したカフェを1808年に市の中心部、シュピーゲル通り Spiegelgasse とプランケン通り Plankengasseが交わる角に移転。当初は「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」と呼ばれていた。しかし1824年ノイナーは突如店を豪華に改造し、食器からドアノブ、衣装掛けの金具までのすべてを銀製品に変更した。店も「ダス・ズィルバーネス・カフェハウスdas silbernes Kaffeehaus（白銀館）」と呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
　政治的な言論統制の中で、作家をはじめ文化人には生きにくい世の中ではあったが、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようと「カフェ・白銀館」には多くの著名人が訪問して、この時代を代表する文学カフェとなった。詩人ニコラス・レーナウ Nikolaus Lenau、劇作家フランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzar、同フェルディナント・ライムント Ferdinand Raimund、政治詩人アナスタージウス・グリューン Anastasius Grün 、劇作家イグナーツ・カステリ Ignaz Franz Castelli、作家ダインハルトシュタイン Johann Ludwig Dainhardstein らが常連であった。&lt;br /&gt;
1833年の再改装で銀製品は姿を消すが、作家たち知識人は留まり、「カフェ・白銀館」の名を押し上げた。ある時は論議を戦わせ、またある時はチェスやビリヤードに興じた。このカフェの二階にはチェス・ビリヤード専用の部屋があり、多数のビリヤード台はカフェの大きな収入源であった。&lt;br /&gt;
1846年二代目店主ノイナーの死後、文化人・芸術家は徐々に「カフェ・白銀館」から離散した。世の中では、政治に無関心の市民にもリベラリズムが胎動し、カフェの談義にも、反メッテルニヒ体制のものが増えていき、1848年の三月革命・ウィーン会議後のヨーロッパ秩序の崩壊で、ビーダーマイヤー時代は終焉をむかえた。この時代を代表した文学カフェ「カフェ・白銀館」は1855年に閉店した。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』中公新書，1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・平田達治　『ウィーンのカフェ』大修館書店，1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9&amp;diff=50360</id>
		<title>グリシアン・コーヒーハウス</title>
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		<updated>2026-10-10T15:49:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;グリシアン・コーヒーハウス：　&#039;&#039;&#039;Grecian Coffee House==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1665年頃～1843年　ギリシャ人船員のジョージ・コンスタンチン George Constantine がロンドン東部のワッピング  Wapping で開業。1677年頃にロンドンの中心部、テンプルのデヴァルー・コート Devereux Court に移転。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名誉革命前後の1677年～1697年頃からは政治カフェの色合いが強く、啓蒙主義者のマシュー・ティンダル Matthew Tindal をはじめ、多くの[[ホイッグ党|ホイッグ系]]政治家が常連。18世紀初頭の[[トーリー党]]政権時代は最も政治談議が盛んであったが、ホイッグ政権になった1716年以降は「グリシアン」から政治家の姿が消えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前後して、アイザック・ニュートン  Isaac Newton、医師のハンス・スローン Hans Sloan、天文学者エドモンド・ハレー Edmond Halley などの王立協会（ロイヤル・ソサイェティー）の科学者たちが頻繁に訪れるようになった。王立協会は1660年設立の最も歴史がある学術団体で、1710年にはニュートンが会長であり、協会本部が「グリシアン」に近いフリート街のクレイン・コート Crane Court にあった。 また、「グリシアン」は店主がギリシャ人であったために、古典学者が集まり、また法学院が近くにあったことから、法学生や若い法学者も多く訪れ、学術との結びつきが深いコーヒーハウスとなった。劇作家のオリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith やシェイクスピア学者のエドモンド・マローン Edmond Malone も常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
19世紀になると、学者や科学者の足は遠のき、法学生や弁護士たちのたまり場となった。1843年にコーヒーハウスは閉店してパブに業態を変更、現在でもこの場所は「ザ・デヴァルー The Devereux」という店名のパブである。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介著　『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版局 2009年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Grecian Coffee House （英語）　&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%83%AD%E3%82%BC%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E9%96%8B%E6%A5%AD%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF&amp;diff=50359</id>
		<title>＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E3%83%AD%E3%82%BC%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E9%96%8B%E6%A5%AD%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF&amp;diff=50359"/>
		<updated>2026-10-10T15:46:48Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== [コラム]　ロゼのコーヒーハウス開業の経緯 == &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ロンドン在住のレヴァント交易商人のダニエル・エドワーズ Daniel Edwards は、オスマン・トルコのエーゲ海に面する古都スミルナ Smyrna（現在のトルコ共和国第３の都市イズミル Izumir ）に1646年から5年間滞在をしてウール地や絹を中心とした交易取引をしていた。エドワーズの生家ダニエル家はロンドンで有力な商家であった。当時のスミルナには数十件のコーヒーハウスKahveh Kane があり、エドワーズもコーヒーやコーヒーハウスにはなじみがあったといえる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　エドワーズはロンドンに帰還する際に、一人のアルメニア人（ギリシア人ともいわれている）パスカ・ロゼ  Pasuqua Rosée を連れてきた。ロゼは17世紀はじめアドリア海沿岸ダルマティア Dalmacija 地方のラグーザ Ragusa （現在のクロアチア共和国ドゥブロヴニク Dubrovnik ）生まれで、1650年頃にはスミルナに住んでいた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ロンドンでエドワーズの使用人となったロゼの仕事の一つが、エドワーズにコーヒーを淹れることであった。すでにコーヒー飲用の習慣があったエドワーズは、一日に２～３回ほど、一回に２～３杯のコーヒーを飲んでいたといわれている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ロゼが淹れるコーヒーは、商売でエドワーズの屋敷を訪れる商人たちに評判となり、コーヒー目当ての訪問客も増えてきた。来客が多く仕事に支障が出てきたエドワーズは、ロゼにコーヒーハウスを開業するように促した。実際はエドワーズがコーヒーハウスを開業したかったと思われるが、エドワーズが所属しているレヴァント会社（1581年にイギリスのオスマン帝国との貿易独占を認められた特許会社で、交易商人たちの組合のようなもの。）の規約により、コーヒー豆の卸売りはできるが、コーヒーハウスの営業はできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1652年にロゼはコーヒーハウス（小屋）を開業した。実際はエドワーズが実質的経営者で、ロゼは雇われ店主であったと推測される。場所はコーンヒル Cornhill のセント・マイケルSt.Michael 教会の真向かいか敷地内といわれている。（近年の研究では、コーヒーハウスは教会の中庭にあり、建物ではなくあばら家のようなものであったといわれている。教会の中庭にはほかにいくつかのあばら家の商店があったらしい。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　コーヒー小屋を開業したロゼは、『コーヒーの効用 The Vertue of the COFFEE  Drink 』というチラシ（パスカ・ロゼの項の画像を参照）を作った。コーヒーの淹れ方、コーヒーの薬としての効用が詳しく書かれているこのチラシは、コーヒー豆を買いに来た客に配られたとされており、コーヒーハウスでは、飲用のコーヒーを提供するほかにビーンズショップとしての機能もあったと推測される。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ロゼのコーヒー小屋は有名になり徐々に客足が増えてきたが、客を奪われた近隣のタヴァーン（居酒屋）やエールハウスの店主たちは、「ロゼは外国人でロンドン市民ではないので、店の営業をする資格がない。」という苦情を市に提出した。それに対し、エドワーズは義父のホッジス Alderman Hodges の使用人（ホッジスの従弟との説もある）ボウマン Christopher Bowman を店主にして、ロゼと共同で店を続けさせた。因みにホッジスもロンドンで有力なレヴァント商人で、エドワーズはオスマン・トルコから帰国した後にホッジスの娘メアリー Mary と結婚している。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:St Michael&#039;s Alley (49634098776) (Cropped).jpg|サムネイル|330x330ピクセル|「ロンドンで最初のコーヒーハウス」のプレート　　　　　　　　　Wikipedea：Coffee House（英語版）より]]&lt;br /&gt;
　1656年ロゼとボウマンの共同経営となったコーヒー小屋は、教会の向かいの建物に移転をし、ようやくコーヒーハウスとしての店舗になった。この移転や賃貸のことは教会の事業記録に残されている。また、この場所は現在ジャマイカ・ワインハウス Jamaica Wine House が営業しており、「ロンドン最初のコーヒーハウスがあった場所」というプレートが設置されている。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1658年にロゼは店を去った。国外に退去させられた説があるが不明である。また、後年ドイツまたはオランダでコーヒーハウスを営んだという説もあるが憶測の域を出ない。ロゼが開いたコーヒーハウスはボウマンの単独経営となった。1662年ボウマンが肺病で急死した後は、未亡人のメアリーが店を引き継いだが、1666年の大火で店は焼失した。大火後の都市開発でコーヒーハウスがあった建物は再建されたが、コーヒーハウスは再開していない。パスカ・ロゼの消息も不明である。　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参照文献：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;“ALL ABOUT COFFEE  Second Edition”　&#039;&#039;1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介　『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50355</id>
		<title>＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人</title>
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		<updated>2026-10-04T15:23:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1652年に[[パスカ・ロゼ]] Pasqua Rosée がロンドンで最初のコーヒーハウスを開業して以降、1657年頃に「[[レインボウ]] Rainbow Coffee House 」「[[ギャラウェイズ]] Garraway’s Coffee House 」、さらに「[[マイルズ・コーヒーハウス|マイルズ]] Miles’s Coffee House 」を始め、ロンドンの街には次々とコーヒーハウスが開業した。[[ロンドンでペスト大流行|ペストの大流行]]、[[ロンドン大火]]、[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感|女性のコーヒーハウスへの反感]]，[[チャールズ二世]] Charles Ⅱ の「コーヒーハウス禁止令」などの試練を乗り越えて、コーヒーハウスは街の社交場として人気を集め、17世紀末のその数は2000軒とも3000軒ともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンの貴族や上流階級、中産階級の人々は、誰もが行きつけのコーヒーハウスを持つようになった。そして、それぞれのコーヒーハウスには特定の階層や職業の人々集うようになり、客層の均一化がされた。つまり、商人が多く集まるコーヒーハウス、政治家が多く集うコーヒーハウスというように、店ごとの色分けがなされていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、客層の均一化だけではなく、商人が多いコーヒーハウスでは、店内で商取引や株の売買などが行われ、コーヒーハウスの域を出た経済活動が行われることになった。また、作家や詩人が多く集まるコーヒーハウスでは、彼らは文学談義を交わし、政治家が多いコーヒーハウス（政党ごとに違う行きつけのコーヒーハウスがあった）。では、そこで政策が話し合われ、イギリスの政治を動かした。また、ジャーナリストたちは、それらの多くのコーヒーハウスを訪れて情報を仕入れて、それを記事にすることで近代ジャーナリズムの基礎を築いた。これらが「イギリスの政治・経済・文化はコーヒーハウスが生み出した」といわれる所以である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンでコーヒーハウスに最も勢いがあった、17世紀後半から18世紀を中心に、著名なコーヒーハウス（色分けでいう「政治カフェ」「文学カフェ」「ジャーナリズムカフェ」）とそこに通った有名人をここに紹介してみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「商業カフェ」は、[[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「レインボウ・コーヒーハウス Rainbow Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1656(7)年にフリート街 Fleet St. で開業。多くの法律家で賑わっていた中に、「コーヒーハウスの父」といわれた旅行家・作家の[[ヘンリー・ブラント]] Sir Henry Blount がいた。「レインボウ」は、ロンドン大火の直後に「代用貨幣」を発行した先駆けの店でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[レインボウ]]・コーヒーハウス」　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「マイルズ・コーヒーハウス Miles’s Coffee House 」　　&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウエストミンスター宮殿　Palace of Westminster に隣接するニュー・パレス・ヤード　New Palace Yard にあり、1659年ごろに政治家のジェームズ・ハリントン　James Harrington が「[[ロータ・クラブ]] Rota Club 」を結成し、共和制政治の議論がなされていたコーヒーハウス。ハリントンの政治家仲間のほか、サミュエル・ピープス Samuel Pepys （作家）、ジョン・ミルトン John Milton （詩人）らの文学者や、軍人のジョン・ワイルドマン Sir Lohn Wildman 、ターコネル伯爵 Earl of Tyrconnell たちが出入りしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ウィルズ・コーヒーハウス Will’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1660年頃にコヴェント・ガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。文学者や知識人が多く、ロンドンの文学カフェの中で最も有名になったこの店の中心人物は、桂冠詩人のジョン・ドライデン John Dryden であった。ほかに、[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift（風刺作家）、アレグザンダー・ポープ Alexander Pope（詩人）、[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison（劇作家・政治家）、リチャード・スティール Richard Steele（作家・政治家）、ウィリアム・コングリーヴ William Congreve（作家）、ジョン・アーバスノット John Arbuthnot（博学者）、ジョン・ゲイ John  Gay(詩人・劇作家）たちが、夜遅くまで文学を論じあっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「グリシアン・コーヒーハウス Grecian Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1665年頃に開業、1677年にテンプル教会 Temple Church 近くのデヴァルー・コート Devereux Court に移転。名誉革命前後の時期には、近くのテンプル法学院で学んだ法曹家やジョン・トレンチャード John Trenchard、ウォルター・モイル Walter Moyle、マシュー・ティルダン Matthew Tindalらの[[ホイッグ党]]系政治家・啓蒙主義者が集まる「政治カフェ」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党が政権を掌握した後は、政治家と入れ替わるようにアイザック・ニュートン Issac Newton（科学者）、ハンス・スローン Hans Sloan（医師）、エドマンド・ハレー Edmund Halley（天文学者）、オリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith（劇作家）、エドモンド・マローン Edmond Malone（文学者）らの科学者や文化人が常連になった。さらに、19世紀には法学生や弁護士のたまり場となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スローターズ・コーヒーハウス Slaughter’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1962年にトーマス・スローター Thomas Slaughter がコヴェント・ガーデンのセント・マーティンズ通り St. Martin’s Ln. で開業。画家や彫刻家などの芸術家に人気で、ジョン・ドライデン（桂冠詩人）、トーマス・ゲインズバラ Thomas Gainsborough （画家）、ウィリアム・ホガース William Hogarth (風刺画家)らが出入りしていた。また、ルイ・フランソワ・ルビリアック Louis Francois Roubilliac （フランスの彫刻家）、アブラハム・ド・ムワヴル Abraham de Moivre （フランスの数学者）、ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin （アメリカの博学者）らの外国人の常連も多かった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ホワイツ・チョコレートハウス White’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年イタリア人のフランチェスコ・ビアンコ（英語でホワイト）Francesco Bianco がセント・ジェイムズ通り St. James’s St. で開業。遊び人が多く、[[トーリー党]]系の人々が多かったといわれている。ファッションや浮いた話でもちきりの店では、芝居や舞踏会のチケットも販売していた。また、富と時間がある貴族たちが集うコーヒーハウスであり、彼らはいかさま賭博師たちの餌食になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1733年にクラブとなり、コーヒーハウスの営業は終了したが、19世紀の伊達男ジョージ・ブライアン・ブランメル George Bryan Brummell も会員であったこのクラブは現在も続いている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「オジンダズ・チョコレートハウス Ozinda’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年以前にセント・ジェイムズ通りで開業。トーリー党の拠点のコーヒーハウスの一つであり、トーリー党系であったジョン・アーバスノット John Arbauthnot （博学者）やジョナサン・スウィフト Jonathan Swift （作家） が定期的に会合を開いていた。　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ナンドーズ・コーヒーハウス Nando’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開業年は不明だが、1696年には存在していた記録がある。フリート街 Fleet St. にあり、近隣の裁判所関係者をはじめ法曹界の人々に人気があった。弁護士でトーリー党の政治家であったエドワード・サーロウ Edward Thurlow も常連客の一人であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ココア・トゥリー・チョコレートハウス Cocoa Tree Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1698年頃にセント・ジェイムズ宮殿 St. James’s Palace 近くのペル・メル通り Pall Mall で開業。王政・貴族・カトリックを意識した高級な店であった。トーリー党の政治家が多く、のちに庶民院（下院）議長になったロバート・ハーレー Robert Harley の会派は毎週木曜日にここで会合を開いていた。1745年頃には党の議員クラブになりコーヒーハウスとしての営業は終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スミルナ・コーヒーハウス Smyrna Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1702年頃ペル・メルで開業したホイッグ党系のコーヒーハウス。後にセント・ジェイムズ通りに移転した。初期のころにはトーリー&amp;lt;s&amp;gt;党系&amp;lt;/s&amp;gt;・ホイッグ&amp;lt;s&amp;gt;系&amp;lt;/s&amp;gt;の区分もなく、ジョン・アーバスノットやジョナサン・スウィフトも訪れていた。1714年以降は、ジャコバイト（名誉革命によってウィリアム三世が即位した後も、ジェームズ二世を支持した人々）のたまり場になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス St. James’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1705年にセント・ジェイムズ通りで開業。ホイッグ党系の政治家が集う「政治カフェ」であったが、ここでの政治談議や情報を得るために多くのジャーナリストが訪れた。ジョナサン・スィフト、リチャード・スティール、ジョセフ・アディソンもここで話題を仕入れていた。政治色が薄れた18世紀後半には、劇作家のオリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith、デヴィッド・ギャリック Devid Garrickらの文化人たちが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「トムズ・コーヒーハウス Tom’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンには複数の「トムズ」があったが、ここではコヴェント・ガーデン、ラッセル通りの「トムズ」を紹介する。「ウィルズ」「バトンズ」が近くにあり多くの文学者たちが常連であったが、ジョセフ・アディソンが、かかわりが深かった「バトンズ」に「トムズ」の常連客を鞍替えさせたという逸話が残っている。のちには俳優で劇作家のデヴィッド・ギャリックや詩人のトーマス・チャタートン Thomas Chattertonらが常連となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[トムズ]]・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「バトンズ・コーヒーハウス Button’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1712年ごろにコヴェント・ガーデン・ラッセル通りで開業。開業にかかわりがあったジョセフ・アディソンをはじめ、ジョナサン・スィフト 、リチャード・スティール、博学者のジョン・アーバスノット、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope ら多くの作家や文学者たちが常連であった。近代ジャーナリズムに果たした役割も大きく、「ウィルズ」「トムズ」に続くロンドンを代表する「文学カフェ」の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[バトンズ]]・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ベッドフォード・コーヒーハウス Bedford Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」の後に脚光を浴びたコヴェント・ガーデンにあった「文学カフェ」で、開業は18世紀初頭と思われる。「ウィルズ」「バトンズ」を引き継ぐこのコーヒーハウスには、劇作家のデヴィッド・ギャリック、詩人のアレクサンダー・ポープやウィリアム・コリンズ William Collins 、小説家ヘンリー・フィールディング Henry Fielding 、劇作家リチャード・シェリダン Richard B Sheridan らの多彩な人々が集った。一方で科学者たちにも人気で、ジョン・デザグリエルス John Desaguliers （学士院会員の自然科学者）は、客の前で科学実験をし、店内で講義をして、これが店の名物になっていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ロイヤル Café Royal 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1865年ピカデリー Piccadilly で開業のロンドン最後の「文学カフェ」。詩人で作家のオスカー・ワイルド Oscar Wilde はいつも美少年と連れ立って来店していた。D・Ｈ・ロレンス D H Lawrence （詩人・作家）やアルトゥル・ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer （ドイツの哲学者）も常連であった。20世紀になると、亡命作家のシュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 、エルンスト・トラー Ernst Toller 、ヘルマン・ケステン Hermann Kesten らが訪れていた。第二次大戦後は「文学カフェ」としての役割は終わり、高級レストランとパーティルームとなり、現在は改装をして高級ホテルとして営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[ロイヤル・コーヒーハウス|カフェ・ロイヤル]]」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                        　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers &#039;&#039; ALL ABOUT COFFEE  Second Edition、&#039;&#039;1935&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Bryant Lillywhite, &#039;&#039;London Coffee Houses&#039;&#039;  (George Allen and Unwin , 1963)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介 『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50354</id>
		<title>＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50354"/>
		<updated>2026-10-04T15:19:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1652年に[[パスカ・ロゼ]] Pasqua Rosée がロンドンで最初のコーヒーハウスを開業して以降、1657年頃に「[[レインボウ]] Rainbow Coffee House 」「[[ギャラウェイズ]] Garraway’s Coffee House 」、さらに「[[マイルズ・コーヒーハウス|マイルズ]] Miles’s Coffee House 」を始め、ロンドンの街には次々とコーヒーハウスが開業した。[[ロンドンでペスト大流行|ペストの大流行]]、[[ロンドン大火]]、[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感|女性のコーヒーハウスへの反感]]，[[チャールズ二世]] Charles Ⅱ の「コーヒーハウス禁止令」などの試練を乗り越えて、コーヒーハウスは街の社交場として人気を集め、17世紀末のその数は2000軒とも3000軒ともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンの貴族や上流階級、中産階級の人々は、誰もが行きつけのコーヒーハウスを持つようになった。そして、それぞれのコーヒーハウスには特定の階層や職業の人々集うようになり、客層の均一化がされた。つまり、商人が多く集まるコーヒーハウス、政治家が多く集うコーヒーハウスというように、店ごとの色分けがなされていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、客層の均一化だけではなく、商人が多いコーヒーハウスでは、店内で商取引や株の売買などが行われ、コーヒーハウスの域を出た経済活動が行われることになった。また、作家や詩人が多く集まるコーヒーハウスでは、彼らは文学談義を交わし、政治家が多いコーヒーハウス（政党ごとに違う行きつけのコーヒーハウスがあった）。では、そこで政策が話し合われ、イギリスの政治を動かした。また、ジャーナリストたちは、それらの多くのコーヒーハウスを訪れて情報を仕入れて、それを記事にすることで近代ジャーナリズムの基礎を築いた。これらが「イギリスの政治・経済・文化はコーヒーハウスが生み出した」といわれる所以である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンでコーヒーハウスに最も勢いがあった、17世紀後半から18世紀を中心に、著名なコーヒーハウス（色分けでいう「政治カフェ」「文学カフェ」「ジャーナリズムカフェ」）とそこに通った有名人をここに紹介してみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「商業カフェ」は、[[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「レインボウ・コーヒーハウス Rainbow Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1656(7)年にフリート街 Fleet St. で開業。多くの法律家で賑わっていた中に、「コーヒーハウスの父」といわれた旅行家・作家の[[ヘンリー・ブラント]] Sir Henry Blount がいた。「レインボウ」は、ロンドン大火の直後に「代用貨幣」を発行した先駆けの店でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[レインボウ]]・コーヒーハウス」　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「マイルズ・コーヒーハウス Miles’s Coffee House 」　　&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウエストミンスター宮殿　Palace of Westminster に隣接するニュー・パレス・ヤード　New Palace Yard にあり、1659年ごろに政治家のジェームズ・ハリントン　James Harrington が「[[ロータ・クラブ]] Rota Club 」を結成し、共和制政治の議論がなされていたコーヒーハウス。ハリントンの政治家仲間のほか、サミュエル・ピープス Samuel Pepys （作家）、ジョン・ミルトン John Milton （詩人）らの文学者や、軍人のジョン・ワイルドマン Sir Lohn Wildman 、ターコネル伯爵 Earl of Tyrconnell たちが出入りしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ウィルズ・コーヒーハウス Will’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1660年頃にコヴェント・ガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。文学者や知識人が多く、ロンドンの文学カフェの中で最も有名になったこの店の中心人物は、桂冠詩人のジョン・ドライデン John Dryden であった。ほかに、[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift（風刺作家）、アレグザンダー・ポープ Alexander Pope（詩人）、[[ジョセフ・アディソン]] Joseph Addison（劇作家・政治家）、リチャード・スティール Richard Steele（作家・政治家）、ウィリアム・コングリーヴ William Congreve（作家）、ジョン・アーバスノット John Arbuthnot（博学者）、ジョン・ゲイ John  Gay(詩人・劇作家）たちが、夜遅くまで文学を論じあっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[ウィルズ・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「グリシアン・コーヒーハウス Grecian Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1665年頃に開業、1677年にテンプル教会 Temple Church 近くのデヴァルー・コート Devereux Court に移転。名誉革命前後の時期には、近くのテンプル法学院で学んだ法曹家やジョン・トレンチャード John Trenchard、ウォルター・モイル Walter Moyle、マシュー・ティルダン Matthew Tindalらの[[ホイッグ党]]系政治家・啓蒙主義者が集まる「政治カフェ」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党が政権を掌握した後は、政治家と入れ替わるようにアイザック・ニュートン Issac Newton（科学者）、ハンス・スローン Hans Sloan（医師）、エドマンド・ハレー Edmund Halley（天文学者）、オリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith（劇作家）、エドモンド・マローン Edmond Malone（文学者）らの科学者や文化人が常連になった。さらに、19世紀には法学生や弁護士のたまり場となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スローターズ・コーヒーハウス Slaughter’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1962年にトーマス・スローター Thomas Slaughter がコヴェント・ガーデンのセント・マーティンズ通り St. Martin’s Ln. で開業。画家や彫刻家などの芸術家に人気で、ジョン・ドライデン（桂冠詩人）、トーマス・ゲインズバラ Thomas Gainsborough （画家）、ウィリアム・ホガース William Hogarth (風刺画家)らが出入りしていた。また、ルイ・フランソワ・ルビリアック Louis Francois Roubilliac （フランスの彫刻家）、アブラハム・ド・ムワヴル Abraham de Moivre （フランスの数学者）、ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin （アメリカの博学者）らの外国人の常連も多かった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ホワイツ・チョコレートハウス White’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年イタリア人のフランチェスコ・ビアンコ（英語でホワイト）Francesco Bianco がセント・ジェイムズ通り St. James’s St. で開業。遊び人が多く、[[トーリー党]]系の人々が多かったといわれている。ファッションや浮いた話でもちきりの店では、芝居や舞踏会のチケットも販売していた。また、富と時間がある貴族たちが集うコーヒーハウスであり、彼らはいかさま賭博師たちの餌食になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1733年にクラブとなり、コーヒーハウスの営業は終了したが、19世紀の伊達男ジョージ・ブライアン・ブランメル George Bryan Brummell も会員であったこのクラブは現在も続いている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「オジンダズ・チョコレートハウス Ozinda’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年以前にセント・ジェイムズ通りで開業。トーリー党の拠点のコーヒーハウスの一つであり、トーリー党系であったジョン・アーバスノット John Arbauthnot （博学者）やジョナサン・スウィフト Jonathan Swift （作家） が定期的に会合を開いていた。　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ナンドーズ・コーヒーハウス Nando’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開業年は不明だが、1696年には存在していた記録がある。フリート街 Fleet St. にあり、近隣の裁判所関係者をはじめ法曹界の人々に人気があった。弁護士でトーリー党の政治家であったエドワード・サーロウ Edward Thurlow も常連客の一人であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ココア・トゥリー・チョコレートハウス Cocoa Tree Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1698年頃にセント・ジェイムズ宮殿 St. James’s Palace 近くのペル・メル通り Pall Mall で開業。王政・貴族・カトリックを意識した高級な店であった。トーリー党の政治家が多く、のちに庶民院（下院）議長になったロバート・ハーレー Robert Harley の会派は毎週木曜日にここで会合を開いていた。1745年頃には党の議員クラブになりコーヒーハウスとしての営業は終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スミルナ・コーヒーハウス Smyrna Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1702年頃ペル・メルで開業したホイッグ党系のコーヒーハウス。後にセント・ジェイムズ通りに移転した。初期のころにはトーリー&amp;lt;s&amp;gt;党系&amp;lt;/s&amp;gt;・ホイッグ&amp;lt;s&amp;gt;系&amp;lt;/s&amp;gt;の区分もなく、ジョン・アーバスノットやジョナサン・スウィフトも訪れていた。1714年以降は、ジャコバイト（名誉革命によってウィリアム三世が即位した後も、ジェームズ二世を支持した人々）のたまり場になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス St. James’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1705年にセント・ジェイムズ通りで開業。ホイッグ党系の政治家が集う「政治カフェ」であったが、ここでの政治談議や情報を得るために多くのジャーナリストが訪れた。ジョナサン・スィフト、リチャード・スティール、ジョセフ・アディソンもここで話題を仕入れていた。政治色が薄れた18世紀後半には、劇作家のオリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith、デヴィッド・ギャリック Devid Garrickらの文化人たちが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「トムズ・コーヒーハウス Tom’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンには複数の「トムズ」があったが、ここではコヴェント・ガーデン、ラッセル通りの「トムズ」を紹介する。「ウィルズ」「バトンズ」が近くにあり多くの文学者たちが常連であったが、ジョセフ・アディソンが、かかわりが深かった「バトンズ」に「トムズ」の常連客を鞍替えさせたという逸話が残っている。のちには俳優で劇作家のデヴィッド・ギャリックや詩人のトーマス・チャタートン Thomas Chattertonらが常連となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[トムズ]]・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「バトンズ・コーヒーハウス Button’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1712年ごろにコヴェント・ガーデン・ラッセル通りで開業。開業にかかわりがあったジョセフ・アディソンをはじめ、ジョナサン・スィフト 、リチャード・スティール、博学者のジョン・アーバスノット、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope ら多くの作家や文学者たちが常連であった。近代ジャーナリズムに果たした役割も大きく、「ウィルズ」「トムズ」に続くロンドンを代表する「文学カフェ」の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[バトンズ]]・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ベッドフォード・コーヒーハウス Bedford Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」の後に脚光を浴びたコヴェント・ガーデンにあった「文学カフェ」で、開業は18世紀初頭と思われる。「ウィルズ」「バトンズ」を引き継ぐこのコーヒーハウスには、劇作家のデヴィッド・ギャリック、詩人のアレクサンダー・ポープやウィリアム・コリンズ William Collins 、小説家ヘンリー・フィールディング Henry Fielding 、劇作家リチャード・シェリダン Richard B Sheridan らの多彩な人々が集った。一方で科学者たちにも人気で、ジョン・デザグリエルス John Desaguliers （学士院会員の自然科学者）は、客の前で科学実験をし、店内で講義をして、これが店の名物になっていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ロイヤル Café Royal 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1865年ピカデリー Piccadilly で開業のロンドン最後の「文学カフェ」。詩人で作家のオスカー・ワイルド Oscar Wilde はいつも美少年と連れ立って来店していた。D・Ｈ・ロレンス D H Lawrence （詩人・作家）やアルトゥル・ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer （ドイツの哲学者）も常連であった。20世紀になると、亡命作家のシュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 、エルンスト・トラー Ernst Toller 、ヘルマン・ケステン Hermann Kesten らが訪れていた。第二次大戦後は「文学カフェ」としての役割は終わり、高級レストランとパーティルームとなり、現在は改装をして高級ホテルとして営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「[[ロイヤル・コーヒーハウス|カフェ・ロイヤル]]」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                        　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers &#039;&#039; ALL ABOUT COFFEE  Second Edition、&#039;&#039;1935&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Bryant Lillywhite, &#039;&#039;London Coffee Houses&#039;&#039;  (George Allen and Unwin , 1963)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介 『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50353</id>
		<title>＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人</title>
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		<updated>2026-10-04T14:47:49Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1652年に[[パスカ・ロゼ]] Pasqua Rosée がロンドンで最初のコーヒーハウスを開業して以降、1657年頃に「[[レインボウ]] Rainbow Coffee House 」「[[ギャラウェイズ]] Garraway’s Coffee House 」、さらに「[[マイルズ・コーヒーハウス|マイルズ]] Miles’s Coffee House 」を始め、ロンドンの街には次々とコーヒーハウスが開業した。[[ロンドンでペスト大流行|ペストの大流行]]、[[ロンドン大火]]、[[女性のコーヒーハウスへの反感]]，[[チャールズ二世]] Charles Ⅱ の「コーヒーハウス禁止令」などの試練を乗り越えて、コーヒーハウスは街の社交場として人気を集め、17世紀末のその数は2000軒とも3000軒ともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンの貴族や上流階級、中産階級の人々は、誰もが行きつけのコーヒーハウスを持つようになった。そして、それぞれのコーヒーハウスには特定の階層や職業の人々集うようになり、客層の均一化がされた。つまり、商人が多く集まるコーヒーハウス、政治家が多く集うコーヒーハウスというように、店ごとの色分けがなされていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、客層の均一化だけではなく、商人が多いコーヒーハウスでは、店内で商取引や株の売買などが行われ、コーヒーハウスの域を出た経済活動が行われることになった。また、作家や詩人が多く集まるコーヒーハウスでは、彼らは文学談義を交わし、政治家が多いコーヒーハウス（政党ごとに違う行きつけのコーヒーハウスがあった）。では、そこで政策が話し合われ、イギリスの政治を動かした。また、ジャーナリストたちは、それらの多くのコーヒーハウスを訪れて情報を仕入れて、それを記事にすることで近代ジャーナリズムの基礎を築いた。これらが「イギリスの政治・経済・文化はコーヒーハウスが生み出した」といわれる所以である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンでコーヒーハウスに最も勢いがあった、17世紀後半から18世紀を中心に、著名なコーヒーハウス（色分けでいう「政治カフェ」「文学カフェ」「ジャーナリズムカフェ」）とそこに通った有名人をここに紹介してみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「商業カフェ」は、[コラム][[コーヒーハウスと商取引]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「レインボウ・コーヒーハウス Rainbow Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1656(7)年にフリート街 Fleet St. で開業。多くの法律家で賑わっていた中に、「コーヒーハウスの父」といわれた旅行家・作家のヘンリー・ブラント Sir Henry Blount がいた。「レインボウ」は、ロンドン大火の直後に「代用貨幣」を発行した先駆けの店でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「レインボウ・コーヒーハウス」　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「マイルズ・コーヒーハウス Miles’s Coffee House 」　　&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウエストミンスター宮殿　Palace of Westminster に隣接するニュー・パレス・ヤード　New Palace Yard にあり、1659年ごろに政治家のジェームズ・ハリントン　James Harrington が「ロータ・クラブ Rota Club 」を結成し、共和制政治の議論がなされていたコーヒーハウス。ハリントンの政治家仲間のほか、サミュエル・ピープス Samuel Pepys （作家）、ジョン・ミルトン John Milton （詩人）らの文学者や、軍人のジョン・ワイルドマン Sir Lohn Wildman 、ターコネル伯爵 Earl of Tyrconnell たちが出入りしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「マイルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ウィルズ・コーヒーハウス Will’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1660年頃にコヴェント・ガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。文学者や知識人が多く、ロンドンの文学カフェの中で最も有名になったこの店の中心人物は、桂冠詩人のジョン・ドライデン John Dryden であった。ほかに、ジョナサン・スウィフト Jonathan Swift（風刺作家）、アレグザンダー・ポープ Alexander Pope（詩人）、ジョセフ・アディソン Joseph Addison（劇作家・政治家）、リチャード・スティール Richard Steele（作家・政治家）、ウィリアム・コングリーヴ William Congreve（作家）、ジョン・アーバスノット John Arbuthnot（博学者）、ジョン・ゲイ John  Gay(詩人・劇作家）たちが、夜遅くまで文学を論じあっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ウィルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「グリシアン・コーヒーハウス Grecian Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1665年頃に開業、1677年にテンプル教会 Temple Church 近くのデヴァルー・コート Devereux Court に移転。名誉革命前後の時期には、近くのテンプル法学院で学んだ法曹家やジョン・トレンチャード John Trenchard、ウォルター・モイル Walter Moyle、マシュー・ティルダン Matthew Tindalらのホイッグ党系政治家・啓蒙主義者が集まる「政治カフェ」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党が政権を掌握した後は、政治家と入れ替わるようにアイザック・ニュートン Issac Newton（科学者）、ハンス・スローン Hans Sloan（医師）、エドマンド・ハレー Edmund Halley（天文学者）、オリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith（劇作家）、エドモンド・マローン Edmond Malone（文学者）らの科学者や文化人が常連になった。さらに、19世紀には法学生や弁護士のたまり場となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「グリシアン・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スローターズ・コーヒーハウス Slaughter’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1962年にトーマス・スローター Thomas Slaughter がコヴェント・ガーデンのセント・マーティンズ通り St. Martin’s Ln. で開業。画家や彫刻家などの芸術家に人気で、ジョン・ドライデン（桂冠詩人）、トーマス・ゲインズバラ Thomas Gainsborough （画家）、ウィリアム・ホガース William Hogarth (風刺画家)らが出入りしていた。また、ルイ・フランソワ・ルビリアック Louis Francois Roubilliac （フランスの彫刻家）、アブラハム・ド・ムワヴル Abraham de Moivre （フランスの数学者）、ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin （アメリカの博学者）らの外国人の常連も多かった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ホワイツ・チョコレートハウス White’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年イタリア人のフランチェスコ・ビアンコ（英語でホワイト）Francesco Bianco がセント・ジェイムズ通り St. James’s St. で開業。遊び人が多く、トーリー党系の人々が多かったといわれている。ファッションや浮いた話でもちきりの店では、芝居や舞踏会のチケットも販売していた。また、富と時間がある貴族たちが集うコーヒーハウスであり、彼らはいかさま賭博師たちの餌食になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1733年にクラブとなり、コーヒーハウスの営業は終了したが、19世紀の伊達男ジョージ・ブライアン・ブランメル George Bryan Brummell も会員であったこのクラブは現在も続いている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「オジンダズ・チョコレートハウス Ozinda’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年以前にセント・ジェイムズ通りで開業。トーリー党の拠点のコーヒーハウスの一つであり、トーリー党系であったジョン・アーバスノット John Arbauthnot （博学者）やジョナサン・スウィフト Jonathan Swift （作家） が定期的に会合を開いていた。　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ナンドーズ・コーヒーハウス Nando’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開業年は不明だが、1696年には存在していた記録がある。フリート街 Fleet St. にあり、近隣の裁判所関係者をはじめ法曹界の人々に人気があった。弁護士でトーリー党の政治家であったエドワード・サーロウ Edward Thurlow も常連客の一人であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ココア・トゥリー・チョコレートハウス Cocoa Tree Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1698年頃にセント・ジェイムズ宮殿 St. James’s Palace 近くのペル・メル通り Pall Mall で開業。王政・貴族・カトリックを意識した高級な店であった。トーリー党の政治家が多く、のちに庶民院（下院）議長になったロバート・ハーレー Robert Harley の会派は毎週木曜日にここで会合を開いていた。1745年頃には党の議員クラブになりコーヒーハウスとしての営業は終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ココアトゥリー（コーヒーハウス）」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スミルナ・コーヒーハウス Smyrna Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1702年頃ペル・メルで開業したホイッグ党系のコーヒーハウス。後にセント・ジェイムズ通りに移転した。初期のころにはトーリー&amp;lt;s&amp;gt;党系&amp;lt;/s&amp;gt;・ホイッグ&amp;lt;s&amp;gt;系&amp;lt;/s&amp;gt;の区分もなく、ジョン・アーバスノットやジョナサン・スウィフトも訪れていた。1714年以降は、ジャコバイト（名誉革命によってウィリアム三世が即位した後も、ジェームズ二世を支持した人々）のたまり場になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス St. James’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1705年にセント・ジェイムズ通りで開業。ホイッグ党系の政治家が集う「政治カフェ」であったが、ここでの政治談議や情報を得るために多くのジャーナリストが訪れた。ジョナサン・スィフト、リチャード・スティール、ジョセフ・アディソンもここで話題を仕入れていた。政治色が薄れた18世紀後半には、劇作家のオリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith、デヴィッド・ギャリック Devid Garrickらの文化人たちが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「トムズ・コーヒーハウス Tom’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンには複数の「トムズ」があったが、ここではコヴェント・ガーデン、ラッセル通りの「トムズ」を紹介する。「ウィルズ」「バトンズ」が近くにあり多くの文学者たちが常連であったが、ジョセフ・アディソンが、かかわりが深かった「バトンズ」に「トムズ」の常連客を鞍替えさせたという逸話が残っている。のちには俳優で劇作家のデヴィッド・ギャリックや詩人のトーマス・チャタートン Thomas Chattertonらが常連となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「トムズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「バトンズ・コーヒーハウス Button’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1712年ごろにコヴェント・ガーデン・ラッセル通りで開業。開業にかかわりがあったジョセフ・アディソンをはじめ、ジョナサン・スィフト 、リチャード・スティール、博学者のジョン・アーバスノット、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope ら多くの作家や文学者たちが常連であった。近代ジャーナリズムに果たした役割も大きく、「ウィルズ」「トムズ」に続くロンドンを代表する「文学カフェ」の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「バトンズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ベッドフォード・コーヒーハウス Bedford Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」の後に脚光を浴びたコヴェント・ガーデンにあった「文学カフェ」で、開業は18世紀初頭と思われる。「ウィルズ」「バトンズ」を引き継ぐこのコーヒーハウスには、劇作家のデヴィッド・ギャリック、詩人のアレクサンダー・ポープやウィリアム・コリンズ William Collins 、小説家ヘンリー・フィールディング Henry Fielding 、劇作家リチャード・シェリダン Richard B Sheridan らの多彩な人々が集った。一方で科学者たちにも人気で、ジョン・デザグリエルス John Desaguliers （学士院会員の自然科学者）は、客の前で科学実験をし、店内で講義をして、これが店の名物になっていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ロイヤル Café Royal 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1865年ピカデリー Piccadilly で開業のロンドン最後の「文学カフェ」。詩人で作家のオスカー・ワイルド Oscar Wilde はいつも美少年と連れ立って来店していた。D・Ｈ・ロレンス D H Lawrence （詩人・作家）やアルトゥル・ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer （ドイツの哲学者）も常連であった。20世紀になると、亡命作家のシュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 、エルンスト・トラー Ernst Toller 、ヘルマン・ケステン Hermann Kesten らが訪れていた。第二次大戦後は「文学カフェ」としての役割は終わり、高級レストランとパーティルームとなり、現在は改装をして高級ホテルとして営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「カフェ・ロイヤル」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                        　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers &#039;&#039; ALL ABOUT COFFEE  Second Edition、&#039;&#039;1935&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Bryant Lillywhite, &#039;&#039;London Coffee Houses&#039;&#039;  (George Allen and Unwin , 1963)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介 『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50347</id>
		<title>＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50347"/>
		<updated>2026-09-30T13:32:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 店名の変更&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1652年にパスカ・ロゼ Pasqua Rosée がロンドンで最初のコーヒーハウスを開業して以降、1657年頃に「レインボウ Rainbow Coffee House 」「ギャラウェイズ Garraway’s Coffee House 」、さらに「マイルズ Miles’s Coffee House 」を始め、ロンドンの街には次々とコーヒーハウスが開業した。ペストの大流行、ロンドン大火、女性のコーヒーハウスへの反感，チャールズ２世 Charles Ⅱ の「コーヒーハウス禁止令」などの試練を乗り越えて、コーヒーハウスは街の社交場として人気を集め、17世紀末のその数は2000軒とも3000軒ともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンの貴族や上流階級、中産階級の人々は、誰もが行きつけのコーヒーハウスを持つようになった。そして、それぞれのコーヒーハウスには特定の階層や職業の人々集うようになり、客層の均一化がされた。つまり、商人が多く集まるコーヒーハウス、政治家が多く集うコーヒーハウスというように、店ごとの色分けがなされていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、客層の均一化だけではなく、商人が多いコーヒーハウスでは、店内で商取引や株の売買などが行われ、コーヒーハウスの域を出た経済活動が行われることになった。また、作家や詩人が多く集まるコーヒーハウスでは、彼らは文学談義を交わし、政治家が多いコーヒーハウス（政党ごとに違う行きつけのコーヒーハウスがあった）。では、そこで政策が話し合われ、イギリスの政治を動かした。また、ジャーナリストたちは、それらの多くのコーヒーハウスを訪れて情報を仕入れて、それを記事にすることで近代ジャーナリズムの基礎を築いた。これらが「イギリスの政治・経済・文化はコーヒーハウスが生み出した」といわれる所以である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンでコーヒーハウスに最も勢いがあった、17世紀後半から18世紀を中心に、著名なコーヒーハウス（色分けでいう「政治カフェ」「文学カフェ」「ジャーナリズムカフェ」）とそこに通った有名人をここに紹介してみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「商業カフェ」は、[コラム]商取引とコーヒーハウス &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「レインボウ・コーヒーハウス Rainbow Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1656(7)年にフリート街 Fleet St. で開業。多くの法律家で賑わっていた中に、「コーヒーハウスの父」といわれた旅行家・作家のヘンリー・ブラント Sir Henry Blount がいた。「レインボウ」は、ロンドン大火の直後に「代用貨幣」を発行した先駆けの店でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「レインボウ・コーヒーハウス」　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「マイルズ・コーヒーハウス Miles’s Coffee House 」　　&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウエストミンスター宮殿　Palace of Westminster に隣接するニュー・パレス・ヤード　New Palace Yard にあり、1659年ごろに政治家のジェームズ・ハリントン　James Harrington が「ロータ・クラブ Rota Club 」を結成し、共和制政治の議論がなされていたコーヒーハウス。ハリントンの政治家仲間のほか、サミュエル・ピープス Samuel Pepys （作家）、ジョン・ミルトン John Milton （詩人）らの文学者や、軍人のジョン・ワイルドマン Sir Lohn Wildman 、ターコネル伯爵 Earl of Tyrconnell たちが出入りしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「マイルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ウィルズ・コーヒーハウス Will’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1660年頃にコヴェント・ガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。文学者や知識人が多く、ロンドンの文学カフェの中で最も有名になったこの店の中心人物は、桂冠詩人のジョン・ドライデン John Dryden であった。ほかに、ジョナサン・スウィフト Jonathan Swift（風刺作家）、アレグザンダー・ポープ Alexander Pope（詩人）、ジョセフ・アディソン Joseph Addison（劇作家・政治家）、リチャード・スティール Richard Steele（作家・政治家）、ウィリアム・コングリーヴ William Congreve（作家）、ジョン・アーバスノット John Arbuthnot（博学者）、ジョン・ゲイ John  Gay(詩人・劇作家）たちが、夜遅くまで文学を論じあっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ウィルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「グリシアン・コーヒーハウス Grecian Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1665年頃に開業、1677年にテンプル教会 Temple Church 近くのデヴァルー・コート Devereux Court に移転。名誉革命前後の時期には、近くのテンプル法学院で学んだ法曹家やジョン・トレンチャード John Trenchard、ウォルター・モイル Walter Moyle、マシュー・ティルダン Matthew Tindalらのホイッグ党系政治家・啓蒙主義者が集まる「政治カフェ」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党が政権を掌握した後は、政治家と入れ替わるようにアイザック・ニュートン Issac Newton（科学者）、ハンス・スローン Hans Sloan（医師）、エドマンド・ハレー Edmund Halley（天文学者）、オリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith（劇作家）、エドモンド・マローン Edmond Malone（文学者）らの科学者や文化人が常連になった。さらに、19世紀には法学生や弁護士のたまり場となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「グリシアン・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スローターズ・コーヒーハウス Slaughter’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1962年にトーマス・スローター Thomas Slaughter がコヴェント・ガーデンのセント・マーティンズ通り St. Martin’s Ln. で開業。画家や彫刻家などの芸術家に人気で、ジョン・ドライデン（桂冠詩人）、トーマス・ゲインズバラ Thomas Gainsborough （画家）、ウィリアム・ホガース William Hogarth (風刺画家)らが出入りしていた。また、ルイ・フランソワ・ルビリアック Louis Francois Roubilliac （フランスの彫刻家）、アブラハム・ド・ムワヴル Abraham de Moivre （フランスの数学者）、ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin （アメリカの博学者）らの外国人の常連も多かった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ホワイツ・チョコレートハウス White’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年イタリア人のフランチェスコ・ビアンコ（英語でホワイト）Francesco Bianco がセント・ジェイムズ通り St. James’s St. で開業。遊び人が多く、トーリー党系の人々が多かったといわれている。ファッションや浮いた話でもちきりの店では、芝居や舞踏会のチケットも販売していた。また、富と時間がある貴族たちが集うコーヒーハウスであり、彼らはいかさま賭博師たちの餌食になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1733年にクラブとなり、コーヒーハウスの営業は終了したが、19世紀の伊達男ジョージ・ブライアン・ブランメル George Bryan Brummell も会員であったこのクラブは現在も続いている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「オジンダズ・チョコレートハウス Ozinda’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年以前にセント・ジェイムズ通りで開業。トーリー党の拠点のコーヒーハウスの一つであり、トーリー党系であったジョン・アーバスノット John Arbauthnot （博学者）やジョナサン・スウィフト Jonathan Swift （作家） が定期的に会合を開いていた。　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ナンドーズ・コーヒーハウス Nando’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開業年は不明だが、1696年には存在していた記録がある。フリート街 Fleet St. にあり、近隣の裁判所関係者をはじめ法曹界の人々に人気があった。弁護士でトーリー党の政治家であったエドワード・サーロウ Edward Thurlow も常連客の一人であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ココア・トゥリー・チョコレートハウス Cocoa Tree Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1698年頃にセント・ジェイムズ宮殿 St. James’s Palace 近くのペル・メル通り Pall Mall で開業。王政・貴族・カトリックを意識した高級な店であった。トーリー党の政治家が多く、のちに庶民院（下院）議長になったロバート・ハーレー Robert Harley の会派は毎週木曜日にここで会合を開いていた。1745年頃には党の議員クラブになりコーヒーハウスとしての営業は終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ココアトゥリー（コーヒーハウス）」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スミルナ・コーヒーハウス Smyrna Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1702年頃ペル・メルで開業したホイッグ党系のコーヒーハウス。後にセント・ジェイムズ通りに移転した。初期のころにはトーリー&amp;lt;s&amp;gt;党系&amp;lt;/s&amp;gt;・ホイッグ&amp;lt;s&amp;gt;系&amp;lt;/s&amp;gt;の区分もなく、ジョン・アーバスノットやジョナサン・スウィフトも訪れていた。1714年以降は、ジャコバイト（名誉革命によってウィリアム三世が即位した後も、ジェームズ二世を支持した人々）のたまり場になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス St. James’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1705年にセント・ジェイムズ通りで開業。ホイッグ党系の政治家が集う「政治カフェ」であったが、ここでの政治談議や情報を得るために多くのジャーナリストが訪れた。ジョナサン・スィフト、リチャード・スティール、ジョセフ・アディソンもここで話題を仕入れていた。政治色が薄れた18世紀後半には、劇作家のオリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith、デヴィッド・ギャリック Devid Garrickらの文化人たちが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「トムズ・コーヒーハウス Tom’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンには複数の「トムズ」があったが、ここではコヴェント・ガーデン、ラッセル通りの「トムズ」を紹介する。「ウィルズ」「バトンズ」が近くにあり多くの文学者たちが常連であったが、ジョセフ・アディソンが、かかわりが深かった「バトンズ」に「トムズ」の常連客を鞍替えさせたという逸話が残っている。のちには俳優で劇作家のデヴィッド・ギャリックや詩人のトーマス・チャタートン Thomas Chattertonらが常連となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「トムズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「バトンズ・コーヒーハウス Button’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1712年ごろにコヴェント・ガーデン・ラッセル通りで開業。開業にかかわりがあったジョセフ・アディソンをはじめ、ジョナサン・スィフト 、リチャード・スティール、博学者のジョン・アーバスノット、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope ら多くの作家や文学者たちが常連であった。近代ジャーナリズムに果たした役割も大きく、「ウィルズ」「トムズ」に続くロンドンを代表する「文学カフェ」の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「バトンズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ベッドフォード・コーヒーハウス Bedford Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」の後に脚光を浴びたコヴェント・ガーデンにあった「文学カフェ」で、開業は18世紀初頭と思われる。「ウィルズ」「バトンズ」を引き継ぐこのコーヒーハウスには、劇作家のデヴィッド・ギャリック、詩人のアレクサンダー・ポープやウィリアム・コリンズ William Collins 、小説家ヘンリー・フィールディング Henry Fielding 、劇作家リチャード・シェリダン Richard B Sheridan らの多彩な人々が集った。一方で科学者たちにも人気で、ジョン・デザグリエルス John Desaguliers （学士院会員の自然科学者）は、客の前で科学実験をし、店内で講義をして、これが店の名物になっていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「カフェ・ロイヤル Café Royal 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1865年ピカデリー Piccadilly で開業のロンドン最後の「文学カフェ」。詩人で作家のオスカー・ワイルド Oscar Wilde はいつも美少年と連れ立って来店していた。D・Ｈ・ロレンス D H Lawrence （詩人・作家）やアルトゥル・ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer （ドイツの哲学者）も常連であった。20世紀になると、亡命作家のシュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 、エルンスト・トラー Ernst Toller 、ヘルマン・ケステン Hermann Kesten らが訪れていた。第二次大戦後は「文学カフェ」としての役割は終わり、高級レストランとパーティルームとなり、現在は改装をして高級ホテルとして営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「カフェ・ロイヤル」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                        　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers &#039;&#039; ALL ABOUT COFFEE  Second Edition、&#039;&#039;1935&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Bryant Lillywhite, &#039;&#039;London Coffee Houses&#039;&#039;  (George Allen and Unwin , 1963)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介 『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>ロイヤル・コーヒーハウス</title>
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		<updated>2026-09-30T13:28:41Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 店名の変更&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;カフェ・ロイヤル：&#039;&#039;&#039; Café Royal ==&lt;br /&gt;
1865年～2008年　フランスからの亡命者ダニエル・ニコルズ Daniel Nicols （フランス名 ダニエル・ニコラ・テヴノン Daniel Nicolas Thévenon）が開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ピカデリーの19グラスハウス通りカフェ＝レストランとして開業の後に、リージェント通り Regent St. 68 番地に移転し、さらに1867年に「ロイヤル」と改名した。&lt;br /&gt;
[[ファイル:ロイヤル・コーヒーハウス.jpg|代替文=ロイヤル・コーヒーハウス|フレーム|ロイヤル・コーヒーハウス　店内 ウィリアム・オーペン画　1912年 Wikipedia　Hoel Café Royal   （英語版）より]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　19世紀後半のヴィクトリア朝はイギリスが最も栄えた時代であり、多くのすぐれた文学・芸術作品が残されている。日本の文学や芸術にも影響を与えた耽美主義も、この時代のものである。この時期に多くの文学者や文化人が「ロイヤル」を訪れて芸術談義をしていた。オスカー・ワイルド Oscar Wilde、D・H・ロレンス D・H Lawrence、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer 、アメリカ人画家のジェームズ・ホイッスラー James A.M Whistlerらであり、後に「ロイヤル」はロンドン最後の文学カフェと呼ばれた。普仏戦争の後には多くのフランス人政治難民が「ロイヤル」に集まり、パリのカフェの雰囲気も持っていた。店は大人気で、食事も充実し、フランス出身の経営者の店らしく高級ワインの品揃えにも定評があった。また家具や食器も豪華で、コーヒーハウスというよりはカフェ＝レストランとして評判をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　20世紀になると、シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 、エルンスト・トラー Emst Toller らの亡命作家が訪れていた。第二次大戦後は文学カフェとしての役割は終わり、高級レストランとパーティールームとして営業をし、ダイアナ妃Diana,Princess of Wales、ブリジット・バルドーBrigitte Bardot、エリザベス・テイラーErizabethTaylerらの有名人が訪れている。改装をして、現在は五つ星のホテル「ホテル・カフェ・ロイヤル Hotel Café Royal」になっている。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Hotel Café Royal 　（英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Daniel Nicols　　（英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[コーヒー歴史年表|コーヒー歴史年表に戻る]]　&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>コーヒー歴史年表</title>
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		<updated>2026-09-30T13:25:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 店名の変更&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!15世紀以前&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|約1400万年前&lt;br /&gt;
|[[コフィア属]]（[[コーヒーノキ]]）の祖先がアフリカ大陸（中央アフリカ）に生まれる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1000万〜500万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[コフィア属]]（[[アラビカ種]]、[[カネフォラ種]]、[[ユーゲニオイデス種]]、[[リベリカ種]]等）の祖先がアフリカ大陸の各地域の気候に適応して分岐。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|数100万〜数10万年前&lt;br /&gt;
|ビクトリア湖北西部に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配して自家受粉可能な四倍体の[[アラビカ種]]の祖先が生まれる。コラム：[[＊アラビカ種の誕生と旅立ち]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|100万〜1万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[アラビカ種]]の直接の祖先が、[[エチオピア高原]]に生き残る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|紀元前3世紀&lt;br /&gt;
|[[エチオピア]]で山羊飼いカルディがコーヒーを発見（伝説）？（[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9〜11世紀&lt;br /&gt;
|ペルシャの医師・哲学者[[アル・ラーズィー（ラーゼス）]]と[[イブン・スィーナー（アヴィセンナ）]]が、薬としてコーヒー（ブン、ブンカ、ブンクム）について記述？[[＊コラム：コーヒーを薬として使用？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|13世紀半ば&lt;br /&gt;
|イスラムの修道僧[[シェイク・オマル]]が[[モカ]]の山中でコーヒー発見（伝説）？　＊コラム：シェイク・オマルのコーヒー発見伝説&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!15世紀&lt;br /&gt;
!15世紀コーヒー史概観：　[[＜コーヒー全般a＞]]　[[＜カフェa＞]]　[[＜栽培・生産a＞]]　[[＜技術・器具a＞]]　＜エピソードa＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1454年頃&lt;br /&gt;
|[[アデン]]の律法学者[[シェイク・ジェマレディン]]（ザブハーニー）がコーヒーの効用を知り、イスラムの修道僧の間に広める。＊コラム：最初はどんなコーヒーを飲んだのか？＊コラム：コーヒーとワイン、カート&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀半ば&lt;br /&gt;
|この頃[[モカ]]の東、[[イエメン]] の山中でコーヒーの栽培始まる？　[[*コラム:いつコーヒーの栽培が始まったのか？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1470年頃&lt;br /&gt;
|[[シェイク・ジェマレディン]]死去。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀末&lt;br /&gt;
|コーヒーの飲用がメッカ、メディナなどアラビア半島南部に広まる。ほぼ同時期にカフェも現れる[コラム]スーフィーによるイスラム世界へのコーヒーの伝播。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!16世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般b＞　＜カフェb＞　＜栽培・生産b＞　＜技術・器具b＞　＜エピソードb＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1510年頃&lt;br /&gt;
|コーヒーがカイロに広まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1511年&lt;br /&gt;
|メッカで最初のコーヒー、カフェ弾圧。[コラム]イスラム世界でのコーヒー論争と弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1517年&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝[[セリム一世]]がエジプト征服（マムルク朝）。コーヒーがカイロからコンスタンチノープルに伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1530年頃&lt;br /&gt;
|ダマスカスにコーヒー伝わる。カフェ「バラ」「救済の門」ができる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1532年頃&lt;br /&gt;
|アレッポにコーヒー伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1534年&lt;br /&gt;
|カイロでコーヒー反対運動起こる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1554年&lt;br /&gt;
|コンスタンチノープル（イスタンブール）にカフェ（トルコではカフェ・カネ）ができる。[コラム]コンスタンティノープルのカフェの姿。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16世紀半ば&lt;br /&gt;
|[[トルコ式コーヒー]]の形態（焙煎、粉砕、抽出、サーヴィス方法）が完成。[[＊コラム：トルコ式コーヒーの器具と抽出法]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1570年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝セリム二世（在位1566〜74）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1580年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝ムラト三世（在位1574〜92）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1582(3)年&lt;br /&gt;
|ドイツの医師・植物学者[[レオンハルト・ラウヴォルフ]]が著作（『[[東方諸国への旅Journey into the eastern countries|東方諸国への旅]]』）の中でコーヒーについて言及。ヨーロッパで初めて印刷物中にコーヒーが登場。[コラム]コーヒーのヨーロッパへの紹介者たち。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1585年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアのトルコ大使、ジャンフランチェスコ・モロシーニ、ヴェネチア評議会にトルコでのコーヒー飲用について報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1587年&lt;br /&gt;
|[[アブダル・カディール]]『[[アブダル・カディールの書|コーヒーの合法性の擁護]]』を著述。現存する最古のコーヒー書。[コラム]アブダル・カディールの写本の翻訳と概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1588年頃&lt;br /&gt;
|[[シャー・アッバス]]の治世（1588〜1629年）には、ペルシャにカフェが存在したとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1592年&lt;br /&gt;
|[[プロスペロ・アルピーニ]]、[[『エジプトの植物』]]出版。コーヒーの木のデッサンと記述。[コラム]イタリアのコーヒーへの関心の高まり&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1595年&lt;br /&gt;
|[[バルダヌス|ベルナルド・パルダヌス]]『[[リンスホーテン]]の旅』の注でコーヒーに関して記述。イギリスで初めてのコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!17世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般c＞　＜カフェc＞　＜栽培・生産c＞　＜技術・器具c＞　＜エピソードc＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|インドのイスラムの巡礼者[[ババ・ブダン]]がモカからマイソールにコーヒーを持ち帰る（伝説？1640年、1695年頃という説も）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|ローマ教皇[[クレメンス八世]]、コーヒーに洗礼を施す（？伝説）。[[＊コラム：クレメンス八世のコーヒー洗礼は本当か？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1602年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、『[[旅と冒険]]』でコーヒーについて記述。[コラム]イギリス の知識人のコーヒーへの関心の高まりと著作。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1607年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、バージニア植民地にコーヒーを持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1609年&lt;br /&gt;
|ウィリアム・ビダルフ、『ある英国人たちのアジア、アフリカその他の地への旅行記』出版。コーヒーについて詳細な記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1610年&lt;br /&gt;
|（オランダ、ヨーロッパに初めて中国、日本から茶を輸送）。[コラム]陶磁器（コーヒーカップ）のヨーロッパへの輸出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1614年&lt;br /&gt;
|[[ピエトロ・デッラ・ヴァッレ]]がコーヒーをヴェネツィアに持ち帰る。？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1616年&lt;br /&gt;
|オランダが[[モカ]]から初めてヨーロッパにコーヒーを輸送。1640年に商業的に輸入が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1620年&lt;br /&gt;
|ピルグリム・ファーザーズ、アメリカ入植。コーヒー器具を持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1623年&lt;br /&gt;
|フランシス・ベーコン、『死生論』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1632年&lt;br /&gt;
|ロバート・バートン、『メランコリーの解剖学』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1634年&lt;br /&gt;
|[[ヘンリー・ブラント]]（コーヒー・ハウスの父、と呼ばれる）、『レバントへの旅』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1644年&lt;br /&gt;
|[[ピエール・ド・ラ・ローク]]、トルコからマルセイユにコーヒー器具を持ち帰る。[[＊コラム:フランスのコーヒーへの関心の高まり。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1645年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアに最初のカフェ開店（コーヒーが一般化）？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|トルコの使節団がウィーンにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1649年&lt;br /&gt;
|（清教徒革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年&lt;br /&gt;
|オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウス（「[[ジェイコブズ]]」）開業。　[[＊コラム：ヨーロッパ諸国のカフェの始まり]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年頃&lt;br /&gt;
|この頃に[[シリンダー型焙煎機]]が登場。　[[＊コラム：17～18世紀のコーヒー焙煎機。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1652年&lt;br /&gt;
|アルメニア人[[パスカ・ロゼ]]、ロンドン初のコーヒーハウス開業。以後、続々とコーヒーハウスが誕生し、17世紀末には3000軒を数える。[[＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯|＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1656年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコの大宰相[[キョプリュリュ]]（・メフメト・パシャ）によるカフェ弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年以前&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・ファー]]、「[[レインボウ]]」を開業(ロンドン）。ロンドンで２番目のコーヒー・ハウス。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|スウエーデンの旅行家[[クレス・ロラン]]、トルコを使節として訪問。コーヒーの飲み方を報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|「[[ギャラウェイズ|ギャラウェイズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）で茶の販売広告¸　[[＊コラム：コーヒーハウスと茶、チョコレート]]  [[コーヒーハウスと広告の誕生|＊コラム：コーヒーハウスと広告の誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|[[ジャン・ド・テヴノー]]、パリにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1658年&lt;br /&gt;
|オランダ、[[モカ]]から[[セイロン島（スリランカ）]]へコーヒーを移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）に[[ロータ・クラブ]]設立。 [[＊コラム：コーヒーハウスとクラブ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーが売られる（薬屋）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。（〜1749年） [[＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1664年&lt;br /&gt;
|ハーグにオランダ初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|（[[ロンドンでペスト大流行]]。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人の[[ニコラス・ブック]]、コーヒー専用のミルを開発。　[[＊コラム：コーヒー・グラインダー（ミル）の変遷。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1666年&lt;br /&gt;
|[[ロンドン大火]]。レンガ作りで再建。続々とコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：街の復興と代用貨幣の発行]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1668年&lt;br /&gt;
|アメリカ最初のコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|トルコの大使[[ソリマン・アガ]]がコーヒーを携えてパリに赴任。上流階級の間でコーヒーがブームになる。[[＊コラム：セヴィニェ夫人とフランス宮廷人のコーヒー観。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|ロンドンに[[ロイヤル・エクスチェンジ]]（商品取引市場）開設。近辺に多数のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1670年&lt;br /&gt;
|[[ノワンテル侯爵]]、フランス大使としてトルコ訪問¸（1670〜79年）。[[アブダル・カディールの書]]、[[ビチヴィリの写本]]を持ち帰り、ルイ一四世に献上。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|ローマのオリエント語教師[[ファウスト・ナイロニ]]が著作の中で[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]を紹介。[[＊コラム：「山羊飼いコーヒー発見伝説」の真実]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]にフランス初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]]『[[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して』|コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して]]』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1672年&lt;br /&gt;
|パリに最初のカフェ。アルメニア人[[パスカル]]が露店でカフェを開業。[[＊コラム:「カフェ・プロコプ」以前のカフェ]] [[＊コラム：コーヒーの呼び売りカンディオ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674年&lt;br /&gt;
|ロンドンで女性たちによるコーヒー禁止の請願。[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674〜88年&lt;br /&gt;
|ロベール・ボナール（Robert Bonnart）の版画シリーズ（貴族Homme de qualité¸)にコーヒーを飲む貴族の数点のポートレイト。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1675年&lt;br /&gt;
|[[チャールズ二世]]、コーヒー・ハウス禁止令。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1676年&lt;br /&gt;
|ルイ一四世によりカフェのギルド（カフティエ＝リモナディエ＝ディスティラトゥール）が認可される。[コラム]ギルドの排他特権とカフェの商品アイテム&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|ハンブルクにカフェが開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーの薬効について論争。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1680年頃&lt;br /&gt;
|「[[ジョナサンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|[[コルシツキー]]がウィーン初のカフェ「[[青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）]]」開業（作り話？）。[[＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|ヴェネツィアのサン・マルコ広場にカフェがあったとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年頃&lt;br /&gt;
|この頃ロンドンに3000軒のコーヒーハウスあったとのとの記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]][[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関する新たな興味をそそる論説』]]刊行&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1686年&lt;br /&gt;
|「プロコプ」開業（パリ）。フランスのカフェの原型となる。[コラム]「プロコプ」を巡って&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|「[[ロイズ|ロイズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。 [コラム][[コラム：ロイズを巡って|「ロイズ」を巡って]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|[[ヨハネス・ディオダド]]、ウィーンにカフェ開業。ウィーンの最初のカフェか。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|（名誉革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|ボストンにニュー・イングランド初のコーヒーハウス（「ロンドン・コーヒーハウス」）開業。 [[＊コラム：ボストンの初期のコーヒーハウス]]　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年　&lt;br /&gt;
|（イギリス東インド会社が初めて中国から直接イギリスに茶を輸送）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|ストックホルムに２軒のカフェ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ローラン]]」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1694年&lt;br /&gt;
|ライプチッヒに初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1696年&lt;br /&gt;
|ニューヨークに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：ニューヨークの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1698年頃&lt;br /&gt;
|「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|オランダが[[ジャワ]]にインドのマラバールからコーヒーの苗木を運び、移植に成功。[[＊コラム：インドネシアのコーヒー栽培（始まりから現在まで）]]  [コラム]イエメンからのコーヒー栽培の伝播¸と経路&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|[[アントワーヌ・ガラン]]、『[[コーヒーの起源と伝播]]』を著述。『[[アブダル・カディールの書]]』の抄訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!18世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般d＞　＜カフェd＞　＜栽培・生産d＞　＜技術・器具d＞　＜エピソードd＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年&lt;br /&gt;
|フィラデルフィアに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：フィラデルフィアの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年頃&lt;br /&gt;
|「[[トムズ|トムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年&lt;br /&gt;
|「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からアムステルダムにコーヒーの苗木を移送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1709年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]『[[タトラー]]』創刊。 [[＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からオランダにコーヒーを輸送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]、[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[スペクテイター]]』創刊&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1712年&lt;br /&gt;
|「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|アムステルダム市からルイ一四世にコーヒーの苗木を献呈。[[パリ植物園|パリ王立植物園]]に移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|（ジョージ一世がイギリス国王に。ハノーヴァー朝の成立）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|プラハ初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|（ルイ一四世崩御。ルイ一五世即位。オルレアン公が摂政に）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・パレ・ロワイヤル」が、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」に改名。豪華カフェに生まれ変わる（パリ）。[コラム①]ジュール・ミシュレ『フランス史・レジャンス』から　[コラム②]カフェとゲーム（チェス）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|ジャン・ド・ラ・ローク『幸福なアラビアの旅』刊行。コーヒーに関しての記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]と[[ドミニカ]]にコーヒー栽培が伝わる（[[ド・クリュー]]と別ルート）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|フランス、[[モカ]]からコーヒーを[[ブルボン島]]（現レユニオン島）に移植し栽培に成功。ブルボン種の祖といわれる。[コラム]ブルボン島へのコーヒー移植の経緯。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|パリに300軒のカフェ。[コラム]フランス革命以前のパリのカフェ事情&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1718年&lt;br /&gt;
|[[スリナム]]にコーヒー栽培が伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1720年&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「[[カフェ・フローリアン]]」開業（ヴェネツィア）。[コラム]サン・マルコ広場のカフェ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1721年&lt;br /&gt;
|ベルリンに初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1723年&lt;br /&gt;
|[[ガブリエル・ド・クリュー]]、パリ王立植物園のコーヒーの苗木を[[マルティニーク]]島に運び栽培に成功。ここからコーヒー栽培がカリブ海・中米諸国に伝わる（ティピカ種の祖）。[コラム]マルティニーク島へのコーヒー移植の経緯&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]島が[[モカ]]に代わって世界最大のコーヒー生産地に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・クワドリ」開業（ヴェネツィア）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フォワ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1727年&lt;br /&gt;
|フランシスコ・パリェッタがフランス領ギアナからパラにコーヒーを持ち帰り、移植に成功。＊コラム：[[ブラジルのコーヒー栽培の始まり]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年頃&lt;br /&gt;
|ハイチ島で本格的にコーヒーの栽培が始まる。18世紀後半には世界最大の生産地に。[コラム①]黄金の島、ハイチ（サン＝ドマング）　[コラム②]コーヒーと奴隷貿易&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年&lt;br /&gt;
|[[ジャマイカ]]でコーヒーの栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750頃～&lt;br /&gt;
|[[カリブ海、中南米諸国にコーヒーの栽培が伝わる]]。キューバ1748年、グァテマラ1760年頃、コスタリカ1774年、ベネズェラ1784年、メキシコ1790年頃、コロンビア18世紀末。コーヒー栽培が本格化するのは19世紀後半以降。[コラム]中南米、[[カリブ海諸国]]へのコーヒーの伝播&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1734年頃&lt;br /&gt;
|J.S.バッハ、ライプチッヒの「[[カフェ・ツィンマーマン]]」で「[[コーヒー・カンタータ]]」初演。[[＊コラム①：コーヒークレンツヒェンと女性へのコーヒーの流行（ドイツ）]][[＊コラム②：「コーヒー・カンタータ」解釈]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1737年&lt;br /&gt;
|「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」開業（ニューヨーク）。 [[＊コラム：植民地時代のアメリカ社会とコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750年&lt;br /&gt;
|カルロ・ゴルドーニの『ボデガ・デル・カフェ』ヴェネツィアで初演。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|『百科全書』の刊行始まる（〜1772年）。[コラム]百科全書の刊行と「プロコプ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|[[ウィリアム・ホガース]]画『[[ビール通りとジン横丁]]』を発表。＊[[コラム：18世紀ロンドンの居酒屋事情]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1752年&lt;br /&gt;
|「[[ラネラ・ガーデン]]」開業（ロンドン）。[[＊コラム：ロンドンのティーガーデン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|「カフェ・グレコ」開業（ローマ）。[コラム]「カフェ・グレコ」は「カフェ・テデスコ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|[[ブラジルのリオでコーヒー栽培が始まる]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年頃&lt;br /&gt;
|フランスで布で漉す浸漬式の抽出法が普及し始める（ボイル式も継続して行われる）。[コラム]抽出法の多様化&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1764年&lt;br /&gt;
|ミラノで文学誌『イル・カフェ』発刊。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1773年&lt;br /&gt;
|[[ボストン茶会事件]]。コーヒーがアメリカの国民飲料になるきっかけとなる。[コラム]ボストン・ティーパーティーとコーヒー。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1776年&lt;br /&gt;
|（アメリカ独立宣言）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1777年&lt;br /&gt;
|プロイセンのフリードリヒ２世（大王）、コーヒーの使用を制限する布告。[コラム]コーヒー禁止の影響&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|（パレ・ロワイヤルの改装完成（1781年〜））。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|ベネズエラにコーヒー栽培伝わる。1789年に輸出開始、栽培本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1785年頃〜&lt;br /&gt;
|オルレアン公（ルイ・フィリップ・ジョゼフ）がパレ・ロワイヤル改装し、賃貸。パレ・ロワイヤルにカフェが集積。フランス革命時には各党派の活動の舞台ともなる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1788年頃&lt;br /&gt;
|この頃パリのカフェ、1700軒を数える。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|（フランス革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|カミーユ・デムーラン、「カフェ・ド・フォワ」のテラスでアジ演説。バスティーユへの行進のきっかけに（フランス革命の発火点）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|ニューヨークの「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」の前でジョージ・ワシントンの歓迎式典が行われる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1790年頃&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤルに次々にカフェ、レストランが開業。パリ随一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|ハイチで反乱発生。内乱でコーヒー生産に大打撃。[コラム]ハイチの独立とコーヒー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|「カフェ・リーシュ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1798年&lt;br /&gt;
|「トルトーニ（カフェ）」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1799年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アルディ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!19世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般e＞　＜カフェe＞　＜栽培・生産e＞　＜技術・器具ee＞　＜エピソードe＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|ドリップ式のコーヒー器具、ド・ベロワのコーヒー・ポット登場。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|（中国で紅茶＝工夫茶の製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃〜&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤル繁栄の全盛期（1830年頃まで）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|アメリカが世界最大のコーヒー消費国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|スマトラ、セレベスなどでコーヒー栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1802年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アングレ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|(ナポレオン、皇帝に即位。第一帝政始まる)。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]が独立（史上初の黒人共和国）。フランス、コーヒーの覇権を失う。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|ナポレオン、大陸封鎖令。コーヒーが不足し、代用コーヒーが横行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・ド・サシ]]、[[アブダル・カディールの書]]（『コーヒーの合法性の擁護』）を部分訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年&lt;br /&gt;
|(フランス、ナポレオンが退位し、王政復古。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃&lt;br /&gt;
|ブラジルの[[フルミネンセ]]（リオデジャネイロ）でコーヒー生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃〜&lt;br /&gt;
|オーストリア、[[ビーダーマイヤー]]時代（〜48年）。[[＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ]]　[[＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール]]　[[＊コラム③：作曲家たちが通ったウィーンのカフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1816年&lt;br /&gt;
|メキシコでコーヒーの商業的栽培始まる。栽培の本格化は1870年代から。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1823年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサム地方で茶の木（アッサム種）発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年&lt;br /&gt;
|(フランス、七月王政。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年頃&lt;br /&gt;
|イタリア通りにカフェ＝レストランが集積。次第にパレ・ロワイヤルに代わりパリ一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1832年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ペドロッキ」開業（イタリア・パドヴァ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1835年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・クランツラー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1838年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサムで紅茶の製造始まる。続いてダージリンでも紅茶を製造（1841年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1839年&lt;br /&gt;
|バルザック『近代興奮剤考』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|（アヘン戦争始まる〜1842年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|[[ジャン＝ピエール・プジョー]]が金属製のコーヒー・ミルを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人ロバート・ナピアーがサイフォンを発明。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1843年&lt;br /&gt;
|コスタリカ、他の中米諸国に先駆けコーヒー輸出を本格的に開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：ウィーンの文学カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジェイムズ・カーター]]がプル・アウト式焙煎機を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1848年&lt;br /&gt;
|フランス、第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領に（1852〜第二帝政）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷貿易を禁止。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～1870年頃&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培の黄金時代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～&lt;br /&gt;
|この頃から中米のコーヒー栽培が本格化。先行するコスタリカについでグァテマラ（1850年頃）、エルサルバドル（1852年）、ニカラグァ（1860年代）がコーヒー栽培に取り組み、1870年代から輸出が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃〜&lt;br /&gt;
|（ティー・レース始まる。〜1870年頃）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（フランス、第二帝政。ルイ・ナポレオンが皇帝に。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（オスマンのパリ大改造始まる（〜1870年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1855年&lt;br /&gt;
|（フランス、第一回パリ万博（1867：第二回、1878：第三回））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1858年&lt;br /&gt;
|ヴィクトリア湖の南で[[カネフォラ種|ロブスタ]]発見。新種として報告せず。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年&lt;br /&gt;
|（アメリカ南北戦争（〜65年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が軌道に乗る。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|（イタリア王国成立。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|アフリカで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1862年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・ペ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1864年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、新型焙煎機を開発（現在の焙煎機の原型）。[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|ジョン・アーバックル、初めてパック詰めにしたコーヒー「アリオーサ」を販売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|「[[ロイヤル・コーヒーハウス|カフェ・ロイヤル]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績|グラニュレーターとコーヒー冷却器を開発]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[セイロン島（スリランカ）|セイロン島（現スリランカ）]]で[[さび病]]発生。コーヒーの生産は19世紀末までに壊滅。徐々に茶に切り替わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|インドのニルギリで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|ドイツのエメリッヒにエメリッヒ社創設（のちの焙煎機メーカー、[[プロバット社]]）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|（普仏戦争に敗北。第三共和制へ。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジョン・ベーカー]]が業務用ミル『エンタープライズ』を開発。　[[＊コラム：業務用コーヒー・ミル開発の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1871年&lt;br /&gt;
|（ドイツ統一）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1873年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・インペリアル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|リベリアで[[リベリカ種]]発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|（日本で紅茶製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・バウアー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃～&lt;br /&gt;
|ブラジル・サンパウロ地方で[[ブルボン種]]導入始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアのコーヒー栽培が本格化。1880年代から生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ツェントラル]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ|ジャワ島]]、スマトラ島で[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1878年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、コーヒー、紅茶、香辛料を扱う業界誌『スパイス・ミル』刊行を始める。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・シュペール]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年頃～&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培が徐々に衰退。1888年の奴隷解放により決定的打撃を受ける。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1882年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアの中央高地でコーヒーの栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1881年&lt;br /&gt;
|ニューヨーク・コーヒー取引所開設。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1883年&lt;br /&gt;
|（セイロン＝スリランカからの紅茶輸出始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1884年&lt;br /&gt;
|この年から、サンパウロを中心にコロノスとしてイタリア移民の導入が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「シャ・ノワール」移転して新装開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ドゥ・マゴ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[さび病]]蔓延。生産が減少。[[リベリカ種|リベリカ]]への植え替えが進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1887年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フロール」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1888年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷制廃止。農園からの奴隷の逃亡により、リオのコーヒー生産に壊滅的打撃。コーヒー生産の中心はサンパウロ州に移る&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|サンパウロ州が世界最大のコーヒー生産地に。90年代にはブラジルは世界生産量の70〜80％を占める（ブラジルの総輸出の60〜70％）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地、イタリア通りからモンマルトルへ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1893年&lt;br /&gt;
|ジョウエル・チーク、ジョン・ニールとチーク＝ニール・コーヒー社（「マックスウェル・ハウス」）をナッシュビルで設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1895年&lt;br /&gt;
|[[ヨハン・ヤコブス]]、ブレーメンにコーヒー店開業。（のちの[[ヤコブス社]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|ローランがコンゴで[[カネフォラ種|ロブスタ]]を発見。カネフォーラ種と命名。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|「カフェ・デス・ヴェステンス」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|加藤サルトリがシカゴでインスタント・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ムゼウム]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|サンフランシスコにブランデンシュタイン兄弟（4人）がMJBコーヒー社設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|ドイツの[[ゴットホット社]]、高速焙煎機「イデアル・ラピッド」を開発。　[[＊コラム：熱風式焙煎機の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!20世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般e＞　＜カフェe＞　＜栽培・生産e＞　＜技術・器具e＞　＜エピソードe＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年&lt;br /&gt;
|ヒルズ・ブラザーズ社、真空包装缶のコーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[カネフォラ種|ロブスタ]]の栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|中南米諸国がコーヒーを大増産。中米諸国は次第にコーヒーのモノカルチャー化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が中国を圧倒）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ケニアにレユニオン島（[[ブルボン島]]）からコーヒーを移植、栽培が始まる。続いてタンザニアも栽培開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|イタリア人、ベゼラが蒸気圧による抽出器を発明。エスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ブラジル、コーヒー大豊作。世界のコーヒー生産量の81％に達する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1906年&lt;br /&gt;
|ルートヴィヒ・ロゼリウス（ドイツ）、カフェインレスコーヒーの特許を取得、会社を設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1907年&lt;br /&gt;
|コーヒー価格の暴落により、ブラジル政府がコーヒー買い上げ（ヴァロリゼーション）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|ドイツで[[メリタ・ベンツ]]がペーパー・ドリップによる抽出器具を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|（トマス・サリヴァン、ティーパック発明）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1914年&lt;br /&gt;
|（第一次世界大戦始まる。〜1918年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1916年&lt;br /&gt;
|「ロマニッシェスカフェ」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大霜害。コーヒーの相場が急騰。ヨーロッパの需要回復も要因。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年&lt;br /&gt;
|ドイツのエミリッヒ社（後の[[プロバット社]]）、現在のドラム式焙煎機の原型となる「プロバット・コール・コースター」を開発。　[[＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ|＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年頃&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地がモンパルナスへ。（狂乱の時代（〜1930頃））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1922年&lt;br /&gt;
|ウィリアム.H.ユーカーズ『オール・アバウト・コーヒー』を刊行（1935年・第2版）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1924年&lt;br /&gt;
|エドゥアルト・ショプッフ、ドイツ・ブレーメンにエドショー社を設立（通信販売）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1925年頃〜&lt;br /&gt;
|ケニア、タンザニア、ウガンダなどアフリカのヨーロッパ植民地でコーヒー生産が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1927年&lt;br /&gt;
|コロンビアが世界第２位のコーヒー生産国に。コロンビア・コーヒー連盟FNC設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1929年&lt;br /&gt;
|（大恐慌。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1931年〜&lt;br /&gt;
|エルサルバドルに独裁政権（エルナンデス・マルティネス）誕生。その後グァテマラ（1931年）、ニカラグァ（193４年）、ホンジュラス（1932年）で独裁政権が誕生。コーヒー生産は進展したが、土地の集中化が進み、貧富の格差が増大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1933年&lt;br /&gt;
|（ナチス、政権掌握）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1934年&lt;br /&gt;
|ブラジル、過剰生産によりコーヒーを焼却。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1937年&lt;br /&gt;
|ネスレ社がインスタントコーヒーを商品化（「ネスカフェ」）、翌年発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1941年&lt;br /&gt;
|第二次世界大戦（〜1945）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1947年&lt;br /&gt;
|ガジアがピストン方式のエスプレッソ・マシンを開発。現在のエスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1949～54年&lt;br /&gt;
|ブラジルの旱魃を引き金にコーヒー価格が上昇、アメリカで薄いコーヒーが蔓延し、インスタントコーヒーの需要が伸びる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|サン＝ジェルマン＝デ＝プレのカフェに実存主義者が集まる（サルトル、ボーボワール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|ヨーロッパの需要回復によりコーヒー価格が上昇。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1953年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害によりコーヒー減産。価格が急騰。アメリカでは薄いわゆるアメリカン・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1955年頃&lt;br /&gt;
|ニューヨークなどでエスプレッソ・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1956年&lt;br /&gt;
|西ヨーロッパのコーヒー消費量が第二次大戦前を上回る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1960年&lt;br /&gt;
|ブラジル、パラナ州のコーヒー生産量ががサンパウロ州を越える。生産地域の南下が顕著。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1962年&lt;br /&gt;
|第一次国際コーヒー協定（ICA)成立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1963年&lt;br /&gt;
|国際コーヒー機構（ICO）設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1966年&lt;br /&gt;
|[[アルフレッド・ピート]]がアメリカ・バークレーに「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」開業。スペシャルティコーヒーの先駆け。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1969年&lt;br /&gt;
|ＵＣＣ上島コーヒー、世界初の缶コーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1971年&lt;br /&gt;
|[[スターバックス]]、シアトルに開業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1974年&lt;br /&gt;
|エルナ・クヌッセン、スペシャルティ・コーヒーの概念を『ティー＆コーヒー・ジャーナル』誌上のインタビューで発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1975年&lt;br /&gt;
|ブラジル大霜害。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1976年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害の影響でICOが輸出総量割当制を実施。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年〜&lt;br /&gt;
|ニカラグァで「サンディニスタ」政権誕生。中米では続いてエルサルバドル、グァテマラでもゲリラの活動が活発化し、混乱の時代に。コーヒー生産も縮小傾向。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年&lt;br /&gt;
|スイスのコフェックス社がスイス・ウォーター方式のカフェインレス・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1980年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアでバリエダ・コロンビア品種導入、品質劣化へ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1982年&lt;br /&gt;
|アメリカスペシャルティコーヒー協会（SCAA）設立&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1983年頃～&lt;br /&gt;
|アメリカでのスペシャルティーコーヒーの市場が急速に拡大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大旱魃。翌年にコーヒーの相場が急騰。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年頃〜&lt;br /&gt;
|ブラジルのコーヒー栽培の中心が、ミナスジェライス州の高原地域（セラード）に移行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1990年頃～&lt;br /&gt;
|ヴェトナムでのコーヒー栽培（主に[[カネフォラ種|ロブスタ]]）が本格化。生産量が急速に拡大し2003年には世界第2位の生産国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1986年&lt;br /&gt;
|[[ハワード・シュルツ]]、スターバックス社から独立し、エスプレッソ・バー「[[イル・ジョルナーレ]]」を開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1987年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックスの商標を買収し、コーヒーチェーン展開を開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1995年&lt;br /&gt;
|SCAA、コーヒーフレーバーホイールを作成・発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年頃〜&lt;br /&gt;
|コーヒー生産におけるサスティナビリティ運動（認証コーヒー）が盛んに。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年&lt;br /&gt;
|オークションシステムによるカップ・オブ・エクセレンスのプロジェクト始まる。1999年に現行の方式に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!21世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般f＞　＜カフェf＞　＜栽培・生産f＞　＜技術・器具f＞　＜エピソードf＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2000年&lt;br /&gt;
|ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ始まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|現行の国際コーヒー協定発効。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|パナマ・オークションでゲイシャ種が最高値を更新。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002年&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・フリーマン]]、「ブルー・ボトル」開業。アメリカでサードウェーブのコーヒー流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005年頃〜&lt;br /&gt;
|パカマラ、ジャバ等のコーヒーの新品種の導入が盛んになる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|中米を中心に新タイプのナチュラル、ハニー（パルプド・ナチュラル）など新たな精製法の研究・開発が進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010年頃〜&lt;br /&gt;
|ラオス、タイ、ミャンマーなどアジア諸国でコーヒー栽培が盛んになる。&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50328</id>
		<title>＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50328"/>
		<updated>2026-09-23T14:36:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1652年にパスカ・ロゼ Pasqua Rosée がロンドンで最初のコーヒーハウスを開業して以降、1657年頃に「レインボウ Rainbow Coffee House 」「ギャラウェイズ Garraway’s Coffee House 」、さらに「マイルズ Miles’s Coffee House 」を始め、ロンドンの街には次々とコーヒーハウスが開業した。ペストの大流行、ロンドン大火、女性のコーヒーハウスへの反感，チャールズ２世 Charles Ⅱ の「コーヒーハウス禁止令」などの試練を乗り越えて、コーヒーハウスは街の社交場として人気を集め、17世紀末のその数は2000軒とも3000軒ともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンの貴族や上流階級、中産階級の人々は、誰もが行きつけのコーヒーハウスを持つようになった。そして、それぞれのコーヒーハウスには特定の階層や職業の人々集うようになり、客層の均一化がされた。つまり、商人が多く集まるコーヒーハウス、政治家が多く集うコーヒーハウスというように、店ごとの色分けがなされていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、客層の均一化だけではなく、商人が多いコーヒーハウスでは、店内で商取引や株の売買などが行われ、コーヒーハウスの域を出た経済活動が行われることになった。また、作家や詩人が多く集まるコーヒーハウスでは、彼らは文学談義を交わし、政治家が多いコーヒーハウス（政党ごとに違う行きつけのコーヒーハウスがあった）。では、そこで政策が話し合われ、イギリスの政治を動かした。また、ジャーナリストたちは、それらの多くのコーヒーハウスを訪れて情報を仕入れて、それを記事にすることで近代ジャーナリズムの基礎を築いた。これらが「イギリスの政治・経済・文化はコーヒーハウスが生み出した」といわれる所以である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンでコーヒーハウスに最も勢いがあった、17世紀後半から18世紀を中心に、著名なコーヒーハウス（色分けでいう「政治カフェ」「文学カフェ」「ジャーナリズムカフェ」）とそこに通った有名人をここに紹介してみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「商業カフェ」は、[コラム]商取引とコーヒーハウス &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「レインボウ・コーヒーハウス Rainbow Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1656(7)年にフリート街 Fleet St. で開業。多くの法律家で賑わっていた中に、「コーヒーハウスの父」といわれた旅行家・作家のヘンリー・ブラント Sir Henry Blount がいた。「レインボウ」は、ロンドン大火の直後に「代用貨幣」を発行した先駆けの店でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「レインボウ・コーヒーハウス」　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「マイルズ・コーヒーハウス Miles’s Coffee House 」　　&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウエストミンスター宮殿　Palace of Westminster に隣接するニュー・パレス・ヤード　New Palace Yard にあり、1659年ごろに政治家のジェームズ・ハリントン　James Harrington が「ロータ・クラブ Rota Club 」を結成し、共和制政治の議論がなされていたコーヒーハウス。ハリントンの政治家仲間のほか、サミュエル・ピープス Samuel Pepys （作家）、ジョン・ミルトン John Milton （詩人）らの文学者や、軍人のジョン・ワイルドマン Sir Lohn Wildman 、ターコネル伯爵 Earl of Tyrconnell たちが出入りしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「マイルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ウィルズ・コーヒーハウス Will’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1660年頃にコヴェント・ガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。文学者や知識人が多く、ロンドンの文学カフェの中で最も有名になったこの店の中心人物は、桂冠詩人のジョン・ドライデン John Dryden であった。ほかに、ジョナサン・スウィフト Jonathan Swift（風刺作家）、アレグザンダー・ポープ Alexander Pope（詩人）、ジョセフ・アディソン Joseph Addison（劇作家・政治家）、リチャード・スティール Richard Steele（作家・政治家）、ウィリアム・コングリーヴ William Congreve（作家）、ジョン・アーバスノット John Arbuthnot（博学者）、ジョン・ゲイ John  Gay(詩人・劇作家）たちが、夜遅くまで文学を論じあっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ウィルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「グリシアン・コーヒーハウス Grecian Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1665年頃に開業、1677年にテンプル教会 Temple Church 近くのデヴァルー・コート Devereux Court に移転。名誉革命前後の時期には、近くのテンプル法学院で学んだ法曹家やジョン・トレンチャード John Trenchard、ウォルター・モイル Walter Moyle、マシュー・ティルダン Matthew Tindalらのホイッグ党系政治家・啓蒙主義者が集まる「政治カフェ」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党が政権を掌握した後は、政治家と入れ替わるようにアイザック・ニュートン Issac Newton（科学者）、ハンス・スローン Hans Sloan（医師）、エドマンド・ハレー Edmund Halley（天文学者）、オリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith（劇作家）、エドモンド・マローン Edmond Malone（文学者）らの科学者や文化人が常連になった。さらに、19世紀には法学生や弁護士のたまり場となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「グリシアン・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スローターズ・コーヒーハウス Slaughter’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1962年にトーマス・スローター Thomas Slaughter がコヴェント・ガーデンのセント・マーティンズ通り St. Martin’s Ln. で開業。画家や彫刻家などの芸術家に人気で、ジョン・ドライデン（桂冠詩人）、トーマス・ゲインズバラ Thomas Gainsborough （画家）、ウィリアム・ホガース William Hogarth (風刺画家)らが出入りしていた。また、ルイ・フランソワ・ルビリアック Louis Francois Roubilliac （フランスの彫刻家）、アブラハム・ド・ムワヴル Abraham de Moivre （フランスの数学者）、ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin （アメリカの博学者）らの外国人の常連も多かった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ホワイツ・チョコレートハウス White’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年イタリア人のフランチェスコ・ビアンコ（英語でホワイト）Francesco Bianco がセント・ジェイムズ通り St. James’s St. で開業。遊び人が多く、トーリー党系の人々が多かったといわれている。ファッションや浮いた話でもちきりの店では、芝居や舞踏会のチケットも販売していた。また、富と時間がある貴族たちが集うコーヒーハウスであり、彼らはいかさま賭博師たちの餌食になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1733年にクラブとなり、コーヒーハウスの営業は終了したが、19世紀の伊達男ジョージ・ブライアン・ブランメル George Bryan Brummell も会員であったこのクラブは現在も続いている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「オジンダズ・チョコレートハウス Ozinda’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年以前にセント・ジェイムズ通りで開業。トーリー党の拠点のコーヒーハウスの一つであり、トーリー党系であったジョン・アーバスノット John Arbauthnot （博学者）やジョナサン・スウィフト Jonathan Swift （作家） が定期的に会合を開いていた。　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ナンドーズ・コーヒーハウス Nando’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開業年は不明だが、1696年には存在していた記録がある。フリート街 Fleet St. にあり、近隣の裁判所関係者をはじめ法曹界の人々に人気があった。弁護士でトーリー党の政治家であったエドワード・サーロウ Edward Thurlow も常連客の一人であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ココア・トゥリー・チョコレートハウス Cocoa Tree Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1698年頃にセント・ジェイムズ宮殿 St. James’s Palace 近くのペル・メル通り Pall Mall で開業。王政・貴族・カトリックを意識した高級な店であった。トーリー党の政治家が多く、のちに庶民院（下院）議長になったロバート・ハーレー Robert Harley の会派は毎週木曜日にここで会合を開いていた。1745年頃には党の議員クラブになりコーヒーハウスとしての営業は終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ココアトゥリー（コーヒーハウス）」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スミルナ・コーヒーハウス Smyrna Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1702年頃ペル・メルで開業したホイッグ党系のコーヒーハウス。後にセント・ジェイムズ通りに移転した。初期のころにはトーリー&amp;lt;s&amp;gt;党系&amp;lt;/s&amp;gt;・ホイッグ&amp;lt;s&amp;gt;系&amp;lt;/s&amp;gt;の区分もなく、ジョン・アーバスノットやジョナサン・スウィフトも訪れていた。1714年以降は、ジャコバイト（名誉革命によってウィリアム三世が即位した後も、ジェームズ二世を支持した人々）のたまり場になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス St. James’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1705年にセント・ジェイムズ通りで開業。ホイッグ党系の政治家が集う「政治カフェ」であったが、ここでの政治談議や情報を得るために多くのジャーナリストが訪れた。ジョナサン・スィフト、リチャード・スティール、ジョセフ・アディソンもここで話題を仕入れていた。政治色が薄れた18世紀後半には、劇作家のオリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith、デヴィッド・ギャリック Devid Garrickらの文化人たちが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「トムズ・コーヒーハウス Tom’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンには複数の「トムズ」があったが、ここではコヴェント・ガーデン、ラッセル通りの「トムズ」を紹介する。「ウィルズ」「バトンズ」が近くにあり多くの文学者たちが常連であったが、ジョセフ・アディソンが、かかわりが深かった「バトンズ」に「トムズ」の常連客を鞍替えさせたという逸話が残っている。のちには俳優で劇作家のデヴィッド・ギャリックや詩人のトーマス・チャタートン Thomas Chattertonらが常連となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「トムズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「バトンズ・コーヒーハウス Button’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1712年ごろにコヴェント・ガーデン・ラッセル通りで開業。開業にかかわりがあったジョセフ・アディソンをはじめ、ジョナサン・スィフト 、リチャード・スティール、博学者のジョン・アーバスノット、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope ら多くの作家や文学者たちが常連であった。近代ジャーナリズムに果たした役割も大きく、「ウィルズ」「トムズ」に続くロンドンを代表する「文学カフェ」の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「バトンズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ベッドフォード・コーヒーハウス Bedford Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」の後に脚光を浴びたコヴェント・ガーデンにあった「文学カフェ」で、開業は18世紀初頭と思われる。「ウィルズ」「バトンズ」を引き継ぐこのコーヒーハウスには、劇作家のデヴィッド・ギャリック、詩人のアレクサンダー・ポープやウィリアム・コリンズ William Collins 、小説家ヘンリー・フィールディング Henry Fielding 、劇作家リチャード・シェリダン Richard B Sheridan らの多彩な人々が集った。一方で科学者たちにも人気で、ジョン・デザグリエルス John Desaguliers （学士院会員の自然科学者）は、客の前で科学実験をし、店内で講義をして、これが店の名物になっていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ロイヤル・コーヒーハウス Royal Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1865年ピカデリー Piccadilly で開業のロンドン最後の「文学カフェ」。詩人で作家のオスカー・ワイルド Oscar Wilde はいつも美少年と連れ立って来店していた。D・Ｈ・ロレンス D H Lawrence （詩人・作家）やアルトゥル・ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer （ドイツの哲学者）も常連であった。20世紀になると、亡命作家のシュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 、エルンスト・トラー Ernst Toller 、ヘルマン・ケステン Hermann Kesten らが訪れていた。第二次大戦後は「文学カフェ」としての役割は終わり、高級レストランとパーティルームとなり、現在は改装をして高級ホテルとして営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ロイヤル・コーヒーハウス」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                        　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers &#039;&#039; ALL ABOUT COFFEE  Second Edition、&#039;&#039;1935&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Bryant Lillywhite, &#039;&#039;London Coffee Houses&#039;&#039;  (George Allen and Unwin , 1963)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介 『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:London-great-britain-city-map-retro-style-outline-map_119523-8683.jpg&amp;diff=50327</id>
		<title>ファイル:London-great-britain-city-map-retro-style-outline-map 119523-8683.jpg</title>
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		<updated>2026-09-23T14:24:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;ロンドンの地図&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50326</id>
		<title>＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%EF%BC%8A%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A%E8%91%97%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA&amp;diff=50326"/>
		<updated>2026-09-23T14:15:40Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: コラム　新規作成&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== ［コラム］　ロンドンの著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人 == &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1652年にパスカ・ロゼ Pasqua Rosée がロンドンで最初のコーヒーハウスを開業して以降、1657年頃に「レインボウ Rainbow Coffee House 」「ギャラウェイズ Garraway’s Coffee House 」、さらに「マイルズ Miles’s Coffee House 」を始め、ロンドンの街には次々とコーヒーハウスが開業した。ペストの大流行、ロンドン大火、女性のコーヒーハウスへの反感，チャールズ２世 Charles Ⅱ の「コーヒーハウス禁止令」などの試練を乗り越えて、コーヒーハウスは街の社交場として人気を集め、17世紀末のその数は2000軒とも3000軒ともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンの貴族や上流階級、中産階級の人々は、誰もが行きつけのコーヒーハウスを持つようになった。そして、それぞれのコーヒーハウスには特定の階層や職業の人々集うようになり、客層の均一化がされた。つまり、商人が多く集まるコーヒーハウス、政治家が多く集うコーヒーハウスというように、店ごとの色分けがなされていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、客層の均一化だけではなく、商人が多いコーヒーハウスでは、店内で商取引や株の売買などが行われ、コーヒーハウスの域を出た経済活動が行われることになった。また、作家や詩人が多く集まるコーヒーハウスでは、彼らは文学談義を交わし、政治家が多いコーヒーハウス（政党ごとに違う行きつけのコーヒーハウスがあった）。では、そこで政策が話し合われ、イギリスの政治を動かした。また、ジャーナリストたちは、それらの多くのコーヒーハウスを訪れて情報を仕入れて、それを記事にすることで近代ジャーナリズムの基礎を築いた。これらが「イギリスの政治・経済・文化はコーヒーハウスが生み出した」といわれる所以である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンでコーヒーハウスに最も勢いがあった、17世紀後半から18世紀を中心に、著名なコーヒーハウス（色分けでいう「政治カフェ」「文学カフェ」「ジャーナリズムカフェ」）とそこに通った有名人をここに紹介してみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「商業カフェ」は、[コラム]商取引とコーヒーハウス &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「レインボウ・コーヒーハウス Rainbow Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1656(7)年にフリート街 Fleet St. で開業。多くの法律家で賑わっていた中に、「コーヒーハウスの父」といわれた旅行家・作家のヘンリー・ブラント Sir Henry Blount がいた。「レインボウ」は、ロンドン大火の直後に「代用貨幣」を発行した先駆けの店でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「レインボウ・コーヒーハウス」　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「マイルズ・コーヒーハウス Miles’s Coffee House 」　　&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウエストミンスター宮殿　Palace of Westminster に隣接するニュー・パレス・ヤード　New Palace Yard にあり、1659年ごろに政治家のジェームズ・ハリントン　James Harrington が「ロータ・クラブ Rota Club 」を結成し、共和制政治の議論がなされていたコーヒーハウス。ハリントンの政治家仲間のほか、サミュエル・ピープス Samuel Pepys （作家）、ジョン・ミルトン John Milton （詩人）らの文学者や、軍人のジョン・ワイルドマン Sir Lohn Wildman 、ターコネル伯爵 Earl of Tyrconnell たちが出入りしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「マイルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ウィルズ・コーヒーハウス Will’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1660年頃にコヴェント・ガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。文学者や知識人が多く、ロンドンの文学カフェの中で最も有名になったこの店の中心人物は、桂冠詩人のジョン・ドライデン John Dryden であった。ほかに、ジョナサン・スウィフト Jonathan Swift（風刺作家）、アレグザンダー・ポープ Alexander Pope（詩人）、ジョセフ・アディソン Joseph Addison（劇作家・政治家）、リチャード・スティール Richard Steele（作家・政治家）、ウィリアム・コングリーヴ William Congreve（作家）、ジョン・アーバスノット John Arbuthnot（博学者）、ジョン・ゲイ John  Gay(詩人・劇作家）たちが、夜遅くまで文学を論じあっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ウィルズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「グリシアン・コーヒーハウス Grecian Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1665年頃に開業、1677年にテンプル教会 Temple Church 近くのデヴァルー・コート Devereux Court に移転。名誉革命前後の時期には、近くのテンプル法学院で学んだ法曹家やジョン・トレンチャード John Trenchard、ウォルター・モイル Walter Moyle、マシュー・ティルダン Matthew Tindalらのホイッグ党系政治家・啓蒙主義者が集まる「政治カフェ」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党が政権を掌握した後は、政治家と入れ替わるようにアイザック・ニュートン Issac Newton（科学者）、ハンス・スローン Hans Sloan（医師）、エドマンド・ハレー Edmund Halley（天文学者）、オリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith（劇作家）、エドモンド・マローン Edmond Malone（文学者）らの科学者や文化人が常連になった。さらに、19世紀には法学生や弁護士のたまり場となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「グリシアン・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スローターズ・コーヒーハウス Slaughter’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1962年にトーマス・スローター Thomas Slaughter がコヴェント・ガーデンのセント・マーティンズ通り St. Martin’s Ln. で開業。画家や彫刻家などの芸術家に人気で、ジョン・ドライデン（桂冠詩人）、トーマス・ゲインズバラ Thomas Gainsborough （画家）、ウィリアム・ホガース William Hogarth (風刺画家)らが出入りしていた。また、ルイ・フランソワ・ルビリアック Louis Francois Roubilliac （フランスの彫刻家）、アブラハム・ド・ムワヴル Abraham de Moivre （フランスの数学者）、ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin （アメリカの博学者）らの外国人の常連も多かった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ホワイツ・チョコレートハウス White’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年イタリア人のフランチェスコ・ビアンコ（英語でホワイト）Francesco Bianco がセント・ジェイムズ通り St. James’s St. で開業。遊び人が多く、トーリー党系の人々が多かったといわれている。ファッションや浮いた話でもちきりの店では、芝居や舞踏会のチケットも販売していた。また、富と時間がある貴族たちが集うコーヒーハウスであり、彼らはいかさま賭博師たちの餌食になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1733年にクラブとなり、コーヒーハウスの営業は終了したが、19世紀の伊達男ジョージ・ブライアン・ブランメル George Bryan Brummell も会員であったこのクラブは現在も続いている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「オジンダズ・チョコレートハウス Ozinda’s Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年以前にセント・ジェイムズ通りで開業。トーリー党の拠点のコーヒーハウスの一つであり、トーリー党系であったジョン・アーバスノット John Arbauthnot （博学者）やジョナサン・スウィフト Jonathan Swift （作家） が定期的に会合を開いていた。　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ナンドーズ・コーヒーハウス Nando’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開業年は不明だが、1696年には存在していた記録がある。フリート街 Fleet St. にあり、近隣の裁判所関係者をはじめ法曹界の人々に人気があった。弁護士でトーリー党の政治家であったエドワード・サーロウ Edward Thurlow も常連客の一人であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ココア・トゥリー・チョコレートハウス Cocoa Tree Chocolate House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1698年頃にセント・ジェイムズ宮殿 St. James’s Palace 近くのペル・メル通り Pall Mall で開業。王政・貴族・カトリックを意識した高級な店であった。トーリー党の政治家が多く、のちに庶民院（下院）議長になったロバート・ハーレー Robert Harley の会派は毎週木曜日にここで会合を開いていた。1745年頃には党の議員クラブになりコーヒーハウスとしての営業は終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ココアトゥリー（コーヒーハウス）」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「スミルナ・コーヒーハウス Smyrna Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1702年頃ペル・メルで開業したホイッグ党系のコーヒーハウス。後にセント・ジェイムズ通りに移転した。初期のころにはトーリー&amp;lt;s&amp;gt;党系&amp;lt;/s&amp;gt;・ホイッグ&amp;lt;s&amp;gt;系&amp;lt;/s&amp;gt;の区分もなく、ジョン・アーバスノットやジョナサン・スウィフトも訪れていた。1714年以降は、ジャコバイト（名誉革命によってウィリアム三世が即位した後も、ジェームズ二世を支持した人々）のたまり場になった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス St. James’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1705年にセント・ジェイムズ通りで開業。ホイッグ党系の政治家が集う「政治カフェ」であったが、ここでの政治談議や情報を得るために多くのジャーナリストが訪れた。ジョナサン・スィフト、リチャード・スティール、ジョセフ・アディソンもここで話題を仕入れていた。政治色が薄れた18世紀後半には、劇作家のオリバー・ゴールドスミス Oliver Goldsmith、デヴィッド・ギャリック Devid Garrickらの文化人たちが常連であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「トムズ・コーヒーハウス Tom’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンドンには複数の「トムズ」があったが、ここではコヴェント・ガーデン、ラッセル通りの「トムズ」を紹介する。「ウィルズ」「バトンズ」が近くにあり多くの文学者たちが常連であったが、ジョセフ・アディソンが、かかわりが深かった「バトンズ」に「トムズ」の常連客を鞍替えさせたという逸話が残っている。のちには俳優で劇作家のデヴィッド・ギャリックや詩人のトーマス・チャタートン Thomas Chattertonらが常連となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「トムズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「バトンズ・コーヒーハウス Button’s Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1712年ごろにコヴェント・ガーデン・ラッセル通りで開業。開業にかかわりがあったジョセフ・アディソンをはじめ、ジョナサン・スィフト 、リチャード・スティール、博学者のジョン・アーバスノット、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope ら多くの作家や文学者たちが常連であった。近代ジャーナリズムに果たした役割も大きく、「ウィルズ」「トムズ」に続くロンドンを代表する「文学カフェ」の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「バトンズ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ベッドフォード・コーヒーハウス Bedford Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」の後に脚光を浴びたコヴェント・ガーデンにあった「文学カフェ」で、開業は18世紀初頭と思われる。「ウィルズ」「バトンズ」を引き継ぐこのコーヒーハウスには、劇作家のデヴィッド・ギャリック、詩人のアレクサンダー・ポープやウィリアム・コリンズ William Collins 、小説家ヘンリー・フィールディング Henry Fielding 、劇作家リチャード・シェリダン Richard B Sheridan らの多彩な人々が集った。一方で科学者たちにも人気で、ジョン・デザグリエルス John Desaguliers （学士院会員の自然科学者）は、客の前で科学実験をし、店内で講義をして、これが店の名物になっていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;「ロイヤル・コーヒーハウス Royal Coffee House 」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1865年ピカデリー Piccadilly で開業のロンドン最後の「文学カフェ」。詩人で作家のオスカー・ワイルド Oscar Wilde はいつも美少年と連れ立って来店していた。D・Ｈ・ロレンス D H Lawrence （詩人・作家）やアルトゥル・ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer （ドイツの哲学者）も常連であった。20世紀になると、亡命作家のシュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 、エルンスト・トラー Ernst Toller 、ヘルマン・ケステン Hermann Kesten らが訪れていた。第二次大戦後は「文学カフェ」としての役割は終わり、高級レストランとパーティルームとなり、現在は改装をして高級ホテルとして営業している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
→「ロイヤル・コーヒーハウス」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                                                                        　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers &#039;&#039; ALL ABOUT COFFEE  Second Edition、&#039;&#039;1935&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Bryant Lillywhite, &#039;&#039;London Coffee Houses&#039;&#039;  (George Allen and Unwin , 1963)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・クラウス・ティーレ＝ドールマン　『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳　大修館書店，2000年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介 『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%82%B9%E7%A4%BE&amp;diff=50259</id>
		<title>ヤコブス社</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%82%B9%E7%A4%BE&amp;diff=50259"/>
		<updated>2026-09-08T13:44:05Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先解説文&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;ヤコブスコーヒー　Jacobs Kaffee&#039;&#039;&#039; ==&lt;br /&gt;
1895年ヨハン・ヤコブスによってブレーメン Bremen で創業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「良質な商品を手ごろな価格で提供する。」というコンセプトで、主にコーヒー・紅茶・チョコレート・ビスケット を扱う食料品店で、場所は市の中心部、市庁舎の近くドムスホフ Domshof 18番地にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1907年にはコーヒーの焙煎施設（工場）を作り、ヤコブスコーヒーというコーヒーの焙煎・卸し業務を主体とする会社となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1910〜30年代業績は拡大し、バルト海沿岸のホテルやレストランなどへの卸売りのほか、アメリカへの輸出も始めた。しかし、第二次大戦の戦火にみまわれて、社屋も工場も被災をした。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Jacobs Geschmacksrichtungen.tif.jpg|サムネイル|254x254ピクセル|1966年ごろの広告　Wikipedia：JDE Peet&#039;s （ドイツ語版）より]]&lt;br /&gt;
1950年に社屋をブレーメン市内のオーバーンシュトラッセ Obetnstraße に移転して、営業を再開した。以後次々と新しいブランド・商品を売り出し、当時は珍しかったテレビCMをはじめとした斬新な広告戦略で、チボー Tchibo 、エドショー Eduscho とならぶ西ドイツ（当時）を代表するコーヒーのナショナル・ブランドに成長した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グローバル化が進み、1973年に本社をスイスのチューリッヒ Zürich に移転して、1982年にはスイスのチョコレート会社スシャード Suchard と合併し、ヤコブス・スシャード社が誕生した。このころからJacobsは英語読みのジェイコブズといわれるようになった。（本文ではヤコブスで統一する。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年ヤコブス・スシャードはタバコメーカーのフィリップ・モリス Phillip Morris の傘下に入り、さらに同じ傘下のクラフト・ゼネラルフーズ・ヨーロッパ Kraft General Foods Europe と合併した。合併後もそれぞれのブランドは独自の路線を進み、ヤコブスブランドは、旧ソ連・中東・アフリカ・中央アメリカへ販路を拡大していった。その後も、親会社は様々な買収劇を繰り返したが、ヤコブスブランドは世界中にその名を広めていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2015年に親会社に所属するすべてのコーヒーブランド（もともとは8社のコーヒーロースター）を統合し、コーヒー専門企業 ヤコブス・ダウエ・エグバーツ Jacobs Douwe Egberta (JDE）が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2019年にはアメリカのピーツ Peet’s （ピーツ・コーヒー＆ティ－が発祥）と合併しJDEピーツ（コーヒーブランドはヤコブス、ピーツを含め12）となった。ヤコブスは現在も世界的コーヒーブランドの一つである。　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：Johann Jacobs （ドイツ語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：Johann Jacobs Museum （ドイツ語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：JDE Peet’s （ドイツ語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：Mondelez International （英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・HP：JDE Peet’s&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Jacobs_Geschmacksrichtungen.tif.jpg&amp;diff=50258</id>
		<title>ファイル:Jacobs Geschmacksrichtungen.tif.jpg</title>
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		<updated>2026-09-08T13:39:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;1966年ごろの広告&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%82%B9&amp;diff=50257</id>
		<title>ヨハン・ヤコブス</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%82%B9&amp;diff=50257"/>
		<updated>2026-09-08T13:35:42Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先解説文&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;ヨハン・ヤコブス　Johann Jacobs&#039;&#039;&#039; ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Specialgeschaeft Johann Jacobs.png|サムネイル|269x269ピクセル|1895年　食料品店開業のチラシ　Wikipedia：JDE Peet&#039;s （ドイツ語版）より]]&lt;br /&gt;
1869年〜1958年。ブレーメン Bremen 郊外、ボルブフェルト Borgfeld  の農家に生まれる。1895年に主にコーヒーと紅茶を取り扱う食料品店を開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1907年にはコーヒー焙煎施設（工場）を作り、ブレーメンで最初のコーヒーロースター会社を設立した。第二次大戦の苦しい時期を乗り越えて、ヤコブスコーヒーはヨハンの甥のヴァルター Walther 、その子供のクラウス Klaus が経営を引き継ぎ、ドイツ有数のコーヒーロースターに成長した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハンは1958年にブレーメンで亡くなったが、その業績をたたえて、1984年にチューリッヒ Zürich （1973年にヤコブス社が移転）に「ヨハン・ヤコブス博物館 Johann Jacobs Museum 」が開館した。ここで世界有数のコーヒー文化史のコレクションや図書を見ることができる。　　　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：Johann Jacobs （ドイツ語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：Johann Jacobs Museum （ドイツ語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：JDE Peet’s （ドイツ語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：Mondelez International （英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・HP：JDE Peet’s&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Specialgeschaeft_Johann_Jacobs.png&amp;diff=50256</id>
		<title>ファイル:Specialgeschaeft Johann Jacobs.png</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Specialgeschaeft_Johann_Jacobs.png&amp;diff=50256"/>
		<updated>2026-09-08T13:32:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;食料品店開業のチラシ&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8&amp;diff=50255</id>
		<title>コーヒー歴史年表</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8&amp;diff=50255"/>
		<updated>2026-09-08T13:20:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: リンク先追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!15世紀以前&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|約1400万年前&lt;br /&gt;
|[[コフィア属]]（[[コーヒーノキ]]）の祖先がアフリカ大陸（中央アフリカ）に生まれる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1000万〜500万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[コフィア属]]（[[アラビカ種]]、[[カネフォラ種]]、[[ユーゲニオイデス種]]、[[リベリカ種]]等）の祖先がアフリカ大陸の各地域の気候に適応して分岐。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|数100万〜数10万年前&lt;br /&gt;
|ビクトリア湖北西部に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配して自家受粉可能な四倍体の[[アラビカ種]]の祖先が生まれる。コラム：[[＊アラビカ種の誕生と旅立ち]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|100万〜1万年前&lt;br /&gt;
|現在の[[アラビカ種]]の直接の祖先が、[[エチオピア高原]]に生き残る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|紀元前3世紀&lt;br /&gt;
|[[エチオピア]]で山羊飼いカルディがコーヒーを発見（伝説）？（[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9〜11世紀&lt;br /&gt;
|ペルシャの医師・哲学者[[アル・ラーズィー（ラーゼス）]]と[[イブン・スィーナー（アヴィセンナ）]]が、薬としてコーヒー（ブン、ブンカ、ブンクム）について記述？[[＊コラム：コーヒーを薬として使用？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|13世紀半ば&lt;br /&gt;
|イスラムの修道僧[[シェイク・オマル]]が[[モカ]]の山中でコーヒー発見（伝説）？　＊コラム：シェイク・オマルのコーヒー発見伝説&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!15世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1454年頃&lt;br /&gt;
|[[アデン]]の律法学者[[シェイク・ジェマレディン]]（ザブハーニー）がコーヒーの効用を知り、イスラムの修道僧の間に広める。＊コラム：最初はどんなコーヒーを飲んだのか？＊コラム：コーヒーとワイン、カート&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀半ば&lt;br /&gt;
|この頃[[モカ]]の東、[[イエメン]] の山中でコーヒーの栽培始まる？　[[*コラム:いつコーヒーの栽培が始まったのか？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1470年頃&lt;br /&gt;
|[[シェイク・ジェマレディン]]死去。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15世紀末&lt;br /&gt;
|コーヒーの飲用がメッカ、メディナなどアラビア半島南部に広まる。ほぼ同時期にカフェも現れる[コラム]スーフィーによるイスラム世界へのコーヒーの伝播。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!16世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1510年頃&lt;br /&gt;
|コーヒーがカイロに広まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1511年&lt;br /&gt;
|メッカで最初のコーヒー、カフェ弾圧。[コラム]イスラム世界でのコーヒー論争と弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1517年&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝[[セリム一世]]がエジプト征服（マムルク朝）。コーヒーがカイロからコンスタンチノープルに伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1530年頃&lt;br /&gt;
|ダマスカスにコーヒー伝わる。カフェ「バラ」「救済の門」ができる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1532年頃&lt;br /&gt;
|アレッポにコーヒー伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1534年&lt;br /&gt;
|カイロでコーヒー反対運動起こる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1554年&lt;br /&gt;
|コンスタンチノープルにカフェ（トルコではカフェ・カネ）ができる。[コラム]コンスタンティノープルのカフェの姿。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16世紀半ば&lt;br /&gt;
|[[トルコ式コーヒー]]の形態（焙煎、粉砕、抽出、サーヴィス方法）が完成。[[＊コラム：トルコ式コーヒーの器具と抽出法]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1570年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝セリム二世（在位1566〜74）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1580年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコ皇帝ムラト三世（在位1574〜92）によるコーヒー弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1582(3)年&lt;br /&gt;
|ドイツの医師・植物学者[[レオンハルト・ラウヴォルフ]]が著作（『[[東方諸国への旅Journey into the eastern countries|東方諸国への旅]]』）の中でコーヒーについて言及。ヨーロッパで初めて印刷物中にコーヒーが登場。[コラム]コーヒーのヨーロッパへの紹介者たち。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1585年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアのトルコ大使、ジャンフランチェスコ・モロシーニ、ヴェネチア評議会にトルコでのコーヒー飲用について報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1587年&lt;br /&gt;
|[[アブダル・カディール]]『[[アブダル・カディールの書|コーヒーの合法性の擁護]]』を著述。現存する最古のコーヒー書。[コラム]アブダル・カディールの写本の翻訳と概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1588年頃&lt;br /&gt;
|[[シャー・アッバス]]の治世（1588〜1629年）には、ペルシャにカフェが存在したとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1592年&lt;br /&gt;
|[[プロスペロ・アルピーニ]]、[[『エジプトの植物』]]出版。コーヒーの木のデッサンと記述。[コラム]イタリアのコーヒーへの関心の高まり&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1595年&lt;br /&gt;
|[[バルダヌス]]『[[リンスホーテン]]の旅』の注でコーヒーに関して記述。イギリスで初めてのコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!17世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|インドのイスラムの巡礼者[[ババ・ブダン]]がモカからマイソールにコーヒーを持ち帰る（伝説？1640年、1695年頃という説も）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1600年頃&lt;br /&gt;
|ローマ教皇[[クレメンス八世]]、コーヒーに洗礼を施す（？伝説）。[[＊コラム：クレメンス八世のコーヒー洗礼は本当か？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1602年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、『[[旅と冒険]]』でコーヒーについて記述。[コラム]イギリス の知識人のコーヒーへの関心の高まりと著作。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1607年&lt;br /&gt;
|[[ジョン・スミス]]、バージニア植民地にコーヒーを持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1609年&lt;br /&gt;
|ウィリアム・ビダルフ、『ある英国人たちのアジア、アフリカその他の地への旅行記』出版。コーヒーについて詳細な記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1610年&lt;br /&gt;
|（オランダ、ヨーロッパに初めて中国、日本から茶を輸送）。[コラム]陶磁器（コーヒーカップ）のヨーロッパへの輸出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1614年&lt;br /&gt;
|[[ピエトロ・デッラ・ヴァッレ]]がコーヒーをヴェネツィアに持ち帰る。？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1616年&lt;br /&gt;
|オランダが[[モカ]]から初めてヨーロッパにコーヒーを輸送。1640年に商業的に輸入が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1620年&lt;br /&gt;
|ピルグリム・ファーザーズ、アメリカ入植。コーヒー器具を持ち込む？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1623年&lt;br /&gt;
|フランシス・ベーコン、『死生論』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1632年&lt;br /&gt;
|ロバート・バートン、『メランコリーの解剖学』でコーヒーについて記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1634年&lt;br /&gt;
|[[ヘンリー・ブラント]]（コーヒー・ハウスの父、と呼ばれる）、『レバントへの旅』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1644年&lt;br /&gt;
|[[ピエール・ド・ラ・ローク]]、トルコからマルセイユにコーヒー器具を持ち帰る。[[＊コラム:フランスのコーヒーへの関心の高まり。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1645年&lt;br /&gt;
|ヴェネチアに最初のカフェ開店（コーヒーが一般化）？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|トルコの使節団がウィーンにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1649年&lt;br /&gt;
|（清教徒革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年&lt;br /&gt;
|オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウス（「[[ジェイコブズ]]」）開業。　[[＊コラム：ヨーロッパ諸国のカフェの始まり]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1650年頃&lt;br /&gt;
|この頃に[[シリンダー型焙煎機]]が登場。　[[＊コラム：17～18世紀のコーヒー焙煎機。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1652年&lt;br /&gt;
|アルメニア人[[パスカ・ロゼ]]、ロンドン初のコーヒーハウス開業。以後、続々とコーヒーハウスが誕生し、17世紀末には3000軒を数える。[[＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯|＊コラム：ロゼのコーヒーハウス開業の経緯。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1656年頃&lt;br /&gt;
|オスマン・トルコの大宰相[[キョプリュリュ]]（・メフメト・パシャ）によるカフェ弾圧。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年以前&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・ファー]]、「[[レインボウ]]」を開業(ロンドン）。ロンドンで２番目のコーヒー・ハウス。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|スウエーデンの旅行家[[クレス・ロラン]]、トルコを使節として訪問。コーヒーの飲み方を報告。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|「[[ギャラウェイズ|ギャラウェイズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）で茶の販売広告¸　[[＊コラム：コーヒーハウスと茶、チョコレート]]  [[コーヒーハウスと広告の誕生|＊コラム：コーヒーハウスと広告の誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1657年&lt;br /&gt;
|[[ジャン・ド・テヴノー]]、パリにコーヒーを紹介。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1658年&lt;br /&gt;
|オランダ、モカから[[セイロン島（スリランカ）]]へコーヒーを移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」（ロンドン）に[[ロータ・クラブ]]設立。 [[＊コラム：コーヒーハウスとクラブ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーが売られる（薬屋）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1660年頃&lt;br /&gt;
|「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。（〜1749年） [[＊コラム：著名なコーヒーハウスとコーヒーハウスに通った有名人]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1664年&lt;br /&gt;
|ハーグにオランダ初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|（[[ロンドンでペスト大流行]]。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年&lt;br /&gt;
|「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1665年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人の[[ニコラス・ブック]]、コーヒー専用のミルを開発。　[[＊コラム：コーヒー・グラインダー（ミル）の変遷。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1666年&lt;br /&gt;
|[[ロンドン大火]]。レンガ作りで再建。続々とコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：街の復興と代用貨幣の発行]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1668年&lt;br /&gt;
|アメリカ最初のコーヒーに関する記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|トルコの大使[[ソリマン・アガ]]がコーヒーを携えてパリに赴任。上流階級の間でコーヒーがブームになる。[[＊コラム：セヴィニェ夫人とフランス宮廷人のコーヒー観。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1669年&lt;br /&gt;
|ロンドンに[[ロイヤル・エクスチェンジ]]（商品取引市場）開設。近辺に多数のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：コーヒーハウスと商取引]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1670年&lt;br /&gt;
|[[ノワンテル侯爵]]、フランス大使としてトルコ訪問¸（1670〜79年）。[[アブダル・カディールの書]]、[[ビチヴィリの写本]]を持ち帰り、ルイ一四世に献上。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|ローマのオリエント語教師[[ファウスト・ナイロニ]]が著作の中で[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]を紹介。[[＊コラム：「山羊飼いコーヒー発見伝説」の真実]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]にフランス初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1671年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]]『[[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して』|コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して]]』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1672年&lt;br /&gt;
|パリに最初のカフェ。アルメニア人[[パスカル]]が露店のカフェを開業。[[＊コラム:「カフェ・プロコプ」以前のカフェ]] [[＊コラム：コーヒーの呼び売りカンディオ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674年&lt;br /&gt;
|ロンドンで女性たちによるコーヒー禁止の請願。[[＊コラム：女性のコーヒーハウスへの反感]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1674〜88年&lt;br /&gt;
|ロベール・ボナール（Robert Bonnart）の版画シリーズ（貴族Homme de quarité¸)にコーヒーを飲む貴族の数点のポートレイト。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1675年&lt;br /&gt;
|[[チャールズ二世]]、コーヒー・ハウス禁止令。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1676年&lt;br /&gt;
|ルイ一四世によりカフェのギルド（カフティエ＝リモナディエ＝ディスティラトゥール）が認可される。[コラム]ギルドの排他特権とカフェの商品アイテム&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|ハンブルクにカフェが開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1679年&lt;br /&gt;
|[[マルセイユ]]でコーヒーの薬効について論争。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1680年頃&lt;br /&gt;
|「[[ジョナサンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|[[コルシツキー]]がウィーン初のカフェ「[[青い瓶（ブラウエン・フラッツェ）]]」開業（作り話？）。[[＊コラム：コルシツキーの「青い瓶」は作り話？]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1683年&lt;br /&gt;
|ヴェネツィアのサン・マルコ広場にカフェがあったとの記録。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年頃&lt;br /&gt;
|この頃ロンドンに3000軒のコーヒーハウスとの記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1684年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・デュフール]][[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関する新たな興味をそそる論説』]]刊行&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1686年&lt;br /&gt;
|「プロコプ」開業（パリ）。フランスのカフェの原型となる。[コラム]「プロコプ」を巡って&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|「[[ロイズ|ロイズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。 [コラム][[コラム：ロイズを巡って|「ロイズ」を巡って]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1688年&lt;br /&gt;
|[[ヨハネス・ディオダド]]、ウィーンにカフェ開業。ウィーンの最初のカフェか。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|（名誉革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年&lt;br /&gt;
|ボストンにニュー・イングランド初のコーヒーハウス（「ロンドン・コーヒーハウス」）開業。 [[＊コラム：ボストンの初期のコーヒーハウス]]　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1689年　&lt;br /&gt;
|（イギリス東インド会社が初めて中国から直接イギリスに茶を輸送）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|ストックホルムに２軒のカフェ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1690年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ローラン]]」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1694年&lt;br /&gt;
|ライプチッヒに初のカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1696年&lt;br /&gt;
|ニューヨークに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：ニューヨークの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1698年頃&lt;br /&gt;
|「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|オランダが[[ジャワ]]にインドのマラバールからコーヒーの苗木を運び、移植に成功。[[＊コラム：インドネシアのコーヒー栽培（始まりから現在まで）]]  [コラム]イエメンからのコーヒー栽培の伝播¸と経路&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1699年&lt;br /&gt;
|[[アントワーヌ・ガラン]]、『[[コーヒーの起源と伝播]]』を著述。『[[アブダル・カディールの書]]』の抄訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!18世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年&lt;br /&gt;
|フィラデルフィアに初のコーヒーハウス開業。 [[＊コラム：フィラデルフィアの初期のコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1700年頃&lt;br /&gt;
|「[[トムズ|トムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年&lt;br /&gt;
|「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1705年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からアムステルダムにコーヒーの苗木を移送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1709年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]『[[タトラー]]』創刊。 [[＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]からオランダにコーヒーを輸送。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1711年&lt;br /&gt;
|[[リチャード・スティール]]、[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[スペクテイター]]』創刊&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1712年&lt;br /&gt;
|「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|アムステルダム市からルイ一四世にコーヒーの苗木を献呈。[[パリ植物園|パリ王立植物園]]に移植。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|（ジョージ一世がイギリス国王に。ハノーヴァー朝の成立）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1714年&lt;br /&gt;
|プラハ初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|（ルイ一四世崩御。ルイ一五世即位。オルレアン公が摂政に）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・パレ・ロワイヤル」が、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」に改名。豪華カフェに生まれ変わる（パリ）。[コラム①]ジュール・ミシュレ『フランス史・レジャンス』から　[コラム②]カフェとゲーム（チェス）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|ジャン・ド・ラ・ローク『幸福なアラビアの旅』刊行。コーヒーに関しての記述。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]と[[ドミニカ]]にコーヒー栽培が伝わる（[[ド・クリュー]]と別ルート）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|フランス、[[モカ]]からコーヒーを[[ブルボン島]]（現レユニオン島）に移植し栽培に成功。ブルボン種の祖といわれる。[コラム]ブルボン島へのコーヒー移植の経緯。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1715年頃&lt;br /&gt;
|パリに300軒のカフェ。[コラム]フランス革命以前のパリのカフェ事情&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1718年&lt;br /&gt;
|[[スリナム]]にコーヒー栽培が伝わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1720年&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「[[カフェ・フローリアン]]」開業（ヴェネツィア）。[コラム]サン・マルコ広場のカフェ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1721年&lt;br /&gt;
|ベルリンに初めてのカフェ開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1723年&lt;br /&gt;
|[[ガブリエル・ド・クリュー]]、パリ王立植物園のコーヒーの苗木を[[マルティニーク]]島に運び栽培に成功。ここからコーヒー栽培がカリブ海・中米諸国に伝わる（ティピカ種の祖）。[コラム]マルティニーク島へのコーヒー移植の経緯&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]島が[[モカ]]に代わって世界最大のコーヒー生産地に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|サン・マルコ広場に「カフェ・クワドリ」開業（ヴェネツィア）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1725年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フォワ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1727年&lt;br /&gt;
|フランシスコ・パリェッタがフランス領ギアナからパラにコーヒーを持ち帰り、移植に成功。＊コラム：[[ブラジルのコーヒー栽培の始まり]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年頃&lt;br /&gt;
|ハイチ島で本格的にコーヒーの栽培が始まる。18世紀後半には世界最大の生産地に。[コラム①]黄金の島、ハイチ（サン＝ドマング）　[コラム②]コーヒーと奴隷貿易&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1730年&lt;br /&gt;
|[[ジャマイカ]]でコーヒーの栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750頃～&lt;br /&gt;
|[[カリブ海、中南米諸国にコーヒーの栽培が伝わる]]。キューバ1748年、グァテマラ1760年頃、コスタリカ1774年、ベネズェラ1784年、メキシコ1790年頃、コロンビア18世紀末。コーヒー栽培が本格化するのは19世紀後半以降。[コラム]中南米、[[カリブ海諸国]]へのコーヒーの伝播&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1734年頃&lt;br /&gt;
|J.S.バッハ、ライプチッヒの「[[カフェ・ツィンマーマン]]」で「[[コーヒー・カンタータ]]」初演。[[＊コラム①：コーヒークレンツヒェンと女性へのコーヒーの流行（ドイツ）]][[＊コラム②：「コーヒー・カンタータ」解釈]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1737年&lt;br /&gt;
|「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」開業（ニューヨーク）。 [[＊コラム：植民地時代のアメリカ社会とコーヒーハウス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1750年&lt;br /&gt;
|カルロ・ゴルドーニの『ボデガ・デル・カフェ』ヴェネツィアで初演。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|『百科全書』の刊行始まる（〜1772年）。[コラム]百科全書の刊行と「プロコプ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1751年&lt;br /&gt;
|[[ウィリアム・ホガース]]画『[[ビール通りとジン横丁]]』を発表。＊[[コラム：18世紀ロンドンの居酒屋事情]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1752年&lt;br /&gt;
|「[[ラネラ・ガーデン]]」開業（ロンドン）。[[＊コラム：ロンドンのティーガーデン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|「カフェ・グレコ」開業（ローマ）。[コラム]「カフェ・グレコ」は「カフェ・テデスコ」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年&lt;br /&gt;
|[[ブラジルのリオでコーヒー栽培が始まる]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1760年頃&lt;br /&gt;
|フランスで布で漉す浸漬式の抽出法が普及し始める（ボイル式も継続して行われる）。[コラム]抽出法の多様化&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1764年&lt;br /&gt;
|ミラノで文学誌『イル・カフェ』発刊。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1773年&lt;br /&gt;
|[[ボストン茶会事件]]。コーヒーがアメリカの国民飲料になるきっかけとなる。[コラム]ボストン・ティーパーティーとコーヒー。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1776年&lt;br /&gt;
|（アメリカ独立宣言）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1777年&lt;br /&gt;
|プロイセンのフリードリヒ２世（大王）、コーヒーの使用を制限する布告。[コラム]コーヒー禁止の影響&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|（パレ・ロワイヤルの改装完成（1781年〜））。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1784年&lt;br /&gt;
|ベネズエラにコーヒー栽培伝わる。1789年に輸出開始、栽培本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1785年頃〜&lt;br /&gt;
|オルレアン公（ルイ・フィリップ・ジョゼフ）がパレ・ロワイヤル改装し、賃貸。パレ・ロワイヤルにカフェが集積。フランス革命時には各党派の活動の舞台ともなる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1788年頃&lt;br /&gt;
|この頃パリのカフェ、1700軒を数える。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|（フランス革命）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|カミーユ・デムーラン、「カフェ・ド・フォワ」のテラスでアジ演説。バスティーユへの行進のきっかけに（フランス革命の発火点）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1789年&lt;br /&gt;
|ニューヨークの「[[マーチャンツ・コーヒーハウス]]」の前でジョージ・ワシントンの歓迎式典が行われる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1790年頃&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤルに次々にカフェ、レストランが開業。パリ随一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|ハイチで反乱発生。内乱でコーヒー生産に大打撃。[コラム]ハイチの独立とコーヒー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1791年&lt;br /&gt;
|「カフェ・リーシュ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1798年&lt;br /&gt;
|「トルトーニ（カフェ）」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1799年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アルディ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!19世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|ドリップ式のコーヒー器具、ド・ベロワのコーヒー・ポット登場。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃&lt;br /&gt;
|（中国で紅茶＝工夫茶の製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1800年頃〜&lt;br /&gt;
|パレ・ロワイヤル繁栄の全盛期（1830年頃まで）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|アメリカが世界最大のコーヒー消費国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19世紀初頭&lt;br /&gt;
|スマトラ、セレベスなどでコーヒー栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1802年&lt;br /&gt;
|「カフェ・アングレ」開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|(ナポレオン、皇帝に即位。第一帝政始まる)。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1804年&lt;br /&gt;
|[[ハイチ]]が独立（史上初の黒人共和国）。フランス、コーヒーの覇権を失う。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|ナポレオン、大陸封鎖令。コーヒーが不足し、代用コーヒーが横行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1806年&lt;br /&gt;
|[[シルヴェストル・ド・サシ]]、[[アブダル・カディールの書]]（『コーヒーの合法性の擁護』）を部分訳。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年&lt;br /&gt;
|(フランス、ナポレオンが退位し、王政復古。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃&lt;br /&gt;
|ブラジルの[[フルミネンセ]]（リオデジャネイロ）でコーヒー生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1815年頃〜&lt;br /&gt;
|オーストリア、[[ビーダーマイヤー]]時代（〜48年）。[[＊コラム①：ビーダーマイヤー時代のウィーンのカフェ]]　[[＊コラム②：ウィーンのカフェ・コンセール]]　[[＊コラム③：作曲家たちが通ったウィーンのカフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1816年&lt;br /&gt;
|メキシコでコーヒーの商業的栽培始まる。栽培の本格化は1870年代から。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1823年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサム地方で茶の木（アッサム種）発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年&lt;br /&gt;
|(フランス、七月王政。)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1830年頃&lt;br /&gt;
|イタリア通りにカフェ＝レストランが集積。次第にパレ・ロワイヤルに代わりパリ一の繁華街に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1832年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ペドロッキ」開業（イタリア・パドヴァ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1835年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・クランツラー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1838年&lt;br /&gt;
|（インドのアッサムで紅茶の製造始まる。続いてダージリンでも紅茶を製造（1841年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1839年&lt;br /&gt;
|バルザック『近代興奮剤考』刊行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|（アヘン戦争始まる〜1842年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年&lt;br /&gt;
|[[ジャン＝ピエール・プジョー]]が金属製のコーヒー・ミルを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1840年頃&lt;br /&gt;
|イギリス人ロバート・ナピアーがサイフォンを発明。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1843年&lt;br /&gt;
|コスタリカ、他の中米諸国に先駆けコーヒー輸出を本格的に開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：ウィーンの文学カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1847年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジェイムズ・カーター]]がプル・アウト式焙煎機を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1848年&lt;br /&gt;
|フランス、第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領に（1852〜第二帝政）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷貿易を禁止。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～1870年頃&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培の黄金時代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃～&lt;br /&gt;
|この頃から中米のコーヒー栽培が本格化。先行するコスタリカについでグァテマラ（1850年頃）、エルサルバドル（1852年）、ニカラグァ（1860年代）がコーヒー栽培に取り組み、1870年代から輸出が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1850年頃〜&lt;br /&gt;
|（ティー・レース始まる。〜1870年頃）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（フランス、第二帝政。ルイ・ナポレオンが皇帝に。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1852年&lt;br /&gt;
|（オスマンのパリ大改造始まる（〜1870年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1855年&lt;br /&gt;
|（フランス、第一回パリ万博（1867：第二回、1878：第三回））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1858年&lt;br /&gt;
|ヴィクトリア湖の南で[[カネフォラ種|ロブスタ]]発見。新種として報告せず。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年&lt;br /&gt;
|（アメリカ南北戦争（〜65年））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1860年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が軌道に乗る。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|（イタリア王国成立。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1861年&lt;br /&gt;
|アフリカで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1862年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・ラ・ペ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1864年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、新型焙煎機を開発（現在の焙煎機の原型）。[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|ジョン・アーバックル、初めてパック詰めにしたコーヒー「アリオーサ」を販売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1865年&lt;br /&gt;
|「[[ロイヤル・コーヒーハウス]]」開業（ロンドン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、[[＊コラム：ジェイブズ・バーンズの功績|グラニュレーターとコーヒー冷却器を開発]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1867年&lt;br /&gt;
|[[セイロン島（スリランカ）|セイロン島（現スリランカ）]]で[[さび病]]発生。コーヒーの生産は19世紀末までに壊滅。徐々に茶に切り替わる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|インドのニルギリで[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1868年&lt;br /&gt;
|ドイツのエメリッヒにエメリッヒ社創設（のちの焙煎機メーカー、[[プロバット社]]）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|（普仏戦争に敗北。第三共和制へ。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1870年&lt;br /&gt;
|アメリカ人、[[ジョン・ベーカー]]が業務用ミル『エンタープライズ』を開発。　[[＊コラム：業務用コーヒー・ミル開発の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1871年&lt;br /&gt;
|（ドイツ統一）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1873年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・インペリアル]]」開業（ウィーン）。[[＊コラム：19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術カフェ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|リベリアで[[リベリカ種]]発見。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1874年&lt;br /&gt;
|（日本で紅茶製造始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・バウアー]]」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃～&lt;br /&gt;
|ブラジル・サンパウロ地方で[[ブルボン種]]導入始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1875年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアのコーヒー栽培が本格化。1880年代から生産が急増。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ツェントラル]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1876年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ|ジャワ島]]、スマトラ島で[[さび病]]発生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1878年&lt;br /&gt;
|[[ジェイブズ・バーンズ]]、コーヒー、紅茶、香辛料を扱う業界誌『スパイス・ミル』刊行を始める。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・シュペール]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1880年頃～&lt;br /&gt;
|リオでのコーヒー栽培が徐々に衰退。1888年の奴隷解放により決定的打撃を受ける。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1882年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアの中央高地でコーヒーの栽培が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1881年&lt;br /&gt;
|ニューヨーク・コーヒー取引所開設。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1883年&lt;br /&gt;
|（セイロン＝スリランカからの紅茶輸出始まる）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1884年&lt;br /&gt;
|この年から、サンパウロを中心にコロノスとしてイタリア移民の導入が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「シャ・ノワール」移転して新装開業（パリ）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|「カフェ・ドゥ・マゴ」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1885年&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[さび病]]蔓延。生産が減少。[[リベリカ種|リベリカ]]への植え替えが進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1887年頃&lt;br /&gt;
|「カフェ・ド・フロール」開業（パリ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1888年&lt;br /&gt;
|ブラジル、奴隷制廃止。農園からの奴隷の逃亡により、リオのコーヒー生産に壊滅的打撃。コーヒー生産の中心はサンパウロ州に移る&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|サンパウロ州が世界最大のコーヒー生産地に。90年代にはブラジルは世界生産量の70〜80％を占める（ブラジルの総輸出の60〜70％）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1890年頃〜&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地、イタリア通りからモンマルトルへ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1893年&lt;br /&gt;
|ジョウエル・チーク、ジョン・ニールとチーク＝ニール・コーヒー社（「マックスウェル・ハウス」）をナッシュビルで設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1895年&lt;br /&gt;
|[[ヨハン・ヤコブス]]、ブレーメンにコーヒー店開業。（のちの[[ヤコブス社]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|ローランがコンゴで[[カネフォラ種|ロブスタ]]を発見。カネフォーラ種と命名。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1898年&lt;br /&gt;
|「カフェ・デス・ヴェステンス」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|加藤サルトリがシカゴでインスタント・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ムゼウム]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|サンフランシスコにブランデンシュタイン兄弟（4人）がMJBコーヒー社設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1899年&lt;br /&gt;
|ドイツの[[ゴットホット社]]、高速焙煎機「イデアル・ラピッド」を開発。　[[＊コラム：熱風式焙煎機の進展。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!20世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年&lt;br /&gt;
|ヒルズ・ブラザーズ社、真空包装缶のコーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃&lt;br /&gt;
|[[ジャワ]]で[[カネフォラ種|ロブスタ]]の栽培が始まる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|中南米諸国がコーヒーを大増産。中米諸国は次第にコーヒーのモノカルチャー化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1900年頃〜&lt;br /&gt;
|（インドでの紅茶生産が中国を圧倒）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ケニアにレユニオン島（[[ブルボン島]]）からコーヒーを移植、栽培が始まる。続いてタンザニアも栽培開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|イタリア人、ベゼラが蒸気圧による抽出器を発明。エスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1901年&lt;br /&gt;
|ブラジル、コーヒー大豊作。世界のコーヒー生産量の81％に達する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1906年&lt;br /&gt;
|ルートヴィヒ・ロゼリウス（ドイツ）、カフェインレスコーヒーの特許を取得、会社を設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1907年&lt;br /&gt;
|コーヒー価格の暴落により、ブラジル政府がコーヒー買い上げ（ヴァロリゼーション）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|ドイツで[[メリタ・ベンツ]]がペーパー・ドリップによる抽出器具を開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1908年&lt;br /&gt;
|（トマス・サリヴァン、ティーパック発明）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1914年&lt;br /&gt;
|（第一次世界大戦始まる。〜1918年）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1916年&lt;br /&gt;
|「ロマニッシェスカフェ」開業（ベルリン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大霜害。コーヒーの相場が急騰。ヨーロッパの需要回復も要因。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1918年&lt;br /&gt;
|「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」開業（ウィーン）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年&lt;br /&gt;
|ドイツのエミリッヒ社（後の[[プロバット社]]）、現在のドラム式焙煎機の原型となる「プロバット・コール・コースター」を開発。　[[＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ|＊コラム：プロバット社焙煎機開発の流れ。]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1920年頃&lt;br /&gt;
|パリのカフェの集積地がモンパルナスへ。（狂乱の時代（〜1930頃））&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1922年&lt;br /&gt;
|ウィリアム.H.ユーカーズ『オール・アバウト・コーヒー』を刊行（1935年・第2版）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1924年&lt;br /&gt;
|エドゥアルト・ショプッフ、ドイツ・ブレーメンにエドショー社を設立（通信販売）。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1925年頃〜&lt;br /&gt;
|ケニア、タンザニア、ウガンダなどアフリカのヨーロッパ植民地でコーヒー生産が本格化。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1927年&lt;br /&gt;
|コロンビアが世界第２位のコーヒー生産国に。コロンビア・コーヒー連盟FNC設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1929年&lt;br /&gt;
|（大恐慌。）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1931年〜&lt;br /&gt;
|エルサルバドルに独裁政権（エルナンデス・マルティネス）誕生。その後グァテマラ（1931年）、ニカラグァ（193４年）、ホンジュラス（1932年）で独裁政権が誕生。コーヒー生産は進展したが、土地の集中化が進み、貧富の格差が増大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1933年&lt;br /&gt;
|（ナチス、政権掌握）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1934年&lt;br /&gt;
|ブラジル、過剰生産によりコーヒーを焼却。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1937年&lt;br /&gt;
|ネスレ社がインスタントコーヒーを商品化（「ネスカフェ」）、翌年発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1941年&lt;br /&gt;
|第二次世界大戦（〜1945）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1947年&lt;br /&gt;
|ガジアがピストン方式のエスプレッソ・マシンを開発。現在のエスプレッソ・マシンの原型となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1949～54年&lt;br /&gt;
|ブラジルの旱魃を引き金にコーヒー価格が上昇、アメリカで薄いコーヒーが蔓延し、インスタントコーヒーの需要が伸びる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|サン＝ジェルマン＝デ＝プレのカフェに実存主義者が集まる（サルトル、ボーボワール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1950年頃&lt;br /&gt;
|ヨーロッパの需要回復によりコーヒー価格が上昇。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1953年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害によりコーヒー減産。価格が急騰。アメリカでは薄いわゆるアメリカン・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1955年頃&lt;br /&gt;
|ニューヨークなどでエスプレッソ・コーヒーが流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1956年&lt;br /&gt;
|西ヨーロッパのコーヒー消費量が第二次大戦前を上回る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1960年&lt;br /&gt;
|ブラジル、パラナ州のコーヒー生産量ががサンパウロ州を越える。生産地域の南下が顕著。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1962年&lt;br /&gt;
|第一次国際コーヒー協定（ICA)成立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1963年&lt;br /&gt;
|国際コーヒー機構（ICO）設立。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1966年&lt;br /&gt;
|[[アルフレッド・ピート]]がアメリカ・バークレーに「[[ピーツ・コーヒー＆ティー]]」開業。スペシャルティコーヒーの先駆け。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1969年&lt;br /&gt;
|ＵＣＣ上島コーヒー、世界初の缶コーヒーを発売。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1971年&lt;br /&gt;
|[[スターバックス]]、シアトルに開業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1974年&lt;br /&gt;
|エルナ・クヌッセン、スペシャルティ・コーヒーの概念を『ティー＆コーヒー・ジャーナル』誌上のインタビューで発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1975年&lt;br /&gt;
|ブラジル大霜害。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1976年&lt;br /&gt;
|ブラジル霜害の影響でICOが輸出総量割当制を実施。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年〜&lt;br /&gt;
|ニカラグァで「サンディニスタ」政権誕生。中米では続いてエルサルバドル、グァテマラでもゲリラの活動が活発化し、混乱の時代に。コーヒー生産も縮小傾向。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979年&lt;br /&gt;
|スイスのコフェックス社がスイス・ウォーター方式のカフェインレス・コーヒーを開発。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1980年頃〜&lt;br /&gt;
|コロンビアでバリエダ・コロンビア品種導入、品質劣化へ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1982年&lt;br /&gt;
|アメリカスペシャルティコーヒー協会（SCAA）設立&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1983年頃～&lt;br /&gt;
|アメリカでのスペシャルティーコーヒーの市場が急速に拡大。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年&lt;br /&gt;
|ブラジルで大旱魃。翌年にコーヒーの相場が急騰。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985年頃〜&lt;br /&gt;
|ブラジルのコーヒー栽培の中心が、ミナスジェライス州の高原地域（セラード）に移行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1990年頃～&lt;br /&gt;
|ヴェトナムでのコーヒー栽培（主に[[カネフォラ種|ロブスタ]]）が本格化。生産量が急速に拡大し2003年には世界第2位の生産国に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1986年&lt;br /&gt;
|[[ハワード・シュルツ]]、スターバックス社から独立し、エスプレッソ・バー「[[イル・ジョルナーレ]]」を開業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1987年&lt;br /&gt;
|ハワード・シュルツ、スターバックスの商標を買収し、コーヒーチェーン展開を開始。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1995年&lt;br /&gt;
|SCAA、コーヒーフレーバーホイールを作成・発表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年頃〜&lt;br /&gt;
|コーヒー生産におけるサスティナビリティ運動（認証コーヒー）が盛んに。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997年&lt;br /&gt;
|オークションシステムによるカップ・オブ・エクセレンスのプロジェクト始まる。1999年に現行の方式に。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!21世紀&lt;br /&gt;
!＜コーヒー全般＞　＜カフェ＞　＜栽培・生産＞　＜技術・器具＞　＜エピソード＞&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2000年&lt;br /&gt;
|ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ始まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|現行の国際コーヒー協定発効。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001年&lt;br /&gt;
|パナマ・オークションでゲイシャ種が最高値を更新。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002年&lt;br /&gt;
|[[ジェイムズ・フリーマン]]、「ブルー・ボトル」開業。アメリカでサードウェーブのコーヒー流行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005年頃〜&lt;br /&gt;
|パカマラ、ジャバ等のコーヒーの新品種の導入が盛んになる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|同&lt;br /&gt;
|中米を中心に新タイプのナチュラル、ハニー（パルプド・ナチュラル）など新たな精製法の研究・開発が進む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010年頃〜&lt;br /&gt;
|ラオス、タイ、ミャンマーなどアジア諸国でコーヒー栽培が盛んになる。&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BA&amp;diff=50254</id>
		<title>トムズ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BA&amp;diff=50254"/>
		<updated>2026-09-03T16:58:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;トムズ・コーヒーハウス　&#039;&#039;&#039;Tom’s Coffee House ==&lt;br /&gt;
18世紀初頭にロンドンには「トムズ・コーヒーハウス」が3軒あった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１軒目は1700年頃、[[コーンヒル]]街 Cornhill バーチン通りBirchin Ln.に開業した。[[ロイヤル・エクスチェンジ|王立取引所]]に近く、「[[ギャラウェイズ]] Garraway&#039;s Coffee House 」「[[ジョナサンズ・コーヒーハウス|ジョナサンズ]] Jonathan&#039;s Coffee House 」「[[ロイズ]] Lloyd&#039;s Coffee House 」などの商取引、株の仲介などが活発なであった、大型のコーヒーハウスが多くあるエリアの中で、「トムズ」でも商品取引が数多く行われた。しかし、1748年発行の地図には「トムズ」の記載がない。これは、閉店したか店名を変更したのかと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２軒目が、コヴェントガーデン Covent Gardenのラッセル通りRussell St. 17番地の「トムズ」である。1710年頃の開業で、劇場帰りの人々が毎晩のように語り合った。近くに「[[ウイルズ・コーヒーハウス|ウィルズ]] Will&#039;s Coffee House 」、向かいには「[[バトンズ]] Button&#039;s Coffee House 」があり、ここの「トムズ」は文学カフェに相当する。俳優・劇作家のデヴィッド・ギャリック David Garrick、詩人のトーマス・チャタートン Thomas Chattertonが常連であった。店は1804年まで営業。[[ファイル:トムズ・コーヒーハウス.jpg|代替文=トムズ・コーヒーハウス|なし|ラッセル通りのトムズ・コーヒーハウス（文学カフェ）　&#039;&#039;&amp;quot;&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  &amp;quot;より|サムネイル|241x241ピクセル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3軒目が、ストランドStrand 216番地の「トムズ」で1700年～1705年頃の開業である。この店を1706年にトーマス・トワイニング Thomas Twining （トワイニング紅茶の創業者）が購入した。メニューに新しい商品として高品質の茶を加え、さらにその茶葉の販売も始めた。茶は徐々に流行していき「トムズ」の評判も高くなった。当時、コーヒーハウスに女性が入ることはできなかったために、「トムズ」で購入した茶葉を、女性たちが家庭で飲用することが人気となった。1717年隣接する建物を買い取り、コーヒーハウスと隣り合うように、「ゴールデン・ライオン Golden Lion（ティーハウス）」を開業した。「ゴールデン・ライオン」は女性も入ることができたために、店内で女性がティータイムを楽しむことができるようになった。この後、茶の品質や伝統はトワイニング家が代々引き継ぎ、世界的ブランドの「トワイニング紅茶」となった。なお、ストランドの「トムズ」「ゴールデン・ライオン」は建て替えられて、現在も、紅茶の販売専門店「トワイニング・ショップ」として営業をしている。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介　『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版局 2009年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Web　　 　TWININGS&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96&amp;diff=50247</id>
		<title>ロータ・クラブ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96&amp;diff=50247"/>
		<updated>2026-08-21T19:48:28Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ロータ・クラブ　&#039;&#039;&#039;Rota Club ==&lt;br /&gt;
　イギリスの共和主義者・作家のジェームズ・ハリントン James Harringtonにより、「マイルズ・コーヒーハウス Miles’s Coffee House」で結成されたクラブである。「ロータ・クラブ」の前身はジョン・ワイルドマン Sir John Wildman が居酒屋で結成した「ボウ・ストリート・クラブ Bou Street Club」であり、ハリントンも友人たちと共和党政治について論議した。後に、ハリントンは節度と会話が重要であると考え、アルコールのないコーヒーハウスに場所を移し、新たに「ロータ・クラブ」を結成した。「ロータ」という名称は、ハリントンの「議会の議員は再任せずに交代制で」という考え、つまり「ローテーション」からきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「ロータ・クラブ」には、貴族、軍人、作家、商人などさまざまな社会階級のメンバーが集まった。クラブへの出席の自由、個人の自由性からメンバーの数は非常に多く、「マイルズ」は毎晩満員であった。ただし、メンバーの多くは議論の観客で、議論を行う中心的メンバーは、ジョン・オーブリー John Aubrey 、サミュエル・ピープス Samuel Pepys 、ヘンリー・ネヴィル Henry Neville などの文学者、ジョン・ワイルドマン Sir John Wildman をはじめとする軍人、エドワード・バクショー Edward Bagshaw（神学者）、ジョン・ホスキンス Sir John Hoskyns （準男爵・政治家）などハリントンの共和主義仲間が多かった。特に、1659年11月から1660年2月には、毎晩のように活発的に論議が繰り広げられた。話題は政治に限らず文学その他にも及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　連日のように活発な論議が展開された「ロータ・クラブ」ではあるが、政治体制が崩壊し王政が復活したために、共和主義論議の目的がなくなり自然消滅した。ハリントンと「ロータ・クラブ」の政治への着想は実現しなかったが、その精神は受け継がれて、その後の近代民主政治の発展に影響を与えた。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:ロータ・クラブ.jpg|代替文=ジェームズ・ハリントンの肖像　1635年頃の油彩画 　Wikipedia：Rota Club （英語版）より|フレームなし]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジェームズ・ハリントンの肖像　1635年頃の油彩画&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Wikipedia：Rota Club （英語版）より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介　『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：Rota Club（英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：James Harrington（英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9&amp;diff=50246</id>
		<title>マイルズ・コーヒーハウス</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9&amp;diff=50246"/>
		<updated>2026-08-21T19:46:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;マイルズ・コーヒーハウス　&#039;&#039;&#039;Miles&#039;s Coffee House ==&lt;br /&gt;
　1659年から1660年にかけて、『オセアナ共和国 &#039;&#039;The Commonwealth of  Oceana&#039;&#039; 』の著者ジェームズ・ハリントン James Harringtonが「[[ロータ・クラブ|ロータ・クラブ Rota Club]]」を結成して、共和制政治の論議がなされていたコーヒーハウスである。ウエストミンスター宮殿 Palace of Westminster (現在の国会議事堂)に隣接するニュー・パレス・ヤード New Palace Yardにあり、マイルズ Milesが経営していた。店の看板が「トルコ人の顔」であったために、タークス・ヘッド Turk’s Headとも呼ばれていた。常連客にはハリントンの政治仲間が多かったが、サミュエル・ピープス Samuel Pepys 、ジョン・ミルトン John Milton らの文学者も出入りをしており、文学論議も交わされた。しかし、「マイルズ」のイギリスのコーヒーハウス史における記録は、「ロータ・クラブ」に関してだけである。なお開業・閉店などの詳細は不明。　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;===&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・岩切正介　『男たちの仕事場　近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版 2009年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%B1%85%E9%85%92%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E6%83%85&amp;diff=50205</id>
		<title>コラム：18世紀ロンドンの居酒屋事情</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%9A18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%B1%85%E9%85%92%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E6%83%85&amp;diff=50205"/>
		<updated>2026-08-09T15:22:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;18世紀ロンドンの居酒屋事情&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;居酒屋の始まり&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　イギリスの居酒屋の歴史は、イン innとタヴァーン tavernから始まる。移動がもっぱら徒歩か馬車であり、時間も要したために、街道沿いや都市の入り口には多くの宿泊施設であるインが作られた。宿泊施設には当然飲食の施設があり、泊り・食べ・飲み・遊ぶ場所であり、酒場と宿屋が一体化した時代が長く続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またローマ時代のタベルナtavernaを起源とするタヴァーンは、近隣の住民が集まり飲食を楽しんだ場所であったが、宿泊施設付きのタヴァーンもあり、両者の区分はあまりなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにイギリスではワインだけではなく、エール（大麦麦芽から作られる上面発酵のビールの一種で、当初はホップを使用していない）を提供するエールハウス alehouse があり、やがてこれらはまとめてパブ pub と呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イン・タヴァーン・パブは仲間との交流を深める重要な場所で、特に地方では、その地域社会の中心的役割を果たしていた。また17世紀までは身分の差がなく集える場所であったが、貧富の差が大きくなった17世紀後半からは、異なる身分の者が酒を酌み交わすことはなくなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;上流階級とクラブ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17世紀後半の社交の中心となったのはコーヒーハウスで、18世紀初めまではさまざまな階層の男性たちが訪れていた。しかし18世紀半ばになると、コーヒーハウスは店ごとに客層の均一化が進む。つまり、店ごとに特定の集団のみが集まるようになり、閉鎖的になった。こうしてコーヒーハウスは開かれた社交の場であることをやめ、しだいに一般市民の生活から離れていった。貴族や上流階級の人々の社交の場は、クラブ化した特定のコーヒーハウス、タヴァーンやパブへと移っていったが、客が特定化したコーヒーハウスは、共通の趣味・思想・利害関係を持った同志が集まり飲食ができる「場所としてのクラブ」に変化していった。クラブ化したコーヒーハウスでは、従来は提供していなかった食事や酒が必須となり、タヴァーンやパブに転換する店も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
18世紀のクラブ化の動きは、19世紀以降の紳士の社交場として、クラブ・ハウスを持った数々の名門クラブ誕生のきっかけになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中産階級と「ビール街」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コーヒーハウスの全盛時代だった17世紀後半でも、中産階級や定職を持った労働者階級の人々はエールハウスや大衆タヴァーンの利用が多かった。ビールが健康に良いとされており、コーヒーハウスが衰退する一方で、パブには活気があふれ人々は浴びるようにビールを飲んだ。この様子はホガースの版画「ビール街とジン横丁」の「ビール街」で描写されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　貧富の差が著しくなったこの当時の酒場は、身分や社会的地位によって細分化され、上流・中流・下流の席は壁で仕切られていたという。上流階級が徐々にクラブに移るなかで、酒場は労働者の社交の場に変化をし、19世紀以降のパブPublic House の興隆につながっていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;貧困層と「ジン横丁」&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一方で貧困層の「狂気のジン時代 Gin Craze」は地獄であった。17世紀後半から政府の指導がありジンの生産量が増えると、タヴァーン・パブだけではなく、雑貨屋やタバコ屋また手押し車での売り子など、街のいたるところでジンが売られるようになった。値段も安く、粗悪品（なんの植物の根から作られたか不明の蒸留酒）も多く、体を悪くすることを知りながら、貧しい人々はひと時の安らぎと冬の寒さを凌ぐためジンを求めた。結果はホガースの版画「ビール街とジン横丁」の「ジン横丁」の描写である。政府はジン法を制定するが、「狂乱のジン時代」が終焉しタヴァーン・パブに秩序が戻るまでには相当の時間を要した。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『図説　ロンドン都市物語』　河出書房新社　1998年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia：  Pub  （英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia： Tavern  (英語版)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia： Beer Street and Jin Lane （英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　{{年表}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%82%B8%E3%83%B3%E6%A8%AA%E4%B8%81&amp;diff=50204</id>
		<title>ビール通りとジン横丁</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%82%B8%E3%83%B3%E6%A8%AA%E4%B8%81&amp;diff=50204"/>
		<updated>2026-08-09T14:59:25Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;ビール通りとジン横丁&#039;&#039;&#039;：Beer Street and Jin Lane ==&lt;br /&gt;
1751年に発表された、18世紀のイギリスを代表する風刺画家ウィリアム・ホガース William Hogarth の一対の版画。二枚を見比べることにより、社会の近代化の過程で、無秩序に発展した18世紀のロンドンにおける明と暗を表現している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商業貿易で富を得た上流階級とそのおこぼれを授かる中産階級の人々と、農村出身の貧しい労働者・ユダヤ人・外国からの移住者との格差は想像を絶するものであった。版画『ビール通り』では、ビールを飲むことの健康的なメリット・善良・繁栄する街の情景を描き、一方『ジン横丁』では、不治の病、嬰児殺し、飢え、自殺のなどの衝撃的な描写で、ジンに溺れる貧困の悲惨さを描いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つの版画は版を重ねて膨大な数が印刷され、コーヒーハウスやタヴァーンにも掲げられ、広くイギリス社会に浸透した。免許制によってジンの販売を規制する「ジン法（1750年蒸留酒販売法 Sale of Spirits Act 1750）」を後押しして、ジンに対する強烈なネガティブキャンペーンの役割を果たした。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:ビール通りとジン通り.jpg|なし|フレーム|『ビール通り』と『ジン横丁』　1759年版　Wikipedia　Beer Street and Jin Lane（英語版）　より]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『図説　ロンドン都市物語』　河出書房新社　1998年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　 Beer Street and Jin Lane  （英語版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・東京大学経済学図書館Digital Museum 『アダム・スミスからの知の継承』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[コーヒー歴史年表|　コーヒー歴史年表に戻る]]&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9&amp;diff=50203</id>
		<title>ウィリアム・ホガース</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9&amp;diff=50203"/>
		<updated>2026-08-09T14:54:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 画像挿入&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;ウィリアム・ホガース&#039;&#039;&#039;：William Hogarth ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:ホガース自画像.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|ホガース自画像 1745年　Wikipedia：ウイリアム・ホガース　より]]&lt;br /&gt;
生没年1697年～1764年。イギリスの画家・版画家。18世紀のイギリス絵画界を代表する国民的画家である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の社会や日常生活に焦点をあてた道徳的・教訓的風刺画で庶民の人気を集め、風刺画の父と呼ばれた。ホガースは絵画の題材となる情報を得るために、頻繁にコーヒーハウスを訪れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主な作品に、政略結婚とその不幸を描いた連作絵画『当世風結婚 Marriage A-la-Mode （1743年～45年）』、道徳的写実の連作版画『娼婦一代  A Harlot’s Progress (1733年～35年)』、『放蕩息子一代 A Rake’s Progress (1733年～34年)』、社会に蔓延する蒸留酒の弊害を告発した『[[ビール通りとジン横丁]] Beer Street and Jin Lane (1751年)』、非人道的事象への警鐘『残酷な４つの階段 The four Stages of Cruelty (1751年)』などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ホガース作品に海賊版が大量に横行したことから、作者の著作権保護を議会に働きかけ、著作権法 Engraving Copyright Act 1734（「ホーガス法」）の成立を勝ち取っている。　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Wikipedia　William Hogarth  （英語版）&lt;br /&gt;
* 東京大学経済学図書館Digital Museum 『アダム・スミスからの知の継承』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　{{年表}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E3%83%9B%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E8%87%AA%E7%94%BB%E5%83%8F.jpg&amp;diff=50202</id>
		<title>ファイル:ホガース自画像.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E3%83%9B%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E8%87%AA%E7%94%BB%E5%83%8F.jpg&amp;diff=50202"/>
		<updated>2026-08-09T14:52:15Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;ホガース自画像&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%81%AB&amp;diff=50201</id>
		<title>ロンドン大火</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%81%AB&amp;diff=50201"/>
		<updated>2026-08-06T16:56:15Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== ロンドン大火 == &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1666年9月2日午前1時過ぎ、ロンドン橋の北側にあるプディング通り Pudding Ln. にあるパン屋から出火し、9月5日まで４日間燃え続けた火災で、ロンドン市内の家屋や、セントポール大聖堂 St. Paul’s Cathedral を含めて多数の公共施設が焼失した。当時のイギリスはオランダと戦争中で、火元のパン屋は、海軍から注文を受けて深夜まで製造していたらしい。[[ファイル:The Great Fire of London, with Ludgate and Old St. Paul&#039;s.jpg|サムネイル|338x338ピクセル|セントポール大聖堂焼失　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　Wikipedia：Great Fire of London より]]　強風という気象条件が災いしたとはいえ、大火になった最大の要因は、社会整備がロンドンの人口急増に追い付かなかった点にあった。密集した木造家屋や、狭い道路、消火用水の不足で満足な消火活動ができなかったが、大火による死者はわずかであった。この火災で多くのコーヒーハウスが焼失をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大火後の復興は早かった。木造家屋は禁止され、レンガ造り・石造りとなり、道路の拡張や消火体制の整備が進められた。コーヒーハウスは、1670年代初めにはほとんどの店が再建され、さらに、以前ように薄暗い階段を上った二階や、階段を数段上がった高床式の店舗ではなくて、こぎれいな建物一階の路面店が増えた。コーヒーハウスをはじめ多くの商店が代用貨幣を発行したのがこの時期である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新たなコーヒーハウスも増えていった。居心地の良い店が増え、商業や貿易で経済的にも精神的にも豊かになった市民の安らぎの場所になった。また17世紀後半からは、商取引が活発なコーヒーハウスや、ジャーナリズムの発達とともに、情報センターとして役割を果たすコーヒーハウスが続々と誕生した。　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・　小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・　小林章夫　『図説　ロンドン都市物語』　河出書房新社　 1998年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・　Wikipedia：Great Fire of London （英語版）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%BA&amp;diff=50199</id>
		<title>バトンズ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%BA&amp;diff=50199"/>
		<updated>2026-08-04T18:58:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 画像挿入&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;バトンズ・コーヒーハウス　&#039;&#039;&#039;Button’s Coffee House ==&lt;br /&gt;
1712年頃～1851年頃　　ダニエル・バトン Daniel Button がコヴェントガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この店の開業には[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison がかかわっていたという。アディソンと彼の友人たちは、当時文学カフェとして人気のあった「[[ウイルズ・コーヒーハウス|ウィルズ]] Will&#039;s Coffee House 」や「[[トムズ]] Tom&#039;s Coffee House 」から「バトンズ」に移り、ほかに『[[タトラー]]』『[[スペクテイター]]』で関わりのあった[[リチャード・スティール]] Richard Steele や[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift も加わった。さらに風刺家で博学者のジョン・アーバースノット John Arbuthnott 、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope らも「バトンズ」の常連となり、18世紀前半のロンドンを代表する文学カフェのひとつになった。&lt;br /&gt;
[[ファイル:バトンズの投書箱.png|サムネイル|262x262ピクセル|バトンズの投書箱　Wikipedia：Button&#039;s Coffee House （英語版）より]]&lt;br /&gt;
「バトンズ」には巷の情報を集めるための「頭がライオンの形をした投書箱（現在はロンドン郊外のウォーバーン修道院 Woburn Abbey で保管・展示されている）」が設置されていて、「スペクテイター」や「ガーディアン The Gurdian 」の記事の執筆に役立った。アディソンの死後1720年代になると「バトンズ」の文学的雰囲気は失われ、18世紀中ごろには閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わずか40年ほど（最盛期は10年ほど）の短命なコーヒーハウスであったが、「バトンズ」がジャーナリズムやエッセイ文学の成立に果足した役割は大きい。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Button’s Coffee House 　（英語版）   　　　&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;バトンズの投書箱&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;バトンズ・コーヒーハウス　&#039;&#039;&#039;Button’s Coffee House ==&lt;br /&gt;
1712年頃～1851年頃　　ダニエル・バトン Daniel Button がコヴェントガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この店の開業には[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison がかかわっていたという。アディソンと彼の友人たちは、当時文学カフェとして人気のあった「[[ウイルズ・コーヒーハウス|ウィルズ]] Will&#039;s Coffee House 」や「[[トムズ]] Tom&#039;s Coffee House 」から「バトンズ」に移り、ほかに『[[タトラー]]』『[[スペクテイター]]』で関わりのあった[[リチャード・スティール]] Richard Steele や[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift も加わった。さらに風刺家で博学者のジョン・アーバースノット John Arbuthnott 、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope らも「バトンズ」の常連となり、18世紀前半のロンドンを代表する文学カフェのひとつになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」には巷の情報を集めるための「頭がライオンの形をした投書箱（現在はロンドン郊外のウォーバーン修道院 Woburn Abbey で保管・展示されている）」が設置されていて、「スペクテイター」や「ガーディアン The Gurdian 」の記事の執筆に役立った。アディソンの死後1720年代になると「バトンズ」の文学的雰囲気は失われ、18世紀中ごろには閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わずか40年ほど（最盛期は10年ほど）の短命なコーヒーハウスであったが、「バトンズ」がジャーナリズムやエッセイ文学の成立に果足した役割は大きい。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Button’s Coffee House 　（英語版）   　　　&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== &#039;&#039;&#039;バトンズ・コーヒーハウス　&#039;&#039;&#039;Button’s Coffee House ==&lt;br /&gt;
1712年頃～1851年頃　　ダニエル・バトン Daniel Button がコヴェントガーデン Covent Garden のラッセル通り Russell St. で開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この店の開業には[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison がかかわっていたという。アディソンと彼の友人たちは、当時文学カフェとして人気のあった「ウィルズ Will&#039;s Coffee House 」や「トムズ Tom&#039;s Coffee House 」から「バトンズ」に移り、ほかに『[[タトラー]]』『[[スペクテイター]]』で関わりのあった[[リチャード・スティール]] Richard Steele やジョナサン・スウィフト Jonathan Swift も加わった。さらに風刺家で博学者のジョン・アーバースノット John Arbuthnott 、詩人のアレクサンダー・ポープ Alexander Pope らも「バトンズ」の常連となり、18世紀前半のロンドンを代表する文学カフェのひとつになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「バトンズ」には巷の情報を集めるための「頭がライオンの形をした投書箱（現在はロンドン郊外のウォーバーン修道院 Woburn Abbey で保管・展示されている）」が設置されていて、「スペクテイター」や「ガーディアン The Gurdian 」の記事の執筆に役立った。アディソンの死後1720年代になると「バトンズ」の文学的雰囲気は失われ、18世紀中ごろには閉店した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わずか40年ほど（最盛期は10年ほど）の短命なコーヒーハウスであったが、「バトンズ」がジャーナリズムやエッセイ文学の成立に果足した役割は大きい。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊盛英夫　『文学カフェ』　中公新書　1980年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Button’s Coffee House 　（英語版）   　　　&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:カフェ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<title>スペクテイター</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 画像挿入&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;スペクテイター　&#039;&#039;&#039;The Spectator==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1711年に[[リチャード・スティール]]Richard Steele と[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison によって創刊された日刊誌。&lt;br /&gt;
[[ファイル:スペクテイター.jpg|サムネイル|272x272ピクセル|スペクテイター　Wikipedia：The Spectator （英語版）より]]&lt;br /&gt;
『スペクテイター』には数々のコーヒーハウスの名前が登場する。「[[ウイルズ・コーヒーハウス|ウィルズ]] Will&#039;s Coffee House」「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス|セント・ジェームズ]] St. James&#039;s Coffee House 」「[[グリシアン・コーヒーハウス|グリシアン]] Grecian Coffee House 」「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）|ココア・トゥリー]] Cocoa Tree Chocolate House 」「[[ジョナサンズ・コーヒーハウス|ジョナサンズ]] Jonathan&#039;s Coffee House 」などで、『スペクテイター』の記事は、これらのコーヒーハウスで仕入れたニュースや話題をもとに書かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[タトラー]] The Tatler 』では、コーヒーハウスごとに、文学のことは「ウィルズ」で得た話題として、「ウイルズ」の欄に、内外のニュースは「セント・ジェイムズ」で得た情報として、「セント・ジェイムズ」の欄に、というような記事掲載の仕方をしていたが、『スペクテイター』では、各コーヒーハウスで得た情報をまとめて、一貫性のあるテーマに従った記事として掲載した。さらに『スペクテイター』には次の特徴があった。まず、ゴシップ記事だけではなくて、文学・学術などのまじめな話題が取り入れられた。さらに当時のジャーナリズムの主流であった政治議論を排した。また、道徳的な配慮をしつつさまざまな話題を掲載した。広告も多く、演劇案内、交際を求めるもの、医薬に関することなど多岐にわたっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『スペクテイター』の発行部数は約3000部で、コーヒーハウスが購入をして、そこの常連客が回し読みをしたので、当時のロンドン市民の約１割が読者であったと推測できる。1712年までに555号が発行され、さらに1714年に週３回556号から635号が発行された。後に、これらの記事は８冊の本にまとめられて出版がなされた。アメリカにも読者が多く、ジェームズ・マディソン James Madison （後のアメリカ大統領）の世界観にも影響を与えたという。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　The Spectator　(英語版)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;スペクテイター&lt;/div&gt;</summary>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;スペクテイター　&#039;&#039;&#039;The Spectator==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1711年に[[リチャード・スティール]]Richard Steele と[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison によって創刊された日刊誌。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『スペクテイター』には数々のコーヒーハウスの名前が登場する。「[[ウイルズ・コーヒーハウス|ウィルズ]] Will&#039;s Coffee House」「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス|セント・ジェームズ]] St. James&#039;s Coffee House 」「[[グリシアン・コーヒーハウス|グリシアン]] Grecian Coffee House 」「[[ココアトゥリー（コーヒーハウス）|ココア・トゥリー]] Cocoa Tree Chocolate House 」「[[ジョナサンズ・コーヒーハウス|ジョナサンズ]] Jonathan&#039;s Coffee House 」などで、『スペクテイター』の記事は、これらのコーヒーハウスで仕入れたニュースや話題をもとに書かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[タトラー]] The Tatler 』では、コーヒーハウスごとに、文学のことは「ウィルズ」で得た話題として、「ウイルズ」の欄に、内外のニュースは「セント・ジェイムズ」で得た情報として、「セント・ジェイムズ」の欄に、というような記事掲載の仕方をしていたが、『スペクテイター』では、各コーヒーハウスで得た情報をまとめて、一貫性のあるテーマに従った記事として掲載した。さらに『スペクテイター』には次の特徴があった。まず、ゴシップ記事だけではなくて、文学・学術などのまじめな話題が取り入れられた。さらに当時のジャーナリズムの主流であった政治議論を排した。また、道徳的な配慮をしつつさまざまな話題を掲載した。広告も多く、演劇案内、交際を求めるもの、医薬に関することなど多岐にわたっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『スペクテイター』の発行部数は約3000部で、コーヒーハウスが購入をして、そこの常連客が回し読みをしたので、当時のロンドン市民の約１割が読者であったと推測できる。1712年までに555号が発行され、さらに1714年に週３回556号から635号が発行された。後に、これらの記事は８冊の本にまとめられて出版がなされた。アメリカにも読者が多く、ジェームズ・マディソン James Madison （後のアメリカ大統領）の世界観にも影響を与えたという。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　The Spectator　(英語版)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;スペクテイター　&#039;&#039;&#039;The Spectator==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1711年に[[リチャード・スティール]]Richard Steele と[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison によって創刊された日刊誌。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『スペクテイター』には数々のコーヒーハウスの名前が登場する。「ウィルズ Will&#039;s Coffee House」「セント・ジェームズ St. James&#039;s Coffee House 」「[[グリシアン・コーヒーハウス|グリシアン]] Grecian Coffee House 」「ココア・トゥリー Cocoa Tree Chocolate House 」「ジョナサンズ Jonathan&#039;s Coffee House 」などで、『スペクテイター』の記事は、これらのコーヒーハウスで仕入れたニュースや話題をもとに書かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[タトラー]] The Tatler 』では、コーヒーハウスごとに、文学のことは「ウィルズ」で得た話題として、「ウイルズ」の欄に、内外のニュースは「セント・ジェイムズ」で得た情報として、「セント・ジェイムズ」の欄に、というような記事掲載の仕方をしていたが、『スペクテイター』では、各コーヒーハウスで得た情報をまとめて、一貫性のあるテーマに従った記事として掲載した。さらに『スペクテイター』には次の特徴があった。まず、ゴシップ記事だけではなくて、文学・学術などのまじめな話題が取り入れられた。さらに当時のジャーナリズムの主流であった政治議論を排した。また、道徳的な配慮をしつつさまざまな話題を掲載した。広告も多く、演劇案内、交際を求めるもの、医薬に関することなど多岐にわたっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『スペクテイター』の発行部数は約3000部で、コーヒーハウスが購入をして、そこの常連客が回し読みをしたので、当時のロンドン市民の約１割が読者であったと推測できる。1712年までに555号が発行され、さらに1714年に週３回556号から635号が発行された。後に、これらの記事は８冊の本にまとめられて出版がなされた。アメリカにも読者が多く、ジェームズ・マディソン James Madison （後のアメリカ大統領）の世界観にも影響を与えたという。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　The Spectator　(英語版)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3&amp;diff=50191</id>
		<title>ジョゼフ・アディソン</title>
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		<updated>2026-08-03T18:07:15Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 画像挿入&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ジョゼフ・アディソン　&#039;&#039;&#039;Joseph Addison==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1672年～1719年　イングランド南西部のウィルトシャー Wiltshire 州生まれの詩人・劇作家・政治家。オックスフォード大学のクイーンズ・カレッジThe Queen&#039;s College , Oxford で学んだのちに、古典・ネオラテン語の能力が認められて、オックスフォード大学のマグダレン・カレッジ Magdalen College , Oxford のフェロー Fellow となった。&lt;br /&gt;
[[ファイル:ジョゼフ・アディソン.jpg|サムネイル|278x278ピクセル|ジョゼフ・アディソン　Wikipedia：Joseph Addison （英語版）より]]&lt;br /&gt;
1694年に最初の本を出版した後に、詩人・作家として執筆活動をしながら、外交官になることを視野に入れて、ヨーロッパ中を旅した。一方でホイッグ党系のクラブにも参加をして、1705年にホイッグ党政権下で国務次官に任官、1708年には国会議員にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党系クラブを通じ知り合った[[リチャード・スティール]] Richard Steele に協力をして、雑誌『タトラー The Tatler 』にいくつかの記事を執筆した。さらに1711年にはスティールとともに日刊紙『[[スペクテイター]] The Spectator 』を発刊した。『スペクテイター』の記事の多くはコーヒーハウスで得た情報で、執筆もコーヒーハウスでされていた。日々情報を得ることは大変であったようであり、アディソンは行きつけの「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]] Button&#039;s Coffee House 」にライオンの頭の形をした投書箱を備えて、読者からの情報をも募っていたことがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アディソンは、その後劇作家としても多くの劇作を手掛けて、特に1712年に発表された『カトー&#039;&#039;、&#039;&#039;悲劇 Cato a Tragedy 』はイギリス国内だけでなくアメリカでも大人気であった。また政治家としても活躍をして、1717年国務大臣に任命され、生涯国会議員を勤めた。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  , &#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Joseph Addison　(英語版)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3.jpg&amp;diff=50190</id>
		<title>ファイル:ジョゼフ・アディソン.jpg</title>
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		<updated>2026-08-03T18:02:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;ジョゼフ・アディソン&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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		<title>ジョゼフ・アディソン</title>
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		<updated>2026-08-03T17:58:41Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ジョゼフ・アディソン　&#039;&#039;&#039;Joseph Addison==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1672年～1719年　イングランド南西部のウィルトシャー Wiltshire 州生まれの詩人・劇作家・政治家。オックスフォード大学のクイーンズ・カレッジThe Queen&#039;s College , Oxford で学んだのちに、古典・ネオラテン語の能力が認められて、オックスフォード大学のマグダレン・カレッジ Magdalen College , Oxford のフェロー Fellow となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年に最初の本を出版した後に、詩人・作家として執筆活動をしながら、外交官になることを視野に入れて、ヨーロッパ中を旅した。一方でホイッグ党系のクラブにも参加をして、1705年にホイッグ党政権下で国務次官に任官、1708年には国会議員にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党系クラブを通じ知り合った[[リチャード・スティール]] Richard Steele に協力をして、雑誌『タトラー The Tatler 』にいくつかの記事を執筆した。さらに1711年にはスティールとともに日刊紙『[[スペクテイター]] The Spectator 』を発刊した。『スペクテイター』の記事の多くはコーヒーハウスで得た情報で、執筆もコーヒーハウスでされていた。日々情報を得ることは大変であったようであり、アディソンは行きつけの「[[バトンズ|バトンズ・コーヒーハウス]] Button&#039;s Coffee House 」にライオンの頭の形をした投書箱を備えて、読者からの情報をも募っていたことがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アディソンは、その後劇作家としても多くの劇作を手掛けて、特に1712年に発表された『カトー&#039;&#039;、&#039;&#039;悲劇 Cato a Tragedy 』はイギリス国内だけでなくアメリカでも大人気であった。また政治家としても活躍をして、1717年国務大臣に任命され、生涯国会議員を勤めた。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  , &#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Joseph Addison　(英語版)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<title>ジョゼフ・アディソン</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;ジョゼフ・アディソン　&#039;&#039;&#039;Joseph Addison==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1672年～1719年　イングランド南西部のウィルトシャー Wiltshire 州生まれの詩人・劇作家・政治家。オックスフォード大学のクイーンズ・カレッジThe Queen&#039;s College , Oxford で学んだのちに、古典・ネオラテン語の能力が認められて、オックスフォード大学のマグダレン・カレッジ Magdalen College , Oxford のフェロー Fellow となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1694年に最初の本を出版した後に、詩人・作家として執筆活動をしながら、外交官になることを視野に入れて、ヨーロッパ中を旅した。一方でホイッグ党系のクラブにも参加をして、1705年にホイッグ党政権下で国務次官に任官、1708年には国会議員にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホイッグ党系クラブを通じ知り合った[[リチャード・スティール]] Richard Steele に協力をして、雑誌『タトラー The Tatler 』にいくつかの記事を執筆した。さらに1711年にはスティールとともに日刊紙『[[スペクテイター]] The Spectator 』を発刊した。『スペクテイター』の記事の多くはコーヒーハウスで得た情報で、執筆もコーヒーハウスでされていた。日々情報を得ることは大変であったようであり、アディソンは行きつけの「[[バトンズ・コーヒーハウス]] Button&#039;s Coffee House 」にライオンの頭の形をした投書箱を備えて、読者からの情報をも募っていたことがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アディソンは、その後劇作家としても多くの劇作を手掛けて、特に1712年に発表された『カトー&#039;&#039;、&#039;&#039;悲劇 Cato a Tragedy 』はイギリス国内だけでなくアメリカでも大人気であった。また政治家としても活躍をして、1717年国務大臣に任命され、生涯国会議員を勤めた。　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  , &#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Joseph Addison　(英語版)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<title>＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
様々なメディアが発達した今日と違い、17～18世紀のイギリスでは限られた場所でしか情報を得ることができなかった。政治の話題は政治家同士の対話の中で、商取引の話題は商人同士の対話の中で情報を得ていた。この対話は主にコーヒーハウスの店内でなされていた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:London-gazette.png|サムネイル|288x288ピクセル|ロンドン大火の時期に発行のロンドンガゼット　Wikipedia：ロンドンガゼット　より　　　　　　　　　　]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;新聞の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
情報の伝達は、対面での会話から紙面を媒体とするものに時代とともに変化をした。手書きのビラやパンフレットから始まり、活版印刷の普及とともにチラシや小冊子が発行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸説あるが、イギリスで最初の新聞は1621年トーマス・アーチャー Thomas Archer が発行した『クーラント Courant』といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王政復古期の1659年にはヘンリー・マディマン Henry Muddiman が王政擁護の新聞を発刊し、さらに、1665年ロンドンでのペスト大流行のために宮廷が移転していたオックスフォードで、『オックスフォード・ガゼット The Oxford Gazette』（ロンドンに宮廷が戻った後は『ロンドン・ガゼット London Gazette 』に名称変更）が発刊された。これはイギリス政府による公報（官報）であったが、一般の記事も掲載されていたので、この『オックスフォード・ガゼット（ロンドン・ガゼット）』をもって近代ジャーナリズムの誕生紙とする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と社会体制が揺れ動いたイギリスでは数々の新聞が発刊されては廃刊されていった。その紙面に掲載されている情報の多くは、同時期を隆盛していくコーヒーハウスでの対話からであった。そして、新聞が読まれたのもコーヒーハウスであり、コーヒーハウスは情報の提供・享受の両方の役割を担っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;雑誌の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
新聞がジャーナリズムとしての地位を定着しつつある18世紀初頭に、有名な雑誌が数々出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダニエル・デフォー Daniel Defoe が1704年に創刊したホイッグ党系の視点の雑誌『レビュー The Review』、トーリー党系の立場から[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift が主筆した『エグザミナー The Examiner』などには政治の他に商業と貿易に関する記事が多く掲載された。政治色の強い雑誌がある一方で、社会記事・ゴシップ記事・文芸記事で人々を魅了した、[[リチャード・スティール]] Richard Steele の『[[タトラー|タトラー The Tatler]]』や、スティールと[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison の『[[スペクテイター|スペクテイター  The Spectator]]』は近代雑誌の先駆けとなった。新聞と同様に雑誌においても、その記事はコーヒーハウスでの対話から得られたものであり、また、その雑誌が読まれるのもコーヒーハウスであった。さらに読者からの記事の募集もコーヒーハウスでおこなわれ、雑誌の執筆もコーヒーハウスの店内でなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;ジャーナリズムと経済の発展&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
ジャーナリズムの発展はコーヒーハウスの隆盛と時期を同じくしている。人々が生活や娯楽の情報をコーヒーハウスで語れば、それが新聞・雑誌の記事となり、再びコーヒーハウスで広まる。当時のコーヒーハウスは情報の取得と発信の両方を備えており、コーヒーハウス自体がジャーナリストの役目をもっていた。特に商業カフェにおいては、商取引・貿易・株や相場の取引の情報をコーヒーハウスで得て、ジャーナリズムがそれを発信する。その情報を再びコーヒーハウスの客である商人や貿易商が利用をするという三者共存の三つ巴の関係にあった。この三者共存の三つ巴のなかで商取引はますます拡充して、イギリス経済は著しく発展を遂げた。この様子から、18世紀以降のイギリス経済発展の源が当時のコーヒーハウスにあったといっても過言ではないであろう。　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers,  &#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: 画像挿入&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
様々なメディアが発達した今日と違い、17～18世紀のイギリスでは限られた場所でしか情報を得ることができなかった。政治の話題は政治家同士の対話の中で、商取引の話題は商人同士の対話の中で情報を得ていた。この対話は主にコーヒーハウスの店内でなされていた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:London-gazette.png|サムネイル|288x288ピクセル|ロンドン大火の時期に発行のロンドンガゼット　Wikipedia：ロンドンガゼット　より　　　　　　　　　　]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;新聞の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
情報の伝達は、対面での会話から紙面を媒体とするものに時代とともに変化をした。手書きのビラやパンフレットから始まり、活版印刷の普及とともにチラシや小冊子が発行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸説あるが、イギリスで最初の新聞は1621年トーマス・アーチャー Thomas Archer が発行した『クーラント Courant』といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王政復古期の1659年にはヘンリー・マディマン Henry Muddiman が王政擁護の新聞を発刊し、さらに、1665年ロンドンでのペスト大流行のために宮廷が移転していたオックスフォードで、『オックスフォード・ガゼット The Oxford Gazette』（ロンドンに宮廷が戻った後は『ロンドン・ガゼット London Gazette 』に名称変更）が発刊された。これはイギリス政府による公報（官報）であったが、一般の記事も掲載されていたので、この『オックスフォード・ガゼット（ロンドン・ガゼット）』をもって近代ジャーナリズムの誕生紙とする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と社会体制が揺れ動いたイギリスでは数々の新聞が発刊されては廃刊されていった。その紙面に掲載されている情報の多くは、同時期を隆盛していくコーヒーハウスでの対話からであった。そして、新聞が読まれたのもコーヒーハウスであり、コーヒーハウスは情報の提供・享受の両方の役割を担っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;雑誌の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
新聞がジャーナリズムとしての地位を定着しつつある18世紀初頭に、有名な雑誌が数々出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダニエル・デフォー Daniel Defoe が1704年に創刊したホイッグ党系の視点の雑誌『レビュー The Review』、トーリー党系の立場から[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift が主筆した『エグザミナー The Examiner』などには政治の他に商業と貿易に関する記事が多く掲載された。政治色の強い雑誌がある一方で、社会記事・ゴシップ記事・文芸記事で人々を魅了した、[[リチャード・スティール]] Richard Steele の『[[タトラー|タトラー The Tatler]]』や、スティールと[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison の『[[スペクテイター|スペクテイター  The Spectator]]』は近代雑誌の先駆けとなった。新聞と同様に雑誌においても、その記事はコーヒーハウスでの対話から得られたものであり、また、その雑誌が読まれるのもコーヒーハウスであった。さらに読者からの記事の募集もコーヒーハウスでおこなわれ、雑誌の執筆もコーヒーハウスの店内でなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;ジャーナリズムと経済の発展&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
ジャーナリズムの発展はコーヒーハウスの隆盛と時期を同じくしている。人々が生活や娯楽の情報をコーヒーハウスで語れば、それが新聞・雑誌の記事となり、再びコーヒーハウスで広まる。当時のコーヒーハウスは情報の取得と発信の両方を備えており、コーヒーハウス自体がジャーナリストの役目をもっていた。特に商業カフェにおいては、商取引・貿易・株や相場の取引の情報をコーヒーハウスで得て、ジャーナリズムがそれを発信する。その情報を再びコーヒーハウスの客である商人や貿易商が利用をするという三者共存の三つ巴の関係にあった。この三者共存の三つ巴のなかで商取引はますます拡充して、イギリス経済は著しく発展を遂げた。この様子から、18世紀以降のイギリス経済発展の源が当時のコーヒーハウスにあったといっても過言ではないであろう。　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  『&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;』　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
様々なメディアが発達した今日と違い、17～18世紀のイギリスでは限られた場所でしか情報を得ることができなかった。政治の話題は政治家同士の対話の中で、商取引の話題は商人同士の対話の中で情報を得ていた。この対話は主にコーヒーハウスの店内でなされていた。&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:London-gazette.png|ロンドンガゼット　&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;新聞の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
情報の伝達は、対面での会話から紙面を媒体とするものに時代とともに変化をした。手書きのビラやパンフレットから始まり、活版印刷の普及とともにチラシや小冊子が発行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸説あるが、イギリスで最初の新聞は1621年トーマス・アーチャー Thomas Archer が発行した『クーラント Courant』といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王政復古期の1659年にはヘンリー・マディマン Henry Muddiman が王政擁護の新聞を発刊し、さらに、1665年ロンドンでのペスト大流行のために宮廷が移転していたオックスフォードで、『オックスフォード・ガゼット The Oxford Gazette』（ロンドンに宮廷が戻った後は『ロンドン・ガゼット London Gazette 』に名称変更）が発刊された。これはイギリス政府による公報（官報）であったが、一般の記事も掲載されていたので、この『オックスフォード・ガゼット（ロンドン・ガゼット）』をもって近代ジャーナリズムの誕生紙とする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と社会体制が揺れ動いたイギリスでは数々の新聞が発刊されては廃刊されていった。その紙面に掲載されている情報の多くは、同時期を隆盛していくコーヒーハウスでの対話からであった。そして、新聞が読まれたのもコーヒーハウスであり、コーヒーハウスは情報の提供・享受の両方の役割を担っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;雑誌の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
新聞がジャーナリズムとしての地位を定着しつつある18世紀初頭に、有名な雑誌が数々出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダニエル・デフォー Daniel Defoe が1704年に創刊したホイッグ党系の視点の雑誌『レビュー The Review』、トーリー党系の立場から[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift が主筆した『エグザミナー The Examiner』などには政治の他に商業と貿易に関する記事が多く掲載された。政治色の強い雑誌がある一方で、社会記事・ゴシップ記事・文芸記事で人々を魅了した、[[リチャード・スティール]] Richard Steele の『[[タトラー|タトラー The Tatler]]』や、スティールと[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison の『[[スペクテイター|スペクテイター  The Spectator]]』は近代雑誌の先駆けとなった。新聞と同様に雑誌においても、その記事はコーヒーハウスでの対話から得られたものであり、また、その雑誌が読まれるのもコーヒーハウスであった。さらに読者からの記事の募集もコーヒーハウスでおこなわれ、雑誌の執筆もコーヒーハウスの店内でなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;ジャーナリズムと経済の発展&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
ジャーナリズムの発展はコーヒーハウスの隆盛と時期を同じくしている。人々が生活や娯楽の情報をコーヒーハウスで語れば、それが新聞・雑誌の記事となり、再びコーヒーハウスで広まる。当時のコーヒーハウスは情報の取得と発信の両方を備えており、コーヒーハウス自体がジャーナリストの役目をもっていた。特に商業カフェにおいては、商取引・貿易・株や相場の取引の情報をコーヒーハウスで得て、ジャーナリズムがそれを発信する。その情報を再びコーヒーハウスの客である商人や貿易商が利用をするという三者共存の三つ巴の関係にあった。この三者共存の三つ巴のなかで商取引はますます拡充して、イギリス経済は著しく発展を遂げた。この様子から、18世紀以降のイギリス経済発展の源が当時のコーヒーハウスにあったといっても過言ではないであろう。　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  『&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;』　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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		<title>＊コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生</title>
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&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;コラム：コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生&#039;&#039;&#039;==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
様々なメディアが発達した今日と違い、17～18世紀のイギリスでは限られた場所でしか情報を得ることができなかった。政治の話題は政治家同士の対話の中で、商取引の話題は商人同士の対話の中で情報を得ていた。この対話は主にコーヒーハウスの店内でなされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;新聞の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
情報の伝達は、対面での会話から紙面を媒体とするものに時代とともに変化をした。手書きのビラやパンフレットから始まり、活版印刷の普及とともにチラシや小冊子が発行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸説あるが、イギリスで最初の新聞は1621年トーマス・アーチャー Thomas Archer が発行した『クーラント Courant』といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王政復古期の1659年にはヘンリー・マディマン Henry Muddiman が王政擁護の新聞を発刊し、さらに、1665年ロンドンでのペスト大流行のために宮廷が移転していたオックスフォードで、『オックスフォード・ガゼット The Oxford Gazette』（ロンドンに宮廷が戻った後は『ロンドン・ガゼット London Gazette 』に名称変更）が発刊された。これはイギリス政府による公報（官報）であったが、一般の記事も掲載されていたので、この『オックスフォード・ガゼット（ロンドン・ガゼット）』をもって近代ジャーナリズムの誕生紙とする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と社会体制が揺れ動いたイギリスでは数々の新聞が発刊されては廃刊されていった。その紙面に掲載されている情報の多くは、同時期を隆盛していくコーヒーハウスでの対話からであった。そして、新聞が読まれたのもコーヒーハウスであり、コーヒーハウスは情報の提供・享受の両方の役割を担っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;雑誌の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
新聞がジャーナリズムとしての地位を定着しつつある18世紀初頭に、有名な雑誌が数々出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダニエル・デフォー Daniel Defoe が1704年に創刊したホイッグ党系の視点の雑誌『レビュー The Review』、トーリー党系の立場から[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift が主筆した『エグザミナー The Examiner』などには政治の他に商業と貿易に関する記事が多く掲載された。政治色の強い雑誌がある一方で、社会記事・ゴシップ記事・文芸記事で人々を魅了した、[[リチャード・スティール]] Richard Steele の『[[タトラー|タトラー The Tatler]]』や、スティールと[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison の『[[スペクテイター|スペクテイター  The Spectator]]』は近代雑誌の先駆けとなった。新聞と同様に雑誌においても、その記事はコーヒーハウスでの対話から得られたものであり、また、その雑誌が読まれるのもコーヒーハウスであった。さらに読者からの記事の募集もコーヒーハウスでおこなわれ、雑誌の執筆もコーヒーハウスの店内でなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;ジャーナリズムと経済の発展&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
ジャーナリズムの発展はコーヒーハウスの隆盛と時期を同じくしている。人々が生活や娯楽の情報をコーヒーハウスで語れば、それが新聞・雑誌の記事となり、再びコーヒーハウスで広まる。当時のコーヒーハウスは情報の取得と発信の両方を備えており、コーヒーハウス自体がジャーナリストの役目をもっていた。特に商業カフェにおいては、商取引・貿易・株や相場の取引の情報をコーヒーハウスで得て、ジャーナリズムがそれを発信する。その情報を再びコーヒーハウスの客である商人や貿易商が利用をするという三者共存の三つ巴の関係にあった。この三者共存の三つ巴のなかで商取引はますます拡充して、イギリス経済は著しく発展を遂げた。この様子から、18世紀以降のイギリス経済発展の源が当時のコーヒーハウスにあったといっても過言ではないであろう。　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  『&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;』　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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&lt;br /&gt;
様々なメディアが発達した今日と違い、17～18世紀のイギリスでは限られた場所でしか情報を得ることができなかった。政治の話題は政治家同士の対話の中で、商取引の話題は商人同士の対話の中で情報を得ていた。この対話は主にコーヒーハウスの店内でなされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;新聞の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
情報の伝達は、対面での会話から紙面を媒体とするものに時代とともに変化をした。手書きのビラやパンフレットから始まり、活版印刷の普及とともにチラシや小冊子が発行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸説あるが、イギリスで最初の新聞は1621年トーマス・アーチャー Thomas Archer が発行した『クーラント Courant』といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王政復古期の1659年にはヘンリー・マディマン Henry Muddiman が王政擁護の新聞を発刊し、さらに、1665年ロンドンでのペスト大流行のために宮廷が移転していたオックスフォードで、『オックスフォード・ガゼット The Oxford Gazette』（ロンドンに宮廷が戻った後は『ロンドン・ガゼット London Gazette 』に名称変更）が発刊された。これはイギリス政府による公報（官報）であったが、一般の記事も掲載されていたので、この『オックスフォード・ガゼット（ロンドン・ガゼット）』をもって近代ジャーナリズムの誕生紙とする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と社会体制が揺れ動いたイギリスでは数々の新聞が発刊されては廃刊されていった。その紙面に掲載されている情報の多くは、同時期を隆盛していくコーヒーハウスでの対話からであった。そして、新聞が読まれたのもコーヒーハウスであり、コーヒーハウスは情報の提供・享受の両方の役割を担っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;雑誌の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
新聞がジャーナリズムとしての地位を定着しつつある18世紀初頭に、有名な雑誌が数々出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダニエル・デフォー Daniel Defoe が1704年に創刊したホイッグ党系の視点の雑誌『レビュー The Review』、トーリー党系の立場から[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift が主筆した『エグザミナー The Examiner』などには政治の他に商業と貿易に関する記事が多く掲載された。政治色の強い雑誌がある一方で、社会記事・ゴシップ記事・文芸記事で人々を魅了した、[[リチャード・スティール]] Richard Steele の『[[タトラー|タトラー The Tatler]]』や、スティールと[[ジョセフ・アディソン|ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison の『[[スペクテイター|スペクテイター  The Spectator]]』は近代雑誌の先駆けとなった。新聞と同様に雑誌においても、その記事はコーヒーハウスでの対話から得られたものであり、また、その雑誌が読まれるのもコーヒーハウスであった。さらに読者からの記事の募集もコーヒーハウスでおこなわれ、雑誌の執筆もコーヒーハウスの店内でなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;ジャーナリズムと経済の発展&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
ジャーナリズムの発展はコーヒーハウスの隆盛と時期を同じくしている。人々が生活や娯楽の情報をコーヒーハウスで語れば、それが新聞・雑誌の記事となり、再びコーヒーハウスで広まる。当時のコーヒーハウスは情報の取得と発信の両方を備えており、コーヒーハウス自体がジャーナリストの役目をもっていた。特に商業カフェにおいては、商取引・貿易・株や相場の取引の情報をコーヒーハウスで得て、ジャーナリズムがそれを発信する。その情報を再びコーヒーハウスの客である商人や貿易商が利用をするという三者共存の三つ巴の関係にあった。この三者共存の三つ巴のなかで商取引はますます拡充して、イギリス経済は著しく発展を遂げた。この様子から、18世紀以降のイギリス経済発展の源が当時のコーヒーハウスにあったといっても過言ではないであろう。　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  『&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;』　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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&lt;br /&gt;
様々なメディアが発達した今日と違い、17～18世紀のイギリスでは限られた場所でしか情報を得ることができなかった。政治の話題は政治家同士の対話の中で、商取引の話題は商人同士の対話の中で情報を得ていた。この対話は主にコーヒーハウスの店内でなされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;新聞の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
情報の伝達は、対面での会話から紙面を媒体とするものに時代とともに変化をした。手書きのビラやパンフレットから始まり、活版印刷の普及とともにチラシや小冊子が発行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸説あるが、イギリスで最初の新聞は1621年トーマス・アーチャー Thomas Archer が発行した『クーラント Courant』といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王政復古期の1659年にはヘンリー・マディマン Henry Muddiman が王政擁護の新聞を発刊し、さらに、1665年ロンドンでのペスト大流行のために宮廷が移転していたオックスフォードで、『オックスフォード・ガゼット The Oxford Gazette』（ロンドンに宮廷が戻った後は『ロンドン・ガゼット London Gazette 』に名称変更）が発刊された。これはイギリス政府による公報（官報）であったが、一般の記事も掲載されていたので、この『オックスフォード・ガゼット（ロンドン・ガゼット）』をもって近代ジャーナリズムの誕生紙とする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と社会体制が揺れ動いたイギリスでは数々の新聞が発刊されては廃刊されていった。その紙面に掲載されている情報の多くは、同時期を隆盛していくコーヒーハウスでの対話からであった。そして、新聞が読まれたのもコーヒーハウスであり、コーヒーハウスは情報の提供・享受の両方の役割を担っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;雑誌の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
新聞がジャーナリズムとしての地位を定着しつつある18世紀初頭に、有名な雑誌が数々出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダニエル・デフォー Daniel Defoe が1704年に創刊したホイッグ党系の視点の雑誌『レビュー The Review』、トーリー党系の立場から[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift が主筆した『エグザミナー The Examiner』などには政治の他に商業と貿易に関する記事が多く掲載された。政治色の強い雑誌がある一方で、社会記事・ゴシップ記事・文芸記事で人々を魅了した、[[リチャード・スティール]] Richard Steele の『[[タトラー|タトラー The Tatler]]』や、スティールと[[ジョセフ・アディソン]] Joseph Addison の『[[スペクテイター|スペクテイター  The Spectator]]』は近代雑誌の先駆けとなった。新聞と同様に雑誌においても、その記事はコーヒーハウスでの対話から得られたものであり、また、その雑誌が読まれるのもコーヒーハウスであった。さらに読者からの記事の募集もコーヒーハウスでおこなわれ、雑誌の執筆もコーヒーハウスの店内でなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;ジャーナリズムと経済の発展&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
ジャーナリズムの発展はコーヒーハウスの隆盛と時期を同じくしている。人々が生活や娯楽の情報をコーヒーハウスで語れば、それが新聞・雑誌の記事となり、再びコーヒーハウスで広まる。当時のコーヒーハウスは情報の取得と発信の両方を備えており、コーヒーハウス自体がジャーナリストの役目をもっていた。特に商業カフェにおいては、商取引・貿易・株や相場の取引の情報をコーヒーハウスで得て、ジャーナリズムがそれを発信する。その情報を再びコーヒーハウスの客である商人や貿易商が利用をするという三者共存の三つ巴の関係にあった。この三者共存の三つ巴のなかで商取引はますます拡充して、イギリス経済は著しく発展を遂げた。この様子から、18世紀以降のイギリス経済発展の源が当時のコーヒーハウスにあったといっても過言ではないであろう。　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  『&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;』　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生}}&lt;/div&gt;</summary>
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様々なメディアが発達した今日と違い、17～18世紀のイギリスでは限られた場所でしか情報を得ることができなかった。政治の話題は政治家同士の対話の中で、商取引の話題は商人同士の対話の中で情報を得ていた。この対話は主にコーヒーハウスの店内でなされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;新聞の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
情報の伝達は、対面での会話から紙面を媒体とするものに時代とともに変化をした。手書きのビラやパンフレットから始まり、活版印刷の普及とともにチラシや小冊子が発行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸説あるが、イギリスで最初の新聞は1621年トーマス・アーチャー Thomas Archer が発行した『クーラント Courant』といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王政復古期の1659年にはヘンリー・マディマン Henry Muddiman が王政擁護の新聞を発刊し、さらに、1665年ロンドンでのペスト大流行のために宮廷が移転していたオックスフォードで、『オックスフォード・ガゼット The Oxford Gazette』（ロンドンに宮廷が戻った後は『ロンドン・ガゼット London Gazette 』に名称変更）が発刊された。これはイギリス政府による公報（官報）であったが、一般の記事も掲載されていたので、この『オックスフォード・ガゼット（ロンドン・ガゼット）』をもって近代ジャーナリズムの誕生紙とする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と社会体制が揺れ動いたイギリスでは数々の新聞が発刊されては廃刊されていった。その紙面に掲載されている情報の多くは、同時期を隆盛していくコーヒーハウスでの対話からであった。そして、新聞が読まれ&amp;lt;s&amp;gt;る&amp;lt;/s&amp;gt;たのもコーヒーハウスであり、コーヒーハウスは情報の提供・享受の両方の役割を担っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;雑誌の誕生&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
新聞がジャーナリズムとしての地位を定着しつつある18世紀初頭に、有名な雑誌が数々出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダニエル・デフォー Daniel Defoe が1704年に創刊したホイッグ党系の視点の雑誌『レビュー The Review』、トーリー党系の立場からジョナサン・スウィフト Jonathan Swift が主筆した『エグザミナー The Examiner』などには政治の他に商業と貿易に関する記事が多く掲載された。政治色の強い雑誌がある一方で、社会記事・ゴシップ記事・文芸記事で人々を魅了した、[[リチャード・スティール]] Richard Steele の『[[タトラー|タトラー The Tatler]]』や、スティールとジョセフ・アディソン Joseph Addison の『[[スペクテイター|スペクテイター  The Spectator]]』は近代雑誌の先駆けとなった。新聞と同様に雑誌においても、その記事はコーヒーハウスでの対話から得られたものであり、また、その雑誌が読まれるのもコーヒーハウスであった。さらに読者からの記事の募集もコーヒーハウスでおこなわれ、雑誌の執筆もコーヒーハウスの店内でなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== &#039;&#039;&#039;ジャーナリズムと経済の発展&#039;&#039;&#039; ====&lt;br /&gt;
ジャーナリズムの発展はコーヒーハウスの隆盛と時期を同じくしている。人々が生活や娯楽の情報をコーヒーハウスで語れば、それが新聞・雑誌の記事となり、再びコーヒーハウスで広まる。当時のコーヒーハウスは情報の取得と発信の両方を備えており、コーヒーハウス自体がジャーナリストの役目をもっていた。特に商業カフェにおいては、商取引・貿易・株や相場の取引の情報をコーヒーハウスで得て、ジャーナリズムがそれを発信する。その情報を再びコーヒーハウスの客である商人や貿易商が利用をするという三者共存の三つ巴の関係にあった。この三者共存の三つ巴のなかで商取引はますます拡充して、イギリス経済は著しく発展を遂げた。この様子から、18世紀以降のイギリス経済発展の源が当時のコーヒーハウスにあったといっても過言ではないであろう。　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== &#039;&#039;&#039;参照文献：&#039;&#039;&#039; =====&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  『&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;』　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年表}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://history.jcs-coffee.org/index.php?title=%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC&amp;diff=50179</id>
		<title>タトラー</title>
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		<updated>2026-08-02T16:38:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;Komura: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;タトラー　&#039;&#039;&#039;The Tatler==&lt;br /&gt;
[[ファイル:The Tatler.jpg|サムネイル|274x274ピクセル|タトラー　Wikipedia：The Tatler （英語版）より]]&lt;br /&gt;
1709年から2年間に[[リチャード・スティール]] Richard Steele によって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週３回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人物が、コーヒーハウスを訪れて情報を収集し執筆する」という手法がとられ、特に、当時人気の４軒のコーヒーハウスにそれぞれ記者を置くふりをして、「文学は「[[ウイルズ・コーヒーハウス|ウイルズ]] Will&#039;s Coffee House 」、娯楽は「ホワイツ White&#039;s Chocolate House 」、学術は「[[グリシアン・コーヒーハウス|グリシアン]] Grecian Coffee House 」、内外のニュースは「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス|セント・ジェイムズ]] St. James&#039;s Coffee House 」から得た情報である」という構成にした。実際には、この雑誌の記事の多くはスティールが「セント・ジェイムズ」で執筆をしたが、一部は[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift  、[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison が担当し、この場合もビッカースタッフが執筆したように装っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『タトラー』第１号の記事は、明治32年に夏目漱石の訳により『ホトトギス』で紹介された。1711年にはスティールとアディソンは『タトラー』を廃刊し、『[[スペクテイター]] The Spectator 』を発刊した。　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　The Tatler (1709 journal) 　(英語)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
	</entry>
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&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;タトラー　&#039;&#039;&#039;The Tatler==&lt;br /&gt;
[[ファイル:The Tatler.jpg|サムネイル|274x274ピクセル|タトラー　Wikipedia：The Tatler （英語版）より]]&lt;br /&gt;
1709年から2年間に[[リチャード・スティール]] Richard Steele によって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週３回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人物が、コーヒーハウスを訪れて情報を収集し執筆する」という手法がとられ、特に、当時人気の４軒のコーヒーハウスにそれぞれ記者を置くふりをして、「文学は「[[ウイルズ・コーヒーハウス|ウイルズ]] Will&#039;s Coffee House 」、娯楽は「ホワイツ White&#039;s Chocolate House 」、学術は「[[グリシアン・コーヒーハウス|グリシアン]] Grecian Coffee House 」、内外のニュースは「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス|セント・ジェイムズ]] St. James&#039;s Coffee House 」から得た情報である」という構成にした。実際には、この雑誌の記事の多くはスティールが「セント・ジェイムズ」で執筆をしたが、一部は[[ジョナサン・スウィフト]] Jonathan Swift  、[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison が担当し、この場合もビッカースタッフが執筆したように装っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『タトラー』第１号の記事は、明治32年に夏目漱石の訳により『ホトトギス』で紹介された。1711年にはスティールとアディソンは『タトラー』を廃刊し、『[[スペクテイター]]』を発刊した。　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　The Tatler (1709 journal) 　(英語)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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[[ファイル:The Tatler.jpg|サムネイル|274x274ピクセル|タトラー　Wikipedia：The Tatler （英語版）より]]&lt;br /&gt;
1709年から2年間に[[リチャード・スティール]] Richard Steele によって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週３回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人物が、コーヒーハウスを訪れて情報を収集し執筆する」という手法がとられ、特に、当時人気の４軒のコーヒーハウスにそれぞれ記者を置くふりをして、「文学は「ウイルズ Will&#039;s Coffee House 」、娯楽は「ホワイツ White&#039;s Chocolate House 」、学術は「グリシアン Grecian Coffee House 」、内外のニュースは「セント・ジェイムズ St. James&#039;s Coffee House 」から得た情報である」という構成にした。実際には、この雑誌の記事の多くはスティールが「セント・ジェイムズ」で執筆をしたが、一部はジョナサン・スウィフト Jonathan Swift  、[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison が担当し、この場合もビッカースタッフが執筆したように装っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『タトラー』第１号の記事は、明治32年に夏目漱石の訳により『ホトトギス』で紹介された。1711年にはスティールとアディソンは『タトラー』を廃刊し、『[[スペクテイター]]』を発刊した。　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　The Tatler (1709 journal) 　(英語)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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[[ファイル:The Tatler.jpg|サムネイル|274x274ピクセル|タトラー　Wikipedia：The Tatler （英語版）より]]&lt;br /&gt;
1709年から2年間に[[リチャード・スティール]] Richard Steele によって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週３回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。&lt;br /&gt;
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「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人物が、コーヒーハウスを訪れて情報を収集し執筆する」という手法がとられ、特に、当時人気の４軒のコーヒーハウスにそれぞれ記者を置くふりをして、「文学は「ウイルズ Will&#039;s Coffee House 」、娯楽は「ホワイツ White&#039;s Chocolate House 」、学術は「グリシアン Grecian Coffee House 」、内外のニュースは「セント・ジェイムズ St. James&#039;s Coffee House 」から得た情報である」という構成にした。実際には、この雑誌の記事の多くはスティールが「セント・ジェイムズ」で執筆をしたが、一部はジョナサン・スウィフト 、[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison が担当し、この場合もビッカースタッフが執筆したように装っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『タトラー』第１号の記事は、明治32年に夏目漱石の訳により『ホトトギス』で紹介された。1711年にはスティールとアディソンは『タトラー』を廃刊し、『[[スペクテイター]]』を発刊した。　（小村嘉人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &#039;&#039;&amp;quot;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&amp;quot;&#039;&#039;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　The Tatler (1709 journal) 　(英語)&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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&lt;div&gt;==&#039;&#039;&#039;リチャード・スティール：　&#039;&#039;&#039;Richard Steele==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1671年頃～1729年　ダブリン Dublin （アイルランド Ireland ）生まれの作家・劇作家・政治家。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Sir Richard Steele by Jonathan Richardson.jpg|サムネイル|247x247ピクセル|リチャード・スティール　Wikipedia：Richard Steele （英語版）より]]&lt;br /&gt;
[[ジョゼフ・アディソン]] Joseph Addison とともに『[[タトラー]] The Tatler』、『[[スペクテイター]] The Spectator 』を創刊した、近代ジャーナリスムの先駆者。オックスフォードのマートン・カレッジ Merton College, Oxford で学んだ後に、軍隊（近衛騎兵隊）に入隊。このころから、小説やコメディーを執筆、またホイッグ系クラブの会員でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1705年除隊後は、ジャーナリストとして多くのコーヒーハウスに足繁く通った。内外のニュースや政治情報を「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]] St. James&#039;s Coffee House 」から、娯楽に関しては「ホワイツ White&#039;s Chocolate House 」、文学は「[[ウイルズ・コーヒーハウス]] Will&#039;s Coffee House 」、学術は「[[グリシアン・コーヒーハウス]] Grecian Coffee House 」などで情報を仕入れた。そして1709年に雑誌『タトラー』を発刊。当時のコーヒーハウスの状況をつぶさに描いている。『タトラー』は、1711年まで週３回の発行で、その記事の多くを「セント・ジェイムズ」で執筆した。1712年にはアディソンとともに日刊誌『スペクテイター』、1713年には新聞『ガーディアン The Gurdian』（現在の日刊紙『ガーディアン』ではない）を発刊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以後劇作家としての活動をする一方、1713年から10年間はホイッグ党の議員として政治にかかわった。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小村嘉人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;参照文献&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・William H. Ukers  &amp;quot;&#039;&#039;ALL ABOUT COFFEE  Second Edition&#039;&#039;&amp;quot;　1935年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小林章夫　『コーヒー・ハウス』　駸々堂　1984年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・Wikipedia　Richard Steele 　(英語)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　{{年表}}&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:人物]]&lt;br /&gt;
[[index.php?title=カテゴリ:書籍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Komura</name></author>
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