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{| class="wikitable" !15世紀以前 !<コーヒー全般> <エピソード> |- |約1400万年前 |[[コフィア属]](コーヒーノキ)の祖先がアフリカ大陸(中央アフリカ)に生まれる。 |- |1000万〜500万年前 |現在の[[コフィア属]]([[カネフォラ種]]、[[ユーゲニオイデス種]]、[[リベリカ種]]等)の祖先がアフリカ大陸の各地域の気候に適応して分岐。 |- |数100万〜数10万年前 |ビクトリア湖北西部に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配して自家受粉可能な四倍体の[[アラビカ種]]の祖先が生まれる。 [[*アラビカ種の誕生と旅立ち]] |- |100万〜1万年前 |現在のアラビカ種の直接の祖先が、[[エチオピア高原]]に生き残る。 |- |紀元前3世紀 |エチオピアで山羊飼いカルディがコーヒーを発見?([[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]) |- |9〜11世紀 |ペルシャの医師・哲学者[[アル・ラーズィー(ラーゼス)]]と[[イブン・スィーナー(アヴィセンナ)]]が、薬としてコーヒー(ブン、ブンカ、ブンクム)について記述?[コラム]コーヒーを薬として使用か? |- |13世紀末 |イスラムの修道僧シェイク・オマルが[[モカ]]の山中でコーヒー発見(伝説)。[コラム]シェイク・オマルのコーヒー発見伝説。 |- !15世紀 !<コーヒー全般> <カフェ> <栽培・生産> <技術・器具> <エピソード> |- |1454年頃 |アデンの律法学者シェイク・ジェマレディンがコーヒーの効用を知り、イスラムの修道僧の間に広める。[コラム①]最初はどんなコーヒーを飲んだのか?[コラム②]コーヒーとワイン、カート |- |15世紀半ば |この頃[[モカ]]の東、イエメン の山中でコーヒーの栽培始まる?[コラム]いつコーヒーの栽培が始まったのか? |- |1470年頃 |シエイク・ジェマレディン死去。 |- |15世紀末 |コーヒーの飲用がメッカ、メディナなどアラビア半島南部に広まる。ほぼ同時期にカフェも現れる[コラム]スーフィーによるイスラム世界へのコーヒーの伝播 |- !16世紀 !<コーヒー全般> <カフェ> <栽培・生産> <技術・器具> <エピソード> |- |1510年頃 |コーヒーがカイロに広まる。 |- |1511年 |メッカで最初のコーヒー、カフェ弾圧。[コラム]イスラム世界でのコーヒー論争と弾圧。 |- |1517年 |オスマン・トルコのセリム一世がエジプト征服(マムルク朝)。コーヒーがカイロからコンスタンチノープルに伝わる。 |- |1530年頃 |ダマスカスにコーヒー伝わる。コーヒーハウス「バラ」「救済の門」ができる。 |- |1532年頃 |アレッポにコーヒー伝わる。 |- |1534年 |カイロでコーヒー反対運動起こる。 |- |1554年 |コンスタンチノープルにコーヒーハウス(トルコではカフェ・カネ)ができる。[コラム]コンスタンティノープルのカフェの姿。 |- |1570年頃 |セリム二世(オスマン・トルコ皇帝、在位1566〜74)によるコーヒー弾圧。 |- |1580年頃 |ムラト三世(オスマン・トルコ皇帝、在位1574〜92)によるコーヒー弾圧。 |- |1582(3)年 |ドイツの医師・植物学者[[ラウヴォルフ]]が著作(『東方諸国への旅』)の中でコーヒーについて言及。ヨーロッパで初めて印刷物中にコーヒーが登場。[コラム]コーヒーのヨーロッパへの紹介者たち。 |- |1585年 |ヴェネチアのトルコ大使、ジャンフランチェスコ・モロシーニ、ヴェネチア評議会に[[トルコ式コーヒー|トルコでのコーヒー]]飲用について報告。 |- |1587年 |[[アブダル・カディール]]『コーヒーの合法性の擁護』を著述。現存する最古のコーヒー書。[コラム]アブダル・カディールの写本の翻訳と概要。 |- |1588年頃 |[[シャー・アッバス]]の治世(1588〜1629年)には、ペルシャにカフェが存在したとの記録。 |- |1592年 |[[プロスペロ・アルピーニ]]、[[『エジプトの植物』]]出版。コーヒーの木のデッサンと記述。[コラム]イタリアのコーヒーへの関心の高まり。 |- |1595年 |[[バルダヌス]]『リンスホーテンの旅』の注でコーヒーに関して記述。イギリスで初めてのコーヒーに関する記述。(英語版は1595年) |- !17世紀 !<コーヒー全般> <カフェ> <栽培・生産> <技術・器具> <エピソード> |- |1600年頃 |インドのイスラムの巡礼者[[ババ・ブダン]]がモカからマイソールにコーヒーを持ち帰る(伝説?1640年、1695年頃という説も)。 |- |1600年頃 |ローマ教皇クレメンス八世、コーヒーに洗礼を施す(?伝説)。[コラム]クレメンス八世のコーヒー洗礼は本当か? |- |1602年 |ジョン・スミス、『旅と冒険』でコーヒーについて記述。[コラム]イギリス の知識人のコーヒーへの関心の高まりと著作。 |- |1607年 |ジョン・スミス、バージニア植民地にコーヒーを持ち込む。 |- |1609年 |ウィリアム・ビダルフ、『ある英国人たちのアジア、アフリカその他の地への旅行記』出版。コーヒーについて詳細な記述。 |- |1610年 |(オランダ、ヨーロッパに初めて中国、日本から茶を輸送)。[コラム]陶磁器(コーヒーカップ)のヨーロッパへの輸出。 |- |1614年 |[[ピエトロ・デッラ・ヴァッレ]]がコーヒーをヴェネツィアに持ち帰る。? |- |1616年 |オランダが[[モカ]]から初めてヨーロッパにコーヒーを輸送。1640年に商業的に輸入が始まる。 |- |1620年 |ピルグリム・ファーザーズ、アメリカ入植。コーヒー器具を持ち込む? |- |1623年 |フランシス・ベーコン、『死生論』でコーヒーについて記述。 |- |1632年 |ロバート・バートン、『メランコリーの解剖学』でコーヒーについて記述。 |- |1644年 |[[ピエール・ド・ラ・ローク|ド・ラ・ローク]]、トルコからマルセイユにコーヒー器具を持ち帰る。[[*コラム:フランスのコーヒーへの関心の高まり。]] |- |1645年 |ヴェネチアに最初のカフェ開店(コーヒーが一般化)? |- |同 |トルコの使節団がウィーンにコーヒーを紹介。 |- |1649年 |(清教徒革命) |- |1650年 |オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウス(「[[ジェイコブズ]]」)開業。 [[*コラム:ヨーロッパ諸国のカフェの始まり]] |- |1652年 |アルメニア人[[パスカ・ロゼ]]、ロンドン初のコーヒーハウス開業。以後、続々とコーヒーハウスが誕生し、17世紀末には3000軒を数える。[[*コラム:ロゼのコーヒーハウス開業の経緯。]] |- |1656年頃 |オスマン・トルコの大宰相[[キョプリュリュ]]によるカフェ弾圧。 |- |1657年以前 |ジェイムズ・ファー、「レインボウ」を開業。2番目のコーヒー・ハウス。 |- |1657年 |スウエーデンの旅行家[[クレス・ロラン]]、トルコを使節として訪問。コーヒーの飲み方を報告。 |- |1657年 |ロンドンの「[[ギャラウェイズ]]」で茶の販売広告¸[[*コラム:コーヒーハウスと茶、チョコレート]] [[*コラム:コーヒーハウスと広告の誕生]] |- |1657年 |[[ジャン・ド・テヴノー]]、パリにコーヒーを紹介。 |- |1658年 |オランダ、モカから[[セイロン島(スリランカ)]]へコーヒーを移植。 |- |1660年頃 |「[[マイルズ・コーヒーハウス]]」(ロンドン)に[[ロータ・クラブ]]設立。[コラム]コーヒーハウスとクラブ。 |- |1660年頃 |[[マルセイユ]]でコーヒーが売られる(薬屋)。 |- |1660年頃 |「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」開業。(〜1749年)[コラム]著名なコーヒー・ハウスとコーヒーハウスに通う有名人。 |- |1664年 |ハーグにオランダ初のカフェ開業。 |- |1665年 |(ロンドンでペスト大流行。) |- |1665年 |「グリシアン・コーヒーハウス」(ロンドン)開業。 |- |1666年 |ロンドン大火。レンガ作りで再建。続々とコーヒーハウス開業。[コラム][[代用貨幣の発行]] |- |1668年 |アメリカ最初のコーヒーに関する記述。 |- |1669年 |トルコの大使[[ソリマン・アガ]]がコーヒーを携えてパリに赴任。上流階級の間でコーヒーがブームになる。[[*コラム:セヴィニェ夫人とフランス宮廷人のコーヒー観。]] |- |1669年 |ロンドンにロイヤル・エクスチェンジ(商品取引市場)開設。近辺に多数のコーヒーハウス開業。[コラム]コーヒーハウスと商取引 |- |1669年 |[[マルセイユ]]でコーヒーに関する健康論争が起きる。 |- |1670年 |[[ノワンエル侯爵]]、フランス大使としてトルコ訪問¸(1670〜79年)。[[アブダル・カディールの書]]、[[ビチヴィリの写本]]を持ち帰り、ルイ一四世に献上。 |- |1671年 |ローマのオリエント語教師[[ファウスト・ナイロニ]]が著作の中で[[「山羊飼いコーヒー発見伝説」]]を紹介。[[*コラム:「山羊飼いコーヒー発見伝説」の真実。]] |- |1671年 |[[マルセイユ]]にフランス初めてのカフェ開業。 |- |1671年 |[[シルヴェストル・デュフール]]『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関して』刊行。 |- |1671年 |[[ヘンリー・ブラント]](コーヒー・ハウスの父、と呼ばれる)、『レバントへの旅』刊行。 |- |1672年 |パリに最初のカフェ。アルメニア人[[パスカル]]が露店のカフェを開業。[[*コラム:「カフェ・プロコプ」以前のカフェ。]] [[*コラム:コーヒーの呼び売りカンディオ]] |- |1674年 |ロンドンで女性たちによるコーヒー禁止の請願。[[*コラム:女性のコーヒーハウスへの反感]] |- |1674〜88年 |ロベール・ボナール(Robert Bonnart)の版画シリーズ(貴族Homme de quarité¸)にコーヒーを飲む貴族の数点のポートレイト。 |- |1675年 |[[チャールズ二世]]、コーヒー・ハウス禁止令。 |- |1676年 |ルイ一四世によりカフェのギルド(カフティエ=リモナディエ=ディスティラトゥールのギルド認可。[コラム]ギルドの排他特権とカフェの商品アイテム。 |- |1679年 |ハンブルクにカフェが開業。 |- |1679年 |マルセイユでコーヒーの薬効について論争。 |- |1683年 |[[コルシツキー]]がウィーン初のカフェ「[[青い瓶(ブラウエン・フラッツェ)]]」開業(作り話?)。[コラム]コルシツキーの「青い瓶」は作り話!? |- |1683年 |ヴェネツィアのサン・マルコ広場にカフェがあったとの記録。 |- |1684年頃 |この頃ロンドンに3000軒のコーヒーハウスとの記述。 |- |1684年 |[[シルヴェストル・デュフール]][[『コーヒー、茶、チョコレートの飲用に関する新たな興味をそそる論説』]]刊行。 |- |1686年 |パリに「プロコプ」開業。フランスのカフェの原型となる。[コラム]「プロコプ」を巡って。 |- |1688年 |ロンドンに「[[ロイズ]]」開業。→ロンバード・ストリートへ移転(1691年)→クラブを法人化してポープス・ヘッド・アレイに移転(「ニューロイズ」1827年)→株式市場の中に1774年。[コラム][[コラム:ロイズを巡って|「ロイズ」を巡って]]。 |- |1688年 |[[ヨハネス・ディオダド]]、ウィーンにカフェ開業。ウィーンの最初のカフェか。 |- |1689年 |(名誉革命) |- |1689年 |ボストンにニュー・イングランド初のコーヒーハウス(「ロンドンコーヒーハウス」)開業。 |- |1689年 |(イギリス東インド会社が初めて中国から直接イギリスに茶を輸送) |- |1690年 |ストックホルムに2軒のカフェ。 |- |1694年 |ライプチッヒに初のカフェ開業。 |- |1696年 |ニューヨークに初のコーヒーハウス開業。 |- |1698年頃 |「ココアトゥリー(コーヒーハウス)」(ロンドン)開業。 |- |1699年 |オランダが[[ジャワ]]にインドのマラバールからコーヒーの苗木を運び、移植に成功。[コラム]イエメンからのコーヒー栽培の伝播¸と経路。 |- |1699年 |アントワーヌ・ガラン、『コーヒーの起源と伝播』を著述。アブダル・カディールの書の抄訳。[コラム]アブダル・カディール写本のガランの抄訳について |- !18世紀 !<コーヒー全般> <カフェ> <栽培・生産> <技術・器具> <エピソード> |- |1700年頃 |ロンドンに「[[トムズ]]」開業。(〜1814年) |- |1702年頃 |ロンドンに「グリシアン」開業。ロイヤル・ソサイェティー(クラブ)結成。 |- |1705年 |「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」開業(ロンドン)。 |- |1705年頃 |[[ジャワ]]からアムステルダムにコーヒーの苗木を移送。 |- |1709年 |リチャード・スティール『タトラー』創刊。[コラム]コーヒーハウスと近代ジャーナリズムの誕生。 |- |1711年 |[[ジャワ]]からオランダにコーヒーを輸送。 |- |1711年 |スティール、ジョゼフ・アディソンとともに『スペクテイター』創刊 |- |1711年 |「バトンズ・コーヒーハウス」(ロンドン)開業。 |- |1714年 |アムステルダム市からルイ一四世にコーヒーの苗木を献呈。[[パリ植物園|パリ王立植物園]]に移植。 |- |1714年 |(ジョージ一世がイギリス国王に。ハノーヴァー朝の成立) |- |1714年 |プラハ初めてのカフェ開業。 |- |1715年 |(ルイ一四世崩御。ルイ一五世即位。オルレアン公が摂政に) |- |1715年 |「カフェ・ド・ラ・パレ・ロワイヤル」が、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」に改名。豪華カフェに生まれ変わる(パリ)。[コラム①]ジュール・ミシュレ『フランス史・レジャンス』から。[コラム②]カフェとゲーム(チェス) |- |1715年 |ジャン・ド・ラ・ローク『幸福なアラビアの旅』刊行。コーヒーに関しての記述。 |- |1715年 |[[ハイチ]]と[[ドミニカ]]にコーヒー栽培が伝わる([[ド・クリュー]]と別ルート)。 |- |1715年頃 |フランス、[[モカ]]からコーヒーを[[ブルボン島]](現レ=ユニオン島)に移植し栽培に成功。ブルボン種の祖といわれる。[コラム]ブルボン島へのコーヒー移植の経緯。 |- |1715年頃 |パリに300軒のカフェ。[コラム]フランス革命以前のパリのカフェ事情 |- |1718年 |スリナムにコーヒー栽培が伝わる。 |- |1720年 |ヴェネツィアのサン・マルコ広場に「カフェ・フローリアン」開業。[コラム]サン・マルコ広場のカフェ。 |- |1721年 |ベルリンに初めてのカフェ開業。 |- |1723年 |ガブリエル・ド・クリュー、パリの植物園のコーヒーの苗木をマルチニクに運び栽培に成功。ここからカリブ海・中米諸国に伝播(ティピカ種の祖)。[コラム]マルチニク島へのコーヒー移植の経緯。 |- |1725年頃 |[[ジャワ]]島が[[モカ]]に代わって世界最大のコーヒー生産地に。 |- |1725年頃 |ヴェネツィア・サン・マルコ広場に「カフェ・クワドリ」開業。 |- |1727年 |フランシス・バリェタがフランス領ギアナからパラにコーヒーを持ち帰り、移植に成功。[[ブラジルのコーヒー栽培の始まり]]。[コラム]ブラジルのコーヒー栽培の始まり |- |1730年頃 |ハイチ島で本格的にコーヒーの栽培が始まる。18世紀後半には世界最大の生産地に。[コラム①]黄金の島、ハイチ(サン=ドマング)。[コラム②]コーヒーと奴隷貿易 |- |1730年 |[[ジャマイカ]]でコーヒーの栽培が始まる。 |- |1750頃~ |[[カリブ海、中南米諸国にコーヒーの栽培が伝わる]]。キューバ1748年、グァテマラ1760年頃、コスタリカ1774年、ベネズェラ1784年、メキシコ1790年頃、コロンビア18世紀末。コーヒー栽培が本格化するのは19世紀後半以降。[コラム]中南米、[[カリブ海諸国]]へのコーヒーの伝播 |- |1734年頃 |J.S.バッハ、ライプチッヒのカフェ・ツィンマーマンで「コーヒー・カンタータ」初演。[コラム①]コーヒークレンツヒェンと女性へのコーヒーの流行(ドイツ)。[コラム②]「コーヒー・カンタータ」解釈。 |- |1737年 |「マーチャンツ・コーヒーハウス」開業(ニューヨーク)。[コラム]植民地時代のアメリカ社会とコーヒーハウス。 |- |1750年 |カルロ・ゴルドーニの『ボデガ・デル・カフェ』ヴェネツィアで初演。 |- |1751年 |『百科全書』の刊行始まる(〜1772年)。[コラム]百科全書の刊行と「プロコプ」。 |- |1751年 |ウィリアム・ホーガス画『[[ビール通りとジン横丁]]』を発表。 |- |1752年 |ロンドンに「ラネラ・ガーデン」開業。[コラム]ロンドンのティーガーデ |- |1760年 |ローマに「カフェ・グレコ」開業[コラム]「カフェ・グレコ」は「カフェ・テデスコ」。 |- |1760年 |[[ブラジルのリオでコーヒー栽培が始まる]]。 |- |1760年頃 |フランスで布で漉す浸漬式の抽出法が普及し始める(ボイル式も継続して行われる)。[コラム]抽出法の多様化。 |- |1764年 |ミラノで文学誌『イル・カフェ』発刊。 |- |1773年 |ボストン茶会事件。コーヒーがアメリカの国民飲料になるきっかけとなる。[コラム]ボストン・ティーパーティーとコーヒー。 |- |1776年 |(アメリカ独立宣言) |- |1777年 |プロイセンのフリードリヒ2世(大王)、コーヒーの使用を制限する布告。[コラム] |- |1784年 |(パレ・ロワイヤルの改装完成(1781年〜))。 |- |1784年 |ベネズエラにコーヒー栽培伝わる。1789年に輸出開始、栽培本格化。 |- |1785年頃〜 |オルレアン公(ルイ・フィリップ・ジョゼフ)がパレ・ロワイヤル改装し、賃貸。パレ・ロワイヤルにカフェが集積。フランス革命時には各党派の活動の舞台ともなる。 |- |1788年頃 |この頃パリのカフェ、1700軒を数える。 |- |1789年 |(フランス革命) |- |1789年 |カミーユ・デムーラン、「カフェ・ド・フォワ」のテラスでアジ演説。バスティーユへの行進のきっかけに(フランス革命の発火点)。 |- |1789年 |ニューヨークの「マーチャンツ・コーヒーハウス」の前でジョージ・ワシントンの歓迎式典が行われる。 |- |1791年 |ハイチで反乱発生。内乱でコーヒー生産に大打撃。[コラム] |- |1790年頃 |パレ・ロワイヤルに次々にカフェ、レストランが開業。パリ随一の繁華街に。 |- !19世紀 !<コーヒー全般> <カフェ> <栽培・生産> <技術・器具> <エピソード> |- |1800年頃 |ドリップ式のコーヒー器具、ド・ベロワのコーヒー・ポット登場。 |- |1800年頃 |(中国で紅茶=工夫茶の製造始まる) |- |1800年頃〜 |パレ・ロワイヤル繁栄の全盛期(1830年頃まで) |- |19世紀初頭 |アメリカが世界最大のコーヒー消費国に。 |- |19世紀初頭 |スマトラ、セレベスなどでコーヒー栽培が本格化。 |- |1802年 |「カフェ・アングレ」開業。 |- |1804年 |(ナポレオン、皇帝に即位。第一帝政始まる)。 |- |1804年 |ハイチが独立(史上初の黒人共和国)。フランス、コーヒーの覇権を失う。 |- |1806年 |ナポレオン、大陸封鎖令。コーヒーが不足し、代用コーヒーが横行。 |- |1806年 |シルヴェストル・ド・サッシー、アブダル・カディールの『コーヒーの合法性の擁護』を部分訳。 |- |1815年 |(フランス、ナポレオンが退位し、王政復古。) |- |1815年頃 |ブラジルの[[フルミネンセ]](リオデジャネイロ)でコーヒー生産が急増。 |- |1815年頃〜 |オーストリア、ビーダーマイヤー時代(〜48年) |- |1816年 |¸メキシコでコーヒーの商業的栽培始まる。栽培の本格化は1870年代から。 |- |1823年 |(インドのアッサム地方で茶の木(アッサム種)発見。 |- |1830年 |(フランス、七月王政。) |- |1830年頃 |イタリア通りにカフェ=レストランが集積。次第にパレ・ロワイヤルに代わりパリ一の繁華街に。 |- |1832年 |パドヴァで「カフェ・ペドロッキ」開業。 |- |1835年 |「[[カフェ・クランツラー]]」開業(ベルリン)。 |- |1838年 |(インドのアッサムで紅茶の製造始まる。続いてダージリンでも紅茶を製造(1841年)) |- |1839年 |バルザック『近代興奮剤考』刊行。 |- |1840年 |(アヘン戦争始まる〜1842年) |- |1840年頃 |イギリス人ロバート・ナピアーがサイフォンを発明。 |- |1843年 |コスタリカ、他の中米諸国に先駆けコーヒー輸出を本格的に開始。 |- |1847年 |ウィーンで「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」開業。 |- |1848年 |フランス、第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領に(1852〜第二帝政)。 |- |1850年 |ブラジル、奴隷貿易を禁止。 |- |1850年頃~1870年頃 |リオでのコーヒー栽培の黄金時代 |- |1850年頃~ |この頃から中米のコーヒー栽培が本格化。先行するコスタリカについでグァテマラ(1850年頃)、エルサルバドル(1852年)、ニカラグァ(1860年代)がコーヒー栽培に取り組み、1870年代から輸出が急増。 |- |1850年頃〜 |(ティー・レース始まる。〜1870年頃) |- |1852年 |(フランス、第二帝政。ルイ・ナポレオンが皇帝に。) |- |1852年 |(オスマンのパリ大改造始まる(〜1870年)) |- |1855年 |(フランス、第一回パリ万博(1867:第二回、1878:第三回)) |- |1858年 |ヴィクトリア湖の南でロブスタ発見。新種として報告せず。 |- |1860年 |(アメリカ南北戦争(〜65年)) |- |1860年頃〜 |(インドでの紅茶生産が軌道に乗る。) |- |1861年 |(イタリア王国成立。) |- |1861年 |アフリカで[[さび病]]発生。 |- |1862年 |「カフェ・ド・ラ・ペ」開業 |- |1864年 |ジェイブズ・バーンズ、新型焙煎機を開発(現在の焙煎機の原型)。 |- |1865年 |ジョン・アーバックル、初めてパック詰めにしたコーヒー「アリオーサ」を販売。 |- |1867年 |バーンズ、グラニュレーターとコーヒー冷却器を開発。 |- |1867年 |セイロン島(現スリランカ)で[[さび病]]発生。コーヒーの生産は19世紀末までに壊滅。徐々に茶に切り替わる。 |- |1868年 |インドのニルギリでさび病発生。 |- |1870年 |(普仏戦争に敗北。第三共和制へ。) |- |1871年 |(ドイツ統一) |- |1873年 |「[[カフェ・インペリアル]]」開業(ウィーン) |- |1874年 |リベリアでリベリカ種発見。 |- |1874年 |(日本で紅茶製造始まる) |- |1875年 |「[[カフェ・バウアー]]」開業(ベルリン) |- |1875年頃~ |ブラジル・サンパウロ地方でブルボン種導入始まる。 |- |1875年頃〜 |コロンビアのコーヒー栽培が本格化。1880年代から生産が急増。 |- |1876年 |「[[カフェ・ツェントラル]]」開業(ウィーン) |- |1878年 |ジャワ島で[[さび病]]発生。 |- |1878年 |バーンズ、コーヒー、紅茶、香辛料を扱う業界誌『スパイス・ミル』刊行を始める。 |- |1880年 |「[[カフェ・シュペール]]」開業(ウィーン) |- |1880年頃~ |リオでのコーヒー栽培が徐々に衰退。1888年の奴隷解放により決定的打撃を受ける。 |- |1882年頃〜 |コロンビアの中央高地でコーヒーの栽培が本格化。 |- |1881年 |ニューヨーク・コーヒー取引所開設。 |- |1883年 |(セイロン=スリランカからの紅茶輸出始まる) |- |1884年 |この年から、サンパウロを中心にコロノスとしてイタリア移民の導入が本格化。 |- |1885年 |「シャ・ノワール」移転して新装開業。 |- |1885年 |ジャワで[[さび病]]蔓延。生産が減少。リベリカへの植え替えが進む。 |- |1890年頃 |パリのカフェの集積地、イタリア通りからモンマルトルへ。 |- |1888年 |ブラジル、奴隷制廃止。農園からの奴隷の逃亡により、リオのコーヒー生産に壊滅的打撃。コーヒー生産の中心はサンパウロ州に移る |- |1890年頃〜 |サンパウロ州が世界最大のコーヒー生産地に。90年代にはブラジルは世界生産量の70〜80%を占める(ブラジルの総輸出の60〜70%) |- |1893年 |ジョウエル・チーク、ジョン・ニールとチーク=ニール・コーヒー社(「マックスウェル・ハウス」)をナッシュビルで設立。 |- |1895年 |ヨハン・ヤコブス、ブレーメンにコーヒー店開業。(のちのヤコブス社) |- |1898年 |ローランがコンゴでロブスタを発見。カネフォーラ種と命名。 |- |1899年 |加藤サルトリがシカゴでインスタント・コーヒーを開発。 |- |1899年 |「[[カフェ・ムゼウム]]」開業(ウィーン) |- |1899年 |サンフランシスコにブランデンシュタイン兄弟(4人)がMJBコーヒー社設立。 |- !20世紀 !<コーヒー全般> <カフェ> <栽培・生産> <技術・器具> <エピソード> |- |1900年 |ヒルズ・ブラザーズ社、真空包装缶のコーヒーを発売。 |- |1900年頃 |ジャワでロブスタの栽培が始まる。 |- |1900年頃〜 |中南米諸国がコーヒーを大増産。中米諸国は次第にコーヒーのモノカルチャー化。 |- |1900年頃〜 |(インドでの紅茶生産が中国を圧倒) |- |1901年 |ケニアにレ・ユニオン島からコーヒーを移植、栽培が始まる。続いてタンザニアも栽培開始。 |- |1901年 |イタリア人、ベゼラが蒸気圧による抽出器を発明。エスプレッソ・マシンの原型となる。 |- |1901年 |ブラジル、コーヒー大豊作。世界のコーヒー生産量の81%に達する。 |- |1906年 |ルートヴィヒ・ロゼリウス(ドイツ)、カフェインレスコーヒーの特許を取得、会社を設立。 |- |1907年 |コーヒー価格の暴落により、ブラジル政府がコーヒー買い上げ(ヴァロリゼーション)。 |- |1908年 |[[メリタ・ベンツ]]がペーパー・ドリップによる抽出器具を開発。 |- |1908年 |(トマス・サリヴァン、ティーパック発明) |- |1914年 |(第一次世界大戦始まる。〜1918年) |- |1918年 |ブラジルで大霜害。コーヒーの相場が急騰。ヨーロッパの需要回復も要因。 |- |1920年頃 |パリのカフェの集積地がモンパルナスへ。(狂乱の時代(〜1930頃)) |- |1922年 |W.H.ユーカーズ『オール・アバウト・コーヒー』を刊行(1935年・第2版)。 |- |1924年 |エドゥアルト・ショプッフ、ブレーメンにエドショー社を設立(通信販売)。 |- |1925年頃〜 |ケニア、タンザニア、ウガンダなどアフリカのヨーロッパ植民地でコーヒー生産が本格化。 |- |1927年 |コロンビアが世界第2位のコーヒー生産国に。コロンビア・コーヒー連盟FNC設立。 |- |1929年 |(大恐慌。) |- |1931年〜 |エルサルバドルに独裁政権(エルナンデス・マルティネス)誕生。その後グァテマラ(1931年)、ニカラグァ(1934年)、ホンジュラス(1932年)で独裁政権が誕生。コーヒー生産は進展したが、土地の集中化が進み、貧富の格差が増大。 |- |1933年 |(ナチス、政権掌握) |- |1934年 |ブラジル、過剰生産によりコーヒーを焼却。 |- |1937年 |ネスレ社がインスタントコーヒーを商品化(「ネスカフェ」)、翌年発売。 |- |1941年 |第二次世界大戦(〜1945) |- |1947年 |ガジアがピストン方式のエスプレッソ・マシンを開発。現在のエスプレッソ・マシンの原型となる。 |- |1949~54年 |ブラジルの旱魃を引き金にコーヒー価格が上昇、アメリカで薄いコーヒーが蔓延し、インスタントコーヒーの需要が伸びる。 |- |1950年頃 |サン=ジェルマン=デ=プレのカフェに実存主義者が集まる(サルトル、ボーボワール) |- |1950年頃 |ヨーロッパの需要回復によりコーヒー価格が上昇。 |- |1953年 |ブラジル霜害によりコーヒー減産。価格が急騰。アメリカでは薄いわゆるアメリカン・コーヒーが流行。 |- |1955年頃 |ニューヨークなどでエスプレッソ・コーヒーが流行。 |- |1956年 |西ヨーロッパのコーヒー消費量が第二次大戦前を上回る。 |- |1960年 |ブラジル、パラナ州のコーヒー生産量ががサンパウロ州を越える。生産地域の南下が顕著。 |- |1962年 |第一次国際コーヒー協定(ICA)成立。 |- |1963年 |国際コーヒー機構(ICO)設立。 |- |1966年 |アメリカ、アルフレッド・ピーツがバークレーに「ピーツ・コーヒー&ティー」開業。スペシャルティコーヒーの先駆け。 |- |1969年 |UCC上島コーヒー、世界初の缶コーヒーを発売。 |- |1971年 |スターバックス、シアトルに開業 |- |1974年 |エルナ・クヌッセン、スペシャルティ・コーヒーの概念を『ティー&コーヒー・ジャーナル』誌上のインタビューで発表。 |- |1975年 |ブラジル大霜害。 |- |1976年 |ブラジル霜害の影響でICOが輸出総量割当制を実施。 |- |1979年〜 |ニカラグァで「サンディニスタ」政権誕生。中米では続いてエルサルバドル、グァテマラでもゲリラの活動が活発化し、混乱の時代に。コーヒー生産も縮小傾向。 |- |1979年 |スイスのコフェックス社がスイス・ウォーター方式のカフェインレス・コーヒーを開発。 |- |1980年頃〜 |コロンビアでバリエダ・コロンビア品種導入、品質劣化へ。 |- |1982年 |アメリカスペシャルティコーヒー協会(SCAA)設立 |- |1983年頃~ |アメリカでのスペシャルティーコーヒーの市場が急速に拡大。 |- |1985年 |ブラジルで大旱魃。翌年にコーヒーの相場が急騰。 |- |1985年頃〜 |ブラジルのコーヒー栽培の中心が、ミナスジェライス州の高原地域(セラード)に移行。 |- |1990年頃~ |ヴェトナムでのコーヒー栽培(主にロブスタ)が本格化。生産量が急速に拡大し2003年には世界第2位の生産国に。 |- |1986年 |ハワード・シュルツ、スターバックス社から独立し、エスプレッソ・バー「イル・ジョルナーレ」を開業。 |- |1987年 |ハワード・シュルツ、スターバックスの商標を買収し、コーヒーチェーン展開を開始。 |- |1995年 |SCAA、コーヒーフレーバーホイールを作成・発表。 |- |1997年頃〜 |コーヒー生産におけるサスティナビリティ運動(認証コーヒー)が盛んに。 |- |1997年 |オークションシステムによるカップ・オブ・エクセレンスのプロジェクト始まる。1999年に現行の方式に。 |- !21世紀 !<コーヒー全般> <カフェ> <栽培・生産> <技術・器具> <エピソード> |- |2000年 |ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ始まる |- |2001年 |現行の国際コーヒー協定発効。 |- |2001年 |パナマ・オークションでゲイシャ種が最高値を更新。 |- |2002年 |ジェイムズ・フリーマン、「ブルー・ボトル」開業。アメリカでサードウェーブのコーヒー流行。 |- |2005年頃〜 |パカマラ、ジャバ等のコーヒーの新品種の導入が盛んになる。 |- |同 |中米を中心に新タイプのナチュラル、ハニー(パルプド・ナチュラル)など新たな精製法の研究・開発が進む。 |- |2010年頃〜 |ラオス、タイ、ミャンマーなどアジア諸国でコーヒー栽培が盛んになる。 |}
コーヒー歴史年表
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