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ボストン茶会事件
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== '''ボストン茶会事件''' The Boston Tea Party == 1773年12月16日に当時イギリスの植民地であったマサチューセッツ湾植民地 Massachusetts Bay Colony (現在のアメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいて、植民地の人々がイギリス議会に対する抗議運動の一つとして、港に停泊中の東インド会社の茶葉を積んだ3隻の船に侵入して、茶葉すべてを海に投棄した事件。日本では「茶会 」と訳されているが、ここでのPartyは登山のパーティーと同じ様に「党」や「集団」を意味する。ただし、事件当時においてはTea Party と名乗る集団がいたのではない。この事件をきっかけに、イギリス政府は植民地に対して一連の法を制定し対応した。しかし、これらは植民地政府への介入となり、むしろアメリカ全土の植民地の人々を団結させ、さらにはアメリカの独立運動に繋がっていくこととなった。 '''事件までの背景''' 17世紀のヨーロッパでは、茶を飲む習慣が広まるにつれて多くの企業が中国からの茶葉の輸入をした。しかし、イギリスでは東インド会社のみに茶葉の輸入権が与えられていたが、植民地に対しては直接茶葉を販売することができなかった。さらにイギリスに輸入される際には課税がなされており、課税のないオランダの輸入茶葉の密輸がイギリス国内や植民地で横行していたために、東インド会社の財政は厳しかった。1767年イギリス政府は、東インド会社救済のために複数の法律(タウンゼント諸法)を成立させた。 タウンゼント諸法により新たな課税が決まった際、植民地の人々は茶葉の輸入阻止によりこれに対抗をした。この対抗の根底には、植民地の代表がイギリス議会に居らず、これがイギリスの憲法に保障されている「代表なくして課税なし」の原則に反しているという理論があった。タウンゼント諸法以前にも、植民地に対する課税で抗議運動が起こっていた。 その後の1770年に茶税を除いたタウンゼント諸法が撤廃されたことにより、イギリスの茶が再び植民地で合法的に輸入されたが、依然密輸の割合が大きかった。 1772年新たな関税に関する法が制定されると、輸入茶葉の価格は再び上昇して売り上げは激減した。さらにインドの大飢饉の影響もあり、東インド会社の財政は深刻な危機に陥った。この解決策として、1773年5月に茶法(Tea Act)が制定された。これにより東インド会社が茶葉輸入に際しての関税が事実上なくなり、植民地に委託荷受人を指名し直接茶葉の輸出販売ができる仕組みができた。しかし、植民地に対しては茶1ポンドに対し3ペニーという関税が残り、植民地内での抗議運動は勢いを増していった。 茶法の制定により植民地での東インド会社の正規の輸入茶葉の価格は、たとえ関税がかかっていても安くなったが、植民地の人々の関心は茶法や関税だけでなく、ほかにもあったために抗議運動はさらに広まった。先ずは代表者を持たないイギリス議会の植民地に対する権限の範囲についてであり、権限の強化は植民地の権利に対する侵害であるとみなした。さらに、茶葉の価格引き下げの影響で、東インド会社の委託販売人でない正規の輸入業者や密輸業者の廃業の可能性があることや、将来東インド会社が茶以外の商品も貿易の独占をする恐れがあることなどであった。「サンズ・オブ・リバティー Sons of Liberty」と名乗った植民地ホイッグ党の抗議運動や商人たちの抗議活動のために、ニューヨークやフィラデルフィアでは東インド会社の委託荷受人が次々と辞職に追い込まれた。ついにマサチューセッツ以外の植民地では荷受人が不在となり、イギリスから届いた茶葉がそのまま送り返される事態となった。 これらの抗議運動の話し合いが行われたのは主に市中のコーヒーハウスやタヴァーンであった。特にボストンのグリーン・ゴラゴン Green Dragon Tavern は「サンズ・オブ・リバティー」の人々に人気で、ボストン茶会事件の計画はここで話し合われたと伝えられている。 '''ボストン茶会事件''' ボストンでは、トマス・ハッチンソン Thomas Hutchinson 総督が植民地の抗議運動を拒絶し続けた。1773年11月下旬に茶葉を積んだ船がボストンに入港した。サミュエル・アダムズ Samuel Adams をリーダーとする植民地の人々は、関税を払わずに船を追い返すべく求めたが、ハッチンソン総督はこれを拒んだ。その後さらに2隻の船がボストンに入港したが、12月に入ってもハッチンソン総督は植民地側の要求を拒み続けた。 12月16日夜、業を煮やした植民地側の集団が3隻の船に侵入し、3時間で積み荷の茶葉の入った342箱すべてを海に投棄した。総重量は46トン以上で被害総額は現在の価格で170万ドル以上と推定されている。この事件については1834年の文献で 始めて「The Boston Tea Party」 という言葉が使われており、これが現在まで続いている。 '''事件のその後''' 植民地側のリーダーであるアダムズは、この事件を原則に従った抗議活動としたが、イギリス政府は、植民地においてのイギリスの権威を回復させるために数々の法律を成立させた。いくつかの法律はマサチューセッツのみに適用されたが、マサチューセッツ以外の植民地の人々からも植民地への侵害とみなされて、1774年9月の大陸会議を経て、より植民地の団結に結びついていった。植民地のイギリスに対する反発が強まる中、1775年2月にはイギリス政府が和解決議をしたが、ついに4月、ボストン郊外のレキシントン・コンコードの戦いを皮切りにアメリカ独立戦争が始まった。 アダムズをはじめ多くの植民地の人々は、事件をきっかけに、紅茶を飲むことをアメリカ愛国心に反するとみなし、紅茶の消費量は減少した。代わりにコーヒーが好まれるようになり、コーヒーがアメリカの国民飲料となるきっかけになった。さらに、独立戦争に発展する議論や戦争時の作戦会議も市中のコーヒーハウスで行われていた。 (小村嘉人) [[ファイル:Boston Tea Party .jpg|サムネイル|466x466ピクセル|'''ボストン茶会事件を描いたリトグラフ'''''' Wikipedia ボストン茶会事件 より''']] 参照文献: ・ Wikipedia ボストン茶会事件 (日本語版・英語版) ・ Wikipedia マサチューセッツ湾植民地 (日本語版・英語版) ・ Wikipedia アメリカ独立戦争 (日本語版・英語版) ・ Wikipedia イギリス東インド会社 (日本語版・英語版) ・ Wikipedia タウンゼント諸法 (日本語版・英語版) ・ Wikipedia トマス・ハッチンソン (日本語版・英語版) ・ Wikipedia Sons of Liberty (英語版) ・ Wikipedia 「代表なくして課税なし」(日本語版) ・ Wikipedia 大陸会議 (日本語版・英語版) ・ Wikipedia Tea Act(英語版) ・ Wikipedia サミュエル・アダムズ (日本語版・英語版) ・ Wikipedia 「耐え難き諸法」(日本語版) ・ Wikipedia レキシントン・コンコードの戦い (日本語版)
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