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「タトラー」の版間の差分

提供:コーヒー歴史年表
ページの作成:「'''タトラー'''The Tatler  1709年から2年間にリチャード・スティールによって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週3回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。  「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人…」
 
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'''タトラー'''The Tatler
=='''タトラー'''The Tatler==


 1709年から2年間にリチャード・スティールによって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週3回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。
1709年から2年間にリチャード・スティールによって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週3回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。


 「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人物が、コーヒーハウスを訪れて情報を収集し執筆する」という手法がとられ、特に、当時人気の4軒のコーヒーハウスにそれぞれ記者を置くふりをして、「文学は「ウイルズ」、娯楽は「ホワイツ」、学術は「グリシアン」、内外のニュースは「セント・ジェイムズ」から得た情報である」という構成にした。実際には、この雑誌の記事の多くはスティールが「セント・ジェイムズ」で執筆をしたが、一部はジョナサン・スウィフト 、ジョセフ・アディソン が担当し、この場合もビッカースタッフが執筆したように装っている。『タトラー』第1号の記事は、明治32年に夏目漱石の訳により『ホトトギス』で紹介された。1711年にはスティールとアディソンは『タトラー』を廃刊し、『スペクテイター』を発刊した。 (小村嘉人)
「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人物が、コーヒーハウスを訪れて情報を収集し執筆する」という手法がとられ、特に、当時人気の4軒のコーヒーハウスにそれぞれ記者を置くふりをして、「文学は「ウイルズ」、娯楽は「ホワイツ」、学術は「グリシアン」、内外のニュースは「セント・ジェイムズ」から得た情報である」という構成にした。実際には、この雑誌の記事の多くはスティールが「セント・ジェイムズ」で執筆をしたが、一部はジョナサン・スウィフト 、ジョセフ・アディソン が担当し、この場合もビッカースタッフが執筆したように装っている。
 
『タトラー』第1号の記事は、明治32年に夏目漱石の訳により『ホトトギス』で紹介された。1711年にはスティールとアディソンは『タトラー』を廃刊し、『スペクテイター』を発刊した。 (小村嘉人)


'''参照文献'''
'''参照文献'''

2025年1月23日 (木) 18:44時点における版

タトラーThe Tatler

1709年から2年間にリチャード・スティールによって発行された雑誌。「おしゃべり」という意味のこの雑誌は週3回の発行で、ロンドンのさまざまなコーヒーハウスで仕入れた情報や社会情勢が記事にされ、当時のコーヒーハウスの状況をよく反映している。

「アイザック・ビッカースタッフ Isaac Bickerstaff という架空の人物が、コーヒーハウスを訪れて情報を収集し執筆する」という手法がとられ、特に、当時人気の4軒のコーヒーハウスにそれぞれ記者を置くふりをして、「文学は「ウイルズ」、娯楽は「ホワイツ」、学術は「グリシアン」、内外のニュースは「セント・ジェイムズ」から得た情報である」という構成にした。実際には、この雑誌の記事の多くはスティールが「セント・ジェイムズ」で執筆をしたが、一部はジョナサン・スウィフト 、ジョセフ・アディソン が担当し、この場合もビッカースタッフが執筆したように装っている。

『タトラー』第1号の記事は、明治32年に夏目漱石の訳により『ホトトギス』で紹介された。1711年にはスティールとアディソンは『タトラー』を廃刊し、『スペクテイター』を発刊した。 (小村嘉人)

参照文献

・William H. Ukers  "ALL ABOUT COFFEE  Second Edition" 1935年

・小林章夫 『コーヒー・ハウス』 駸々堂 1984年

・Wikipedia The Tatler (1709 journal)  (英語)