「*コラム:コルシツキーの「青い瓶」は作り話?」の版間の差分
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'''[コラム] コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か''' | =='''[コラム] コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か'''== | ||
''' 「コルシツキー伝説」とは''' | |||
1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶(ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache)」を開業した。 | |||
近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。 | 近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。 | ||
「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。 | 「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。 | ||
謎多い人物コルシツキー | '''謎多い人物コルシツキー''' | ||
コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。 | コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。 | ||
伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。 | |||
'''アルメニア人は英雄''' | |||
次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。 | 次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。 | ||
トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人=コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。 | トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人=コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。 | ||
ウィーンのカフェの始まりの真実 | '''ウィーンのカフェの始まりの真実''' | ||
史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年(1685年説もある)にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。 | |||
また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年(1694年説もある)に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。 | また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年(1694年説もある)に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。 | ||
これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。 | これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。 | ||
'''コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化''' | |||
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。 | 勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。 | ||
時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。 | |||
(小村嘉人) | |||
'''参照文献:''' | |||
・平田達治 『ウィーンのカフェ』 大修館書店 1996年 | ・平田達治 『ウィーンのカフェ』 大修館書店 1996年 | ||
2026年3月5日 (木) 00:07時点における最新版
[コラム] コルシツキーの「カフェ青い瓶」は作り話か
「コルシツキー伝説」とは
1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、アルメニア人の交易商、ゲオルク・コルシツキー Georg Kolschitzkyは、オスマン商人になりすまして、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めてオーストリア軍を勝利に導いた。撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中に大量のコーヒー豆があったという。コルシツキーはウィーンを救った功績の褒美として、このコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青い瓶(ブラウエン・フラッツェ Zue Blauen Flache)」を開業した。
近年の研究では、この伝説の真偽は確定していない。ではなぜここまで「コルシツキー」が英雄視され、「ブラウエン・フラッツェ」がウィーン最初のカフェであると語り継がれてきたのであろうか。
「コルシツキー」という人物が「ブラウエン・フラッツェ」を開業した話は、オスマン・トルコとの戦いから100年後の1783年、カトリック修道会のゴットフリート・ウーリッヒが書いた『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』に登場する。この記録はひとりのカトリック教徒による物語に近いものであったとされている。ただし、この1783年には、戦勝の百周年行事が催されており、カトリック教徒にとっては、異教徒であるトルコ軍に勝利した大事件であったことと関連があると推測できる。
謎多い人物コルシツキー
コルシツキーは謎の多い実在の人物である。ウィーンのセルビア人排除から逃れるために、ポーランド生まれと詐称をしているが、実際には旧ユーゴスラビア生まれのアルメニア人であったという。ウィーンに移り、宮廷通訳官助手としてトルコ使節団の世話をしたのちに、オリエント商品を扱った交易商として何度もトルコを訪れた。言語や文化に精通しており、トルコではよく顔の知られた商人であったという。
伝令役としてのオスマン・トルコとの戦いに参加をしたことは事実ではあるが、実際の貢献度はあまり高くはなかったという。虚栄心が非常に強く、戦後は、自分の功績を虚偽の内容をも含めて吹聴しまわった。このことがコルシツキーの名を有名にした。しかし、実際には戦後の彼の生活は貧しく、1694年に54年の生涯を閉じた。
アルメニア人は英雄
次にコルシツキーがアルメニア人であったことに注目をしたい。ウィーンはキリスト教のヨーロッパ諸国の中で最も東にあり、イスラム圏のオスマン・トルコと接していた。平時、戦時を問わずにイスラム文化・オリエント文化との前哨の地であり、東方との交易の拠点である。そして、この東方との交易を担っていたのがアルメニア人の商人たちである。彼らは重要な交易都市ではコロニーを形成して、領主たちから自治を保障されていたが、ここウィーンにおいても例外ではなく、水上交通の要所であったレオポルトシュタットLeopoldstadt地区にアルメニア人のコロニーがあり、当時のウィーン市民は彼らを大切にしていた。またこのレオポルトシュタット地区には、「コルシツキー伝説」が生まれたころに、多くのアルメニア人がカフェを開業した。
トルコとの戦いから100年の間には、戦いに参加した一人一人の名前や役割は忘れ去られてしまったが、アルメニア人の商人が戦いに貢献したということは、ウィーン市民の記憶に残っていた。さらに、良くも悪しくもコルシツキーの名前だけは記憶に残っていた。また、この100年の間に開業したカフェの多くにアルメニア人の商人がかかわっていた。これらのことが混同されて、アルメニア人商人=コルシツキーという思い込みが『トルコ軍による第二回ウィーン包囲の歴史』でコルシツキーが英雄視される要因になったと考えられる。
ウィーンのカフェの始まりの真実
史実によると、ウィーンで最初のカフェは、1688年(1685年説もある)にアルメニア人のヨハネス・デオダードが市税関の斜め向かいにあるパッヘンベルク館で開業をした。また後年の研究で、コルシツキーが最初に屋台風の店を開いたとされるシュトック・イム・アイゼン広場のシュヴァンフェルナー館にもカフェが存在しており、このカフェの所有もデオダードであったらしい。
また、「ブラウエン・フラッツェ」は実在のカフェの名前であるが、アルメニア人のイザック・デ・ルカが1697年(1694年説もある)に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転した。 これらの事実ものちにコルシツキーと結びつき、彼の伝説を膨らませる要因になったとされる。
コルシツキー伝説の広がりとウィーンカフェ文化
勝利したオスマン・トルコとの戦いの担い手ともなったアルメニア人の商人は、ウィーン市民にとってはある意味、英雄であったと考えられる。カトリック教徒の物語になることも、その後の話が誇張されるのも何ら不思議ではない。
時を経て、コーヒーという飲み物、カフェという空間は、それらを最初に伝えた人物を崇敬するほど、ウィーンの市民にとってはなくてはならないものとなった。現在では、350年前にウィーンにコーヒーを伝えたのがアルメニア人の商人たちであったことや、「コルシツキー伝説」などは日ごろの市民生活には無縁となっている。しかし、コーヒーの祖を崇拝する気持ちが、心のどこかでウィーンの人々に受け継がれているようである。その証拠にウィーン市内には「コルシツキー通りKolschitzkygasse」という名の通りがあり、ウィーン中央駅近くにはコルシツキーの等身大の像もある。
(小村嘉人)
参照文献:
・平田達治 『ウィーンのカフェ』 大修館書店 1996年
・クラウス・ティーレ・ドールマン 『ヨーロッパのカフェ文化』 平田達治・友田和秀 訳 大修館書店 2000年