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「カフェ・ローラン」の版間の差分

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=='''カフェ・ローラン'''Café Laulent==
=='''カフェ・ローラン'''Café Laulent==
 1690年〜現在。フランソワFrançois・ローランがドフィーヌ通り(サン=ジャルマン=デ=プレ)に開業。
 1690年〜(長期間閉店後)復活。フランソワFrançois・ローランがドフィーヌ通り(サン=ジャルマン=デ=プレ)に開業。


17世紀末、「カフェ・プロコープ」に先だって、ジャン=バティスト・ルソー(劇作家)、ベルナール・フォントネルなどの知識人や文学者が集う「文学カフェ」として名声をえた。
17世紀末、「カフェ・プロコープ」に先だって、[[ジャン=バティスト・ルソー]](劇作家)、[[ベルナール・フォントネル]]などの知識人や文学者が集う「文学カフェ」として名声をえた。


店主フランソワが亡くなると未亡人が後を継ぎ、ローラン夫人は顧客の知的サークルの中心となった。しかし、夫人は常連の中心人物だったJ.-B.ルソーと仲違いし、ルソーが友人たちとともに近くの「プロコープ」に移ったため、客は次第に「ローラン」から離れて行った。
店主フランソワが亡くなると未亡人が後を継ぎ、ローラン夫人は顧客の知的サークルの中心となった。しかし、夫人は常連の中心人物だったJ.-B.ルソーと仲違いし、ルソーが友人たちとともに近くの「プロコープ」に移ったため、客は次第に「ローラン」から離れて行った。


しかし、18世紀半ばまでは、ヴォルテール、モンテスキュー、ジャン=ジャック・ルソーなどが通い、「文学カフェ」の声望は保たれていた。のちに常連となったヴォルテールは「ローラン」について次のような言葉を残している。
しかし、18世紀半ばまでは、[[ヴォルテール]]、[[モンテスキュー]]、ジャン=ジャック・ルソーなどが通い、「文学カフェ」の声望は保たれていた。のちに常連となったヴォルテールは「ローラン」について次のような言葉を残している。


「・・・そこでは、あらゆる新作が槍玉にあがり、ときに厳しい冷笑を浴びた。そこは『理性の学校』であったが、いささか放埒な雰囲気もただよわせていた」。
「・・・そこでは、あらゆる新作が槍玉にあがり、ときに厳しい冷笑を浴びた。そこは『理性の学校』であったが、いささか放埒な雰囲気もただよわせていた」。

2025年7月29日 (火) 06:26時点における最新版

カフェ・ローランCafé Laulent

 1690年〜(長期間閉店後)復活。フランソワFrançois・ローランがドフィーヌ通り(サン=ジャルマン=デ=プレ)に開業。

17世紀末、「カフェ・プロコープ」に先だって、ジャン=バティスト・ルソー(劇作家)、ベルナール・フォントネルなどの知識人や文学者が集う「文学カフェ」として名声をえた。

店主フランソワが亡くなると未亡人が後を継ぎ、ローラン夫人は顧客の知的サークルの中心となった。しかし、夫人は常連の中心人物だったJ.-B.ルソーと仲違いし、ルソーが友人たちとともに近くの「プロコープ」に移ったため、客は次第に「ローラン」から離れて行った。

しかし、18世紀半ばまでは、ヴォルテールモンテスキュー、ジャン=ジャック・ルソーなどが通い、「文学カフェ」の声望は保たれていた。のちに常連となったヴォルテールは「ローラン」について次のような言葉を残している。

「・・・そこでは、あらゆる新作が槍玉にあがり、ときに厳しい冷笑を浴びた。そこは『理性の学校』であったが、いささか放埒な雰囲気もただよわせていた」。

長く閉店していたが、1946年には同じ場所に、「カフェ・タブーCafé Tabou」と店名が変わって再開、第二次大戦直後の混乱の時期にアルベール・カミユ、クロード・モーリアック、ジャン=ポール・サルトルら当時のフランスの若手芸術家・文学者を集めた。

現在は、「ホテル・ドービュッソンHotel D'Aubusson」に付帯するカフェとして「カフェ・ローラン」に店名を戻し、夜のジャズ演奏を売り物にするカフェとなっている。 (山内秀文)

参照文献

・Felipe Ferré "L'Aventure de Café" 1988 , Paris

・Luc Bohl-Willette"Des tavernes aux Bistrots--Une hisoire des café" 1997, Lausanne

・Et si on se promenait... "Le Café Laurent" 2009 コーヒー歴史年表に戻る