「マルセイユ」の版間の差分
Hide Yamauchi (トーク | 投稿記録) 編集の要約なし |
Hide Yamauchi (トーク | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
(2人の利用者による、間の4版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
''' | == '''マルセイユ '''Marseille == | ||
パリ、リヨンに次ぐフランス第3の人口を擁する地中海岸の中心都市で、フランス最大の貿易港。そしてパリとともにフランスで最もコーヒーに関わりの深い都市でもある。 | |||
その起源は紀元前600年頃に築かれた古代ギリシャの植民ポリスに遡る。以来、古代ローマ、ヨーロッパ中世を通して地中海交易の拠点の一つとして栄えた。特に17世紀末からは王権からフランスの中東・地中海アフリカ貿易の独占権をえて、地中海岸最大の貿易港となり、さらに18世紀にはハイチをはじめとするカリブ海、そしてアジアとの貿易の中核港として繁栄した。 | |||
フランスにとって、マルセイユは地中海文化を受け入れる窓口となっていたため、コーヒーに関する情報もいち早く伝えられ、1644年にはピエール・ド・ラ・ロークがコーヒーを持ち帰り友人たちにふるまっている。これが記録に残るフランスの最初のコーヒー飲用とされている。また、1660年頃には薬屋épisrieでコーヒーが売られていたとの記録があり、徐々に社会にコーヒーが浸透していったと思われる。 | |||
''' | 1669年には、エクス=アン=プロヴァンス大学の医学生が、市庁舎で「コーヒーが健康を害する」と論じコーヒー反対を訴えた。これは、教会とワイン業者の扇動といわれる。ただ、マルセイユのコーヒー熱が下火になることはなかった。 | ||
こうしてマルセイユでは、パリに先駆けてコーヒーが広まり、1671年にはフランス最初のカフェが開業している。18世紀半ばからはハイチなどカリブ海のコーヒー産地との交易の中心となり、世界最大のコーヒー交易港になったと推測されている。フランス革命以降もパリの外港、ル・アーブルと並んでフランスのコーヒー貿易の中心となっている。 (山内秀文) | |||
=== '''参照文献:''' === | |||
* ウィリアム・H・ユーカーズ『All About Coffee』山内秀文抄訳, 2017, 角川ソフィア文庫 | |||
*Wikipedia:Marseille(フランス語) | |||
{{年表}} |
2024年12月5日 (木) 21:17時点における最新版
マルセイユ Marseille
パリ、リヨンに次ぐフランス第3の人口を擁する地中海岸の中心都市で、フランス最大の貿易港。そしてパリとともにフランスで最もコーヒーに関わりの深い都市でもある。
その起源は紀元前600年頃に築かれた古代ギリシャの植民ポリスに遡る。以来、古代ローマ、ヨーロッパ中世を通して地中海交易の拠点の一つとして栄えた。特に17世紀末からは王権からフランスの中東・地中海アフリカ貿易の独占権をえて、地中海岸最大の貿易港となり、さらに18世紀にはハイチをはじめとするカリブ海、そしてアジアとの貿易の中核港として繁栄した。
フランスにとって、マルセイユは地中海文化を受け入れる窓口となっていたため、コーヒーに関する情報もいち早く伝えられ、1644年にはピエール・ド・ラ・ロークがコーヒーを持ち帰り友人たちにふるまっている。これが記録に残るフランスの最初のコーヒー飲用とされている。また、1660年頃には薬屋épisrieでコーヒーが売られていたとの記録があり、徐々に社会にコーヒーが浸透していったと思われる。
1669年には、エクス=アン=プロヴァンス大学の医学生が、市庁舎で「コーヒーが健康を害する」と論じコーヒー反対を訴えた。これは、教会とワイン業者の扇動といわれる。ただ、マルセイユのコーヒー熱が下火になることはなかった。
こうしてマルセイユでは、パリに先駆けてコーヒーが広まり、1671年にはフランス最初のカフェが開業している。18世紀半ばからはハイチなどカリブ海のコーヒー産地との交易の中心となり、世界最大のコーヒー交易港になったと推測されている。フランス革命以降もパリの外港、ル・アーブルと並んでフランスのコーヒー貿易の中心となっている。 (山内秀文)
参照文献:
- ウィリアム・H・ユーカーズ『All About Coffee』山内秀文抄訳, 2017, 角川ソフィア文庫
- Wikipedia:Marseille(フランス語)