「青い瓶(ブラウエン・フラッツェ)」の版間の差分
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長い間[[コルシツキー]]が営んだ「ウィーン最初のカフェ」と語り継がれている。 | 長い間[[コルシツキー]]が営んだ「ウィーン最初のカフェ」と語り継がれている。 | ||
[[コルシツキー]] | [[コルシツキー]]は1683年のオスマン・トルコとの戦いの勝利に貢献をし、その褒賞としてトルコ軍の残したコーヒー豆を譲り受けた。このコーヒー豆を利用してシュテファン寺院近く、シュトック・イム・アイゼン広場 Stock im Eisenplatz のシュヴァンフェルナー館で屋台風の店を開き、トルコ風コーヒーを売り始めた。この店がおおいに繁盛をして手狭となり、ブラントシュ | ||
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、ここに「ウィーン最初のカフェ」を開業したという。 | 、ここに「ウィーン最初のカフェ」を開業したという。 | ||
現在では、[[コルシツキー]]の「ブラウエン・フラッツェ」開業は史実としては認められていないが、「ブラウエン・フラッツェ」という店名のカフェは存在していた。アルメニア人のイザーク・デゥ・ルカが1697年(1694年説もある)に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転して、1775年まで続いたという。 | 現在では、[[コルシツキー]]の「ブラウエン・フラッツェ」開業は史実としては認められていないが、「ブラウエン・フラッツェ」という店名のカフェは存在していた。アルメニア人のイザーク・デゥ・ルカが1697年(1694年説もある)に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転して、1775年まで続いたという。 | ||
さらに2002年アメリカ人[[ジェイムズ・フリーマン]] | さらに2002年アメリカ人[[ジェイムズ・フリーマン]] James Freeman が開業した「ブルー・ボトル・コーヒー Blue Bottle Coffee 」も、コルシツキーの栄誉に敬意を表して、「青い瓶(ブラウエン・フラッツェ)」という名を付けたといわれている。 (小村嘉人) | ||
=== '''参照文献''' === | === '''参照文献''' === | ||
2026年2月21日 (土) 02:03時点における版
青い瓶(ブラウエン・フラッツェ) Zue blauen Flache
長い間コルシツキーが営んだ「ウィーン最初のカフェ」と語り継がれている。
コルシツキーは1683年のオスマン・トルコとの戦いの勝利に貢献をし、その褒賞としてトルコ軍の残したコーヒー豆を譲り受けた。このコーヒー豆を利用してシュテファン寺院近く、シュトック・イム・アイゼン広場 Stock im Eisenplatz のシュヴァンフェルナー館で屋台風の店を開き、トルコ風コーヒーを売り始めた。この店がおおいに繁盛をして手狭となり、ブラントシュ テッテ街 Brandstätte へ、さらにシュロッサー通り Schlossergasse の「ブラウエン・フラッツェ」という館に移転して 、ここに「ウィーン最初のカフェ」を開業したという。
現在では、コルシツキーの「ブラウエン・フラッツェ」開業は史実としては認められていないが、「ブラウエン・フラッツェ」という店名のカフェは存在していた。アルメニア人のイザーク・デゥ・ルカが1697年(1694年説もある)に旧市庁舎裏手で開業したカフェを、1703年にシュロッサー通りのブラウエン・フラッツェ館に移転して、1775年まで続いたという。
さらに2002年アメリカ人ジェイムズ・フリーマン James Freeman が開業した「ブルー・ボトル・コーヒー Blue Bottle Coffee 」も、コルシツキーの栄誉に敬意を表して、「青い瓶(ブラウエン・フラッツェ)」という名を付けたといわれている。 (小村嘉人)
参照文献
- 平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店,1996
- クラウス・ティーレ・ドールマン著『ヨーロッパのカフェ文化』1997 平田達治・友田 和秀訳、大修館書店,2000