「コルシツキー」の版間の差分
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フランツ・ゲオルグ・コルシツキー Georg Franz Kol(t)schitzky: | フランツ・ゲオルグ・コルシツキー Georg Franz Kol(t)schitzky: | ||
生没年1640?年~1694年。「ウィーンで最初のカフェを開業した」と語られている歴史 | 生没年1640?年~1694年。「ウィーンで最初のカフェを開業した」と語られている歴史 | ||
上の人物。出生は不詳だが、最近の研究で、ハンガリー国境近くの旧ユーゴスラビア生ま | 上の人物。出生は不詳だが、最近の研究で、ハンガリー国境近くの旧ユーゴスラビア生ま | ||
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品を扱っていた交易商として何度もトルコを訪れたという。ドイツ語・トルコ語をはじめ | 品を扱っていた交易商として何度もトルコを訪れたという。ドイツ語・トルコ語をはじめ | ||
多数の言語に堪能で、数多くの国や民族の習慣にも通じていたという。 | 多数の言語に堪能で、数多くの国や民族の習慣にも通じていたという。 | ||
1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、トルコ軍との伝令役(一説にはスパイ)で | 1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、トルコ軍との伝令役(一説にはスパイ)で | ||
あったコルシツキーは、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めた。ド | あったコルシツキーは、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めた。ド | ||
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い瓶(ブラウエン・フラッツェ)」を開業したとされている。 | い瓶(ブラウエン・フラッツェ)」を開業したとされている。 | ||
コルシツキーは実在の人物であるが、長く語り継がれてきたこのエピソードには諸説あ | コルシツキーは実在の人物であるが、長く語り継がれてきたこのエピソードには諸説あ | ||
り、その真偽の確定はしていない。ただし、ウィーン市内には「コルシツキーガッセ」と | り、その真偽の確定はしていない。ただし、ウィーン市内には「コルシツキーガッセ」と | ||
いう名の通りもあり、ウィーン中央駅近くには等身大の像がある。 (小村嘉人) | いう名の通りもあり、ウィーン中央駅近くには等身大の像がある。 (小村嘉人) | ||
参照文献: | 参照文献: | ||
・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書,1980 | ・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書,1980 | ||
・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店,1996 | ・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店,1996 |
2024年5月29日 (水) 21:50時点における版
〇 1683年 コルシツキーがウィーン初のカフェ「青い瓶(ブラウエン・フラッツェ)」を開業?
フランツ・ゲオルグ・コルシツキー Georg Franz Kol(t)schitzky:
生没年1640?年~1694年。「ウィーンで最初のカフェを開業した」と語られている歴史 上の人物。出生は不詳だが、最近の研究で、ハンガリー国境近くの旧ユーゴスラビア生ま れのアルメニア人という説が有力である。20歳前後にウィーンに移り、オリエントの商 品を扱っていた交易商として何度もトルコを訪れたという。ドイツ語・トルコ語をはじめ 多数の言語に堪能で、数多くの国や民族の習慣にも通じていたという。
1683年のオスマン・トルコとの戦いの際に、トルコ軍との伝令役(一説にはスパイ)で あったコルシツキーは、トルコ軍の包囲網を潜り抜け、ポーランド軍に援軍を求めた。ド イツ軍の加勢もあり、撤退を余儀なくされたトルコ軍の遺留品の中には大量のコーヒー豆 があったという。伝令役の褒美としてコーヒー豆を譲り受け、ウィーン最初のカフェ「青 い瓶(ブラウエン・フラッツェ)」を開業したとされている。
コルシツキーは実在の人物であるが、長く語り継がれてきたこのエピソードには諸説あ り、その真偽の確定はしていない。ただし、ウィーン市内には「コルシツキーガッセ」と いう名の通りもあり、ウィーン中央駅近くには等身大の像がある。 (小村嘉人)
参照文献:
・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書,1980 ・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店,1996