「コラム:アラビカ種の誕生と広がり」の版間の差分

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 '''アラビカ種の誕生'''
=='''アラビカ種の誕生'''==


 約40〜100万年前に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配してアラビカ種が誕生したという説が最も有力である。アラビカ種が誕生した場所は、2つの種の生息域が重なるアフリカ中央部アルバート湖の周辺とみられている。
 約40〜100万年前に[[カネフォラ種]]と[[ユーゲニオイデス種]]が交配してアラビカ種が誕生したという説が最も有力である。アラビカ種が誕生した場所は、2つの種の生息域が重なるアフリカ中央部アルバート湖の周辺とみられている。
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 モンタニョンMontagnonらによれば、遺伝子解析から、15世紀半ば、エチオピアの原生息地(シダモ、ゲデオ地域等)の野生アラビカ種がイエメンに持ち込まれ、紅海の西側、南北に広がる山岳地帯で栽培が始まったとする説が有力をなった。イエメンの栽培種は3つのタイプに分かれる。
 モンタニョンMontagnonらによれば、遺伝子解析から、15世紀半ば、エチオピアの原生息地(シダモ、ゲデオ地域等)の野生アラビカ種がイエメンに持ち込まれ、紅海の西側、南北に広がる山岳地帯で栽培が始まったとする説が有力をなった。イエメンの栽培種は3つのタイプに分かれる。


①ティピカ/ブルボン・グループ:
'''①ティピカ/ブルボン・グループ''':
 イエメン南部の紅海に沿った山岳地域:ティピカとブルボンを含むタイプ。モカに近いこの地域の栽培品種がジャワ島(ティピカ)とレ・ユニオン島=ブルボン島(ブルボン)に移植され、現在世界中で栽培されているアラビカ種の祖先となった。
 イエメン南部の紅海に沿った山岳地域:ティピカとブルボンを含むタイプ。モカに近いこの地域の栽培品種がジャワ島(ティピカ)とレ・ユニオン島=ブルボン島(ブルボン)に移植され、現在世界中で栽培されているアラビカ種の祖先となった。


②ハラー・グループ:
'''②ハラー・グループ''':
 エチオピアからイエメン持ち込まれた野生アラビカ種(エチオピアン・レガシー・グループという)に遺伝子組成が近いグループ。エチオピアのハラー地域の栽培品種。イエメン南部の山岳地帯で栽培されていた品種を、18世紀に再びエチオピアのハラー地域にもち込んだと考えられる。ただ、エチオピアの原生息地の野生種を導入し、栽培した可能性もある。
 エチオピアからイエメン持ち込まれた野生アラビカ種(エチオピアン・レガシー・グループという)に遺伝子組成が近いグループ。エチオピアのハラー地域の栽培品種。イエメン南部の山岳地帯で栽培されていた品種を、18世紀に再びエチオピアのハラー地域にもち込んだと考えられる。ただ、エチオピアの原生息地の野生種を導入し、栽培した可能性もある。


③ニュー・イエメン・グループ:
'''③ニュー・イエメン・グループ''':
 首都サナア周辺のイエメン中・北部のコーヒー栽培地域の栽培品種。市場で評価の高いバニーマタルBani Mattar(マタリ)、ハラーズ、サナアなどは、この栽培地域に位置する。
 首都サナア周辺のイエメン中・北部のコーヒー栽培地域の栽培品種。市場で評価の高いバニーマタルBani Mattar(マタリ)、ハラーズ、サナアなどは、この栽培地域に位置する。


 '''アラビカ種の広がり--ティピカとブルボン'''
=='''アラビカ種の広がり--ティピカとブルボン'''==


 17世紀から18世紀前半にかけて、ティピカ/ブルボン・グループの栽培品種の苗木や種子がモカから持ち出され、世界中の熱帯高地に栽培が広がっていった。
 17世紀から18世紀前半にかけて、ティピカ/ブルボン・グループの栽培品種の苗木や種子がモカから持ち出され、世界中の熱帯高地に栽培が広がっていった。
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 さらに、ティピカ、ブルボンから様々な交配種、突然変異種が生まれ、世界各地で栽培されている。こうして現在生産されているアラビカ種の90%以上はティピカ/ブルボン・グループを起源としている。ティピカとブルボンの栽培の広がりを歴史的にたどると次のようになる。
 さらに、ティピカ、ブルボンから様々な交配種、突然変異種が生まれ、世界各地で栽培されている。こうして現在生産されているアラビカ種の90%以上はティピカ/ブルボン・グループを起源としている。ティピカとブルボンの栽培の広がりを歴史的にたどると次のようになる。


①ティピカ
'''①ティピカ'''
 17世紀末までコーヒー栽培はイエメンが独占していたが、イエメンから持ち出したコーヒーの商業的栽培に最初に成功したのは、オランダ領のジャワ島である。1699年、オランダ領東インド総督ヘンドリック・ヅァーデルクローンHendrik Zwaardekroonが、インドのマラバールから苗木を移入し、バタヴィアBatavia(現在のジャカルタ)近郊の農園への移植に成功、ここから世界へとコーヒー栽培が広がっていった(遺伝子解析によると、ババ・ブダンがインドへ持ち帰ったコーヒーに由来する可能性が高い)。このコーヒーが現在も栽培されているティピカである。19世紀半ばまでの世界の栽培品種のほとんどはティピカ、あるいはティピカ由来の品種である。
 17世紀末までコーヒー栽培はイエメンが独占していたが、イエメンから持ち出したコーヒーの商業的栽培に最初に成功したのは、オランダ領のジャワ島である。1699年、オランダ領東インド総督ヘンドリック・ヅァーデルクローンHendrik Zwaardekroonが、インドのマラバールから苗木を移入し、バタヴィアBatavia(現在のジャカルタ)近郊の農園への移植に成功、ここから世界へとコーヒー栽培が広がっていった(遺伝子解析によると、ババ・ブダンがインドへ持ち帰ったコーヒーに由来する可能性が高い)。このコーヒーが現在も栽培されているティピカである。19世紀半ばまでの世界の栽培品種のほとんどはティピカ、あるいはティピカ由来の品種である。
 ティピカの伝播経路は次のようになる。
 ティピカの伝播経路は次のようになる。
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 ・スリナム・ブラジルルート 1718年:オランダ領スリナム(由来は不明)→1722年:フランス領ガイアナ→1727年:ブラジル(フランシスコ・パリェタFrancisco Palhetaがパラに持ち帰る)。
 ・スリナム・ブラジルルート 1718年:オランダ領スリナム(由来は不明)→1722年:フランス領ガイアナ→1727年:ブラジル(フランシスコ・パリェタFrancisco Palhetaがパラに持ち帰る)。


②ブルボン
'''②ブルボン'''
 1715年に、フランス東インド会社がコーヒーの苗木をモカからブルボン島(現レ・ユニオン島)に持ち込んで移植に成功。この品種は当時の島名にちなんでブルボンと呼ばれる。ブラジルへは19世紀の半ばにアフリカを経由して持ち込まれ(詳細は不明)、1875年頃にサンパウロで栽培し始め、19世紀末にサンパウロの主要栽培品種となった。
 1715年に、フランス東インド会社がコーヒーの苗木をモカからブルボン島(現レ・ユニオン島)に持ち込んで移植に成功。この品種は当時の島名にちなんでブルボンと呼ばれる。ブラジルへは19世紀の半ばにアフリカを経由して持ち込まれ(詳細は不明)、1875年頃にサンパウロで栽培し始め、19世紀末にサンパウロの主要栽培品種となった。


③エチオピアン・エスケープ(エチオピア逃亡種)
'''③エチオピアン・エスケープ(エチオピア逃亡種)'''
 一方、20世紀に入って、エチオピアからの野生種・栽培種が非公式に持ち出され、世界各地で栽培が試みられた。その代表的な成功例がゲイシャgeisshaである。この他、近年ではコロンビアに持ち込まれて栽培に成功したアジaji、チロソchirosoなどの品種も高い評価をえている。今後は、さらにエチオピアやスーダン(ボマ高原)の野生種に由来する栽培品種がスペシャルティ・コーヒー市場に登場し、脚光を浴びる可能性は高い。
 一方、20世紀に入って、エチオピアからの野生種・栽培種が非公式に持ち出され、世界各地で栽培が試みられた。その代表的な成功例がゲイシャgeisshaである。この他、近年ではコロンビアに持ち込まれて栽培に成功したアジaji、チロソchirosoなどの品種も高い評価をえている。今後は、さらにエチオピアやスーダン(ボマ高原)の野生種に由来する栽培品種がスペシャルティ・コーヒー市場に登場し、脚光を浴びる可能性は高い。   (山内秀文)
 
 


'''参照文献''' 
'''参照文献''' 

2024年11月25日 (月) 00:06時点における版

アラビカ種の誕生

 約40〜100万年前にカネフォラ種ユーゲニオイデス種が交配してアラビカ種が誕生したという説が最も有力である。アラビカ種が誕生した場所は、2つの種の生息域が重なるアフリカ中央部アルバート湖の周辺とみられている。  

 その後、最終氷期(約11万〜1万2千年前)をエチオピア高原で生き延び、現在のアラビカ種の祖先となった。原生息地はエチオピア高原の大地溝帯(グレート・リフト・バレーGreat Lift Valley)の東(シダモSidama、ゲデオGedeo地域など)と西(カッファKaffa=ケッファKeffaなど)、南スーダンのボマBoma高原の3地域にほぼ確定している。

 アラビカ種の栽培の始まり--イエメンとエチオピア

 モンタニョンMontagnonらによれば、遺伝子解析から、15世紀半ば、エチオピアの原生息地(シダモ、ゲデオ地域等)の野生アラビカ種がイエメンに持ち込まれ、紅海の西側、南北に広がる山岳地帯で栽培が始まったとする説が有力をなった。イエメンの栽培種は3つのタイプに分かれる。

①ティピカ/ブルボン・グループ:  イエメン南部の紅海に沿った山岳地域:ティピカとブルボンを含むタイプ。モカに近いこの地域の栽培品種がジャワ島(ティピカ)とレ・ユニオン島=ブルボン島(ブルボン)に移植され、現在世界中で栽培されているアラビカ種の祖先となった。

②ハラー・グループ:  エチオピアからイエメン持ち込まれた野生アラビカ種(エチオピアン・レガシー・グループという)に遺伝子組成が近いグループ。エチオピアのハラー地域の栽培品種。イエメン南部の山岳地帯で栽培されていた品種を、18世紀に再びエチオピアのハラー地域にもち込んだと考えられる。ただ、エチオピアの原生息地の野生種を導入し、栽培した可能性もある。

③ニュー・イエメン・グループ:  首都サナア周辺のイエメン中・北部のコーヒー栽培地域の栽培品種。市場で評価の高いバニーマタルBani Mattar(マタリ)、ハラーズ、サナアなどは、この栽培地域に位置する。

アラビカ種の広がり--ティピカとブルボン

 17世紀から18世紀前半にかけて、ティピカ/ブルボン・グループの栽培品種の苗木や種子がモカから持ち出され、世界中の熱帯高地に栽培が広がっていった。

 さらに、ティピカ、ブルボンから様々な交配種、突然変異種が生まれ、世界各地で栽培されている。こうして現在生産されているアラビカ種の90%以上はティピカ/ブルボン・グループを起源としている。ティピカとブルボンの栽培の広がりを歴史的にたどると次のようになる。

①ティピカ  17世紀末までコーヒー栽培はイエメンが独占していたが、イエメンから持ち出したコーヒーの商業的栽培に最初に成功したのは、オランダ領のジャワ島である。1699年、オランダ領東インド総督ヘンドリック・ヅァーデルクローンHendrik Zwaardekroonが、インドのマラバールから苗木を移入し、バタヴィアBatavia(現在のジャカルタ)近郊の農園への移植に成功、ここから世界へとコーヒー栽培が広がっていった(遺伝子解析によると、ババ・ブダンがインドへ持ち帰ったコーヒーに由来する可能性が高い)。このコーヒーが現在も栽培されているティピカである。19世紀半ばまでの世界の栽培品種のほとんどはティピカ、あるいはティピカ由来の品種である。  ティピカの伝播経路は次のようになる。  ・カリブ海・中米ルート ジャワ→1705年:アムステルダム植物園→1714年:パリ王立植物園(アムステルダム市がルイ一四世に献呈)→1723年:マルティニーク島(ガブリエル・ド・クリューによる)→1730年頃:ハイチ(サン=ドマング)→18世紀後半:カリブ海、中米一帯、南米ベネズエラに。  ・スリナム・ブラジルルート 1718年:オランダ領スリナム(由来は不明)→1722年:フランス領ガイアナ→1727年:ブラジル(フランシスコ・パリェタFrancisco Palhetaがパラに持ち帰る)。

②ブルボン  1715年に、フランス東インド会社がコーヒーの苗木をモカからブルボン島(現レ・ユニオン島)に持ち込んで移植に成功。この品種は当時の島名にちなんでブルボンと呼ばれる。ブラジルへは19世紀の半ばにアフリカを経由して持ち込まれ(詳細は不明)、1875年頃にサンパウロで栽培し始め、19世紀末にサンパウロの主要栽培品種となった。

③エチオピアン・エスケープ(エチオピア逃亡種)  一方、20世紀に入って、エチオピアからの野生種・栽培種が非公式に持ち出され、世界各地で栽培が試みられた。その代表的な成功例がゲイシャgeisshaである。この他、近年ではコロンビアに持ち込まれて栽培に成功したアジaji、チロソchirosoなどの品種も高い評価をえている。今後は、さらにエチオピアやスーダン(ボマ高原)の野生種に由来する栽培品種がスペシャルティ・コーヒー市場に登場し、脚光を浴びる可能性は高い。 (山内秀文)  


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