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おもに法律家でにぎわっていたこのコーヒーハウスの常連客の一人に、「コーヒーハウスの父」ヘンリー・ブラントHenrry Blount(旅行記『レヴァントへの航海』を執筆)がいた。また「レインボウ」は、コーヒー焙煎の煙や匂いで近隣に迷惑を及ぼしたことで告発もされている。
おもに法律家でにぎわっていたこのコーヒーハウスの常連客の一人に、「コーヒーハウスの父」ヘンリー・ブラントHenrry Blount(旅行記『レヴァントへの航海』を執筆)がいた。また「レインボウ」は、コーヒー焙煎の煙や匂いで近隣に迷惑を及ぼしたことで告発もされている。


1666年のロンドン大火で、ロンドンの多くのコーヒーハウスが被災したが、この「レインボウ」は焼け残った。さらにジェームズ・ファーは「[[代用貨幣]]」を発行した。その後多くのコーヒーハウスで「代用貨幣」が発行された。
1666年のロンドン大火で、ロンドンの多くのコーヒーハウスが被災したが、この「レインボウ」は焼け残った。さらにジェームズ・ファーは「代用貨幣」を発行した。その後多くのコーヒーハウスで「代用貨幣」が発行された。


1681年にファーは死去したが、「レインボウ」は営業をし続け、18世紀にはフリーメーソンの集まりが開かれていた記録がある。「レインボウ」はその後19世紀中ごろまで営業していたと伝えられている。    (小村嘉人)
1681年にファーは死去したが、「レインボウ」は営業をし続け、18世紀にはフリーメーソンの集まりが開かれていた記録がある。「レインボウ」はその後19世紀中ごろまで営業していたと伝えられている。    (小村嘉人)

2024年12月29日 (日) 05:03時点における最新版

レインボウ・コーヒーハウスRainbow Coffee House

1656年または1657年に、床屋・外科医であったジェイムズ・ファーJamus Farrが開業したロンドンで2番目のコーヒーハウス。場所は市内西部のフリート街 Fleet Street 15番地にあり、以前は看板が虹のマークのタヴァーン(居酒屋)であった。

おもに法律家でにぎわっていたこのコーヒーハウスの常連客の一人に、「コーヒーハウスの父」ヘンリー・ブラントHenrry Blount(旅行記『レヴァントへの航海』を執筆)がいた。また「レインボウ」は、コーヒー焙煎の煙や匂いで近隣に迷惑を及ぼしたことで告発もされている。

1666年のロンドン大火で、ロンドンの多くのコーヒーハウスが被災したが、この「レインボウ」は焼け残った。さらにジェームズ・ファーは「代用貨幣」を発行した。その後多くのコーヒーハウスで「代用貨幣」が発行された。

1681年にファーは死去したが、「レインボウ」は営業をし続け、18世紀にはフリーメーソンの集まりが開かれていた記録がある。「レインボウ」はその後19世紀中ごろまで営業していたと伝えられている。    (小村嘉人)


参照文献:

・William H. Ukers  “ALL ABOUT COFFEE  Second Edition” 1935年

・小林章夫 『コーヒー・ハウス』 駸々堂 1984年

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