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フルミネンセは、リオデジャネイロ州(リオ・デ・ジャネイロ州)の別名で、公式ではないが、広く使用されていた。ブラジルで本格的なコーヒーの栽培が始まり、輸出産業として初めて発展した地域である。 | |||
1770年、マラニョン州のコーヒーの苗木がリオデジャネイロ州に持ち込まれたが、18世紀中はコーヒーの取引価格が安く栽培が広まらなかった。フルミネンセに広まったコーヒー栽培は、1760年にマラニョン州、またはパラー州からカステロ・ブランコ判事がもたらした2本のコーヒー苗木が始まりだとする説もある(『ブラジルコーヒーの歴史』)。 | |||
コーヒー栽培は、フルミネンセを東西に横切って流れるパライバ・デ・ソル川の河岸段丘で始まった。この地域はもともと砂糖キビの大産地だったが、ナポレオン戦争が終結してヨーロッパのコーヒー需要が高まった1815年以降、砂糖キビからコーヒーに栽培を転換し、1820年代半ばには世界最大のコーヒー生産地となった。 | |||
リオ(フルミネンセ)のコーヒー栽培の絶頂期は1850〜70年代で、1880年頃から生産量に翳りが見え始めていたが、1888年の奴隷解放令で奴隷の労働力に頼っていたフルミネンセのコーヒー生産量は激減した。代わってコーヒー生産の中心は移民(イタリア移民が中心)がコーヒー農園の労働の主力となっていたサンパウロ州に急速に移行した。(大西文明、山内秀文) | |||
===== '''参考文献:''' ===== | ===== '''参考文献:''' ===== | ||
* ウィリアムH. | * ウィリアムH.ユーカーズ著『''ALL ABOUT COFFEE second edition''』(1935)山内秀文抄訳 2017年、角川ソフィア文庫 | ||
* 堀部洋生著『ブラジルコーヒーの歴史』いなほ書房,1973 | * 堀部洋生著『ブラジルコーヒーの歴史』いなほ書房,1973 | ||
* Wikipedia:リオ・デ・ジャネイロ | * Wikipedia:リオ・デ・ジャネイロ | ||
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2025年6月12日 (木) 01:24時点における最新版
フルミネンセは、リオデジャネイロ州(リオ・デ・ジャネイロ州)の別名で、公式ではないが、広く使用されていた。ブラジルで本格的なコーヒーの栽培が始まり、輸出産業として初めて発展した地域である。
1770年、マラニョン州のコーヒーの苗木がリオデジャネイロ州に持ち込まれたが、18世紀中はコーヒーの取引価格が安く栽培が広まらなかった。フルミネンセに広まったコーヒー栽培は、1760年にマラニョン州、またはパラー州からカステロ・ブランコ判事がもたらした2本のコーヒー苗木が始まりだとする説もある(『ブラジルコーヒーの歴史』)。
コーヒー栽培は、フルミネンセを東西に横切って流れるパライバ・デ・ソル川の河岸段丘で始まった。この地域はもともと砂糖キビの大産地だったが、ナポレオン戦争が終結してヨーロッパのコーヒー需要が高まった1815年以降、砂糖キビからコーヒーに栽培を転換し、1820年代半ばには世界最大のコーヒー生産地となった。
リオ(フルミネンセ)のコーヒー栽培の絶頂期は1850〜70年代で、1880年頃から生産量に翳りが見え始めていたが、1888年の奴隷解放令で奴隷の労働力に頼っていたフルミネンセのコーヒー生産量は激減した。代わってコーヒー生産の中心は移民(イタリア移民が中心)がコーヒー農園の労働の主力となっていたサンパウロ州に急速に移行した。(大西文明、山内秀文)
参考文献:
- ウィリアムH.ユーカーズ著『ALL ABOUT COFFEE second edition』(1935)山内秀文抄訳 2017年、角川ソフィア文庫
- 堀部洋生著『ブラジルコーヒーの歴史』いなほ書房,1973
- Wikipedia:リオ・デ・ジャネイロ