コンテンツにスキップ

「*コラム:ウィーンの文学カフェ」の版間の差分

提供: コーヒー歴史年表
Komura (トーク | 投稿記録)
コラム 新規作成
 
Komura (トーク | 投稿記録)
編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
[コラム] ウィーンの文学カフェ  
==[コラム] ウィーンの文学カフェ==


 '''ウィーンと「文学カフェ」'''
 '''ウィーンと「文学カフェ」'''
25行目: 25行目:
''' '''18世紀末から19世紀初頭にかけては、ナポレオン軍との戦いや大陸封鎖などの政局が不安定な時期であり、人々が集うカフェに対しての規制が強化された。そのためにカフェでは人々が自由に論議する機会が減った。
''' '''18世紀末から19世紀初頭にかけては、ナポレオン軍との戦いや大陸封鎖などの政局が不安定な時期であり、人々が集うカフェに対しての規制が強化された。そのためにカフェでは人々が自由に論議する機会が減った。


 1813年王政復古を推進するメッテルニヒ体制になり、ビーダーマイヤー時代になると、カフェでも刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになったが、「政治への無関心」「現実逃避」の風潮の中で、人々は「何もしない安心」を感じていた可能性がある。この時代の代表的文学カフェが「カフェ・白銀館」である。
 1813年王政復古を推進するメッテルニヒ体制になり、ビーダーマイヤー時代になると、カフェでも刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになったが、「政治への無関心」「現実逃避」の風潮の中で、人々は「何もしない安心」を感じていた可能性がある。この時代の代表的文学カフェが「[[カフェ・白銀館]]」である。


 1800年ごろに開業した「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」を、店主のイグナーツ・ノイナーは、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようとして、店内を豪華に改造し、銀製品を多く用いた。店も「ズィルバーネス・カフェハウス das silbernes Kaffeehaus 」と呼ばれて、多くの著名人が常連客となり、この時代を代表する「文学カフェ」となった。しかし、店主ノイナーの死後は、文化人・芸術家達は徐々にこの店から離れてしまい、ビーダーマイヤー時代終焉の後の1855年に「カフェ・白銀館」は閉店した。
 1800年ごろに開業した「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」を、店主のイグナーツ・ノイナーは、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようとして、店内を豪華に改造し、銀製品を多く用いた。店も「ズィルバーネス・カフェハウス das silbernes Kaffeehaus 」と呼ばれて、多くの著名人が常連客となり、この時代を代表する「文学カフェ」となった。しかし、店主ノイナーの死後は、文化人・芸術家達は徐々にこの店から離れてしまい、ビーダーマイヤー時代終焉の後の1855年に「カフェ・白銀館」は閉店した。
33行目: 33行目:
 '''19世紀末の「芸術カフェ」繁栄の時代'''
 '''19世紀末の「芸術カフェ」繁栄の時代'''


 19世紀中ごろの政治が激しく変動する中で「カフェ・グリエンシュタイドル」が開業した。1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国の時代になり社会が落ち着きを取り戻すと、このカフェに作家や文化人が集まり始めた。1890年代に入り19世紀末の芸術カフェが花咲く時代になると、文学運動「若きウィーン」の作家たちを始め、多くの文学者や芸術家が集まり「文学カフェ」の様相を呈し、世紀末のウィーンの芸術運動の中心になった。
 19世紀中ごろの政治が激しく変動する中で「[[カフェ・グリエンシュタイドル]]」が開業した。1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国の時代になり社会が落ち着きを取り戻すと、このカフェに作家や文化人が集まり始めた。1890年代に入り19世紀末の芸術カフェが花咲く時代になると、文学運動「若きウィーン」の作家たちを始め、多くの文学者や芸術家が集まり「文学カフェ」の様相を呈し、世紀末のウィーンの芸術運動の中心になった。


 1897年にウィーン市の近代化計画のため「カフェ・グリエンシュタイドル」は閉店した。
 1897年にウィーン市の近代化計画のため「カフェ・グリエンシュタイドル」は閉店した。


その後継となったカフェが「カフェ・ツェントラル」である。1876年の開業当初からこの大型の豪華カフェには文学者や画家が集っていたが、「カフェ・グリエンシュタイドル」のからのメンバーも加わり、19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術活動の拠点になった。
その後継となったカフェが「[[カフェ・ツェントラル]]」である。1876年の開業当初からこの大型の豪華カフェには文学者や画家が集っていたが、「カフェ・グリエンシュタイドル」のからのメンバーも加わり、19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術活動の拠点になった。


 
 


 1920年ごろになり「カフェ・ツェントラル」の常連客達が相次いでこの世を去り、文学カフェとしての勢いが失われると、文学カフェの名は向かいにあったカフェ「カフェ・ヘレンホーフ」に引き継がれた。若い作家や芸術家が集まり、また時代の流れを象徴するように女性客が増えた。さらに移住してきたユダヤ系作家が常連になった。しかし、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合により多くのユダヤ系文化人は国外に亡命して、文学カフェの役割が終わった。
 1920年ごろになり「カフェ・ツェントラル」の常連客達が相次いでこの世を去り、文学カフェとしての勢いが失われると、文学カフェの名は向かいにあったカフェ「[[カフェ・ヘレンホーフ]]」に引き継がれた。若い作家や芸術家が集まり、また時代の流れを象徴するように女性客が増えた。さらに移住してきたユダヤ系作家が常連になった。しかし、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合により多くのユダヤ系文化人は国外に亡命して、文学カフェの役割が終わった。


 (上記の3店の詳細は、年表の1847年「カフェ・グリエンシュタイドル」開業、1876年「カフェ・ツェントラル」開業、1918年「カフェ・ヘレンホーフ」開業のリンク先解説文を参照。)  
 (上記の3店の詳細は、年表の1847年「カフェ・グリエンシュタイドル」開業、1876年「カフェ・ツェントラル」開業、1918年「カフェ・ヘレンホーフ」開業のリンク先解説文を参照。)  

2026年4月1日 (水) 00:12時点における最新版

[コラム] ウィーンの文学カフェ

 ウィーンと「文学カフェ」

 ヨーロッパ諸国では、歴史に名を残す名カフェがそれぞれの時代に存在した。カフェに集った人々は一息つくように、暇をつぶして、書き物をしたり、新聞や雑誌を読み漁ったり、商談をしたり、また論議をしたりしていた。カフェという空間は静かな熱気であふれていて、芸術や文学などの文化を育み、時には政治の歴史的転換点となる舞台ともなった。

 特に作家、文学者、ジャーナリスト達はカフェという空間の中で、人との出会いを求めて、談笑してさらに議論を戦わせて自身を深めていった。ある作家はここで作品を仕上げたこともあった。このような文化人が集ったカフェが「文学カフェ」と呼ばれた。

 昨今を問わずウィーンの人々はよくカフェを利用する。「ウィーンほど、カフェが時代に食い込み、洗練され人々に影響を及ぼした都市はほかにない。(ヴォルフガング・ユンガー著 『カフェハウスの文化史』 より)」といわれるほどウィーンの人々とカフェとの関連は深い。そしてこのウィーンでも、文化人たちは時代ごとの名「文学カフェ」を築いた。

 ウィーン最初の文学カフェ「カフェ・クラーマー」

 ウィーンで最初の文学カフェといわれている「カフェ・クラーマー」は18世紀後半に誕生した。啓蒙主義思想の影響を受けて数々の近代化政策を行った皇帝ヨーゼフ二世(在位:1765年-1790年 マリア・テレジアの子でマリー・アントワネットの兄)の時代である。

 「カフェ・クラーマー Café Kramer」:

 1720年にヤーコブ・クラーマー Jacobs Kramer が市の中心部シュロッサー小路 Schlosser -gasseで開業。

 1771年に3代目店主のヘルトル夫妻は、新聞や雑誌に対しての検閲の規制緩和政策を察知して、店内に新聞・雑誌を数多く常備して多くの学者や文化人を引き寄せた。店は穴倉のような空間であり、席も20ほどしかなかったが、蠟燭の灯りの中、常連客が集う読書サロンとなった。薄暗い空間は文人たちには居心地が良かったようであり、文学者コルネリウス・ヘルマン・フォン・アイレンホフ Cornelius Herumann von Ayrenhoff、オーストリア帝国国歌の作詞者ロレンツ・レオポルト・ハシュカ Lorenz Leopold Haschka、風刺作家ヨハン・ラウテンシュトラウフ Johann Rautenstrauchなどのヨーゼフィニスムス(ヨゼフ二世の政策や思想)に共感する人々が集った。

 しかし、1791年皇帝フランツ二世(在位:1792年-1806年 最後の神聖ローマ皇帝、初代オーストリア皇帝 在位:1804年-1835年 も兼ねた)の時代になると、フランス革命思想の流入を防ぐために再び言論統制が厳しくなり、新聞や雑誌の検閲が強化されて「カフェ・クラーマー」を支えた人々も店を去っていった。店は人手に渡り改装をして新しい客を得ようとしたが文学カフェとしての機能はなくなった。都市の改造により1865年ごろにはカフェの建物自体が取り壊された。

 ビーダーマイヤー時代の文学カフェ「カフェ・白銀館」:

 18世紀末から19世紀初頭にかけては、ナポレオン軍との戦いや大陸封鎖などの政局が不安定な時期であり、人々が集うカフェに対しての規制が強化された。そのためにカフェでは人々が自由に論議する機会が減った。

 1813年王政復古を推進するメッテルニヒ体制になり、ビーダーマイヤー時代になると、カフェでも刺激的な会話は少なく、新聞も政治に控えめなものだけになったが、「政治への無関心」「現実逃避」の風潮の中で、人々は「何もしない安心」を感じていた可能性がある。この時代の代表的文学カフェが「カフェ・白銀館」である。

 1800年ごろに開業した「カフェ・ノイナー Cafe Neuner」を、店主のイグナーツ・ノイナーは、「黄金の自由」がないことを「銀の館」で満足しようとして、店内を豪華に改造し、銀製品を多く用いた。店も「ズィルバーネス・カフェハウス das silbernes Kaffeehaus 」と呼ばれて、多くの著名人が常連客となり、この時代を代表する「文学カフェ」となった。しかし、店主ノイナーの死後は、文化人・芸術家達は徐々にこの店から離れてしまい、ビーダーマイヤー時代終焉の後の1855年に「カフェ・白銀館」は閉店した。

 (詳細はリンク先解説文「カフェ・白銀館」を参照。)

 19世紀末の「芸術カフェ」繁栄の時代

 19世紀中ごろの政治が激しく変動する中で「カフェ・グリエンシュタイドル」が開業した。1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国の時代になり社会が落ち着きを取り戻すと、このカフェに作家や文化人が集まり始めた。1890年代に入り19世紀末の芸術カフェが花咲く時代になると、文学運動「若きウィーン」の作家たちを始め、多くの文学者や芸術家が集まり「文学カフェ」の様相を呈し、世紀末のウィーンの芸術運動の中心になった。

 1897年にウィーン市の近代化計画のため「カフェ・グリエンシュタイドル」は閉店した。

その後継となったカフェが「カフェ・ツェントラル」である。1876年の開業当初からこの大型の豪華カフェには文学者や画家が集っていたが、「カフェ・グリエンシュタイドル」のからのメンバーも加わり、19世紀末から20世紀初頭のウィーンの芸術活動の拠点になった。

 

 1920年ごろになり「カフェ・ツェントラル」の常連客達が相次いでこの世を去り、文学カフェとしての勢いが失われると、文学カフェの名は向かいにあったカフェ「カフェ・ヘレンホーフ」に引き継がれた。若い作家や芸術家が集まり、また時代の流れを象徴するように女性客が増えた。さらに移住してきたユダヤ系作家が常連になった。しかし、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合により多くのユダヤ系文化人は国外に亡命して、文学カフェの役割が終わった。

 (上記の3店の詳細は、年表の1847年「カフェ・グリエンシュタイドル」開業、1876年「カフェ・ツェントラル」開業、1918年「カフェ・ヘレンホーフ」開業のリンク先解説文を参照。)

  現在につながる文学カフェ

 第一次世界大戦の敗戦、ナチス・ドイツによる併合とウィーンは政治不安の時代を迎えたが、その混乱の中、1939年に小さな薄暗いカフェ「カフェ・ハヴェルカ」が誕生した。

 「カフェ・ハヴェルカ Café Hawelka」:

 ボヘミア出身のハヴェルカ夫妻が市の中心部ドロテーア小路 Dorotheergasseで開業。ただし、折からの第二次世界大戦の勃発で夫が出征し、当初は婦人一人で店を切り盛りし、本格的にカフェが営業し始めたのは戦後になってからである。

 店に転機が訪れたのは1950年代入ってからであり、若い作家や芸術家が出入りを始めて、店の評判が瞬く間に広がった。ドイツ人作家ギュンター・グラス Günter Grass 、アメリカ人小説家ヘンリー・ミラー Henry Valentine Miller も訪れ、「現代版文学カフェ」となった。

 三代目となった現在もカフェの人気は衰えず、文化人にとっては特別な空間となっており、夜遅くまで論議を交わすジャーナリストたちの姿が見られる。

(現住所:Dorotheergasse 6 , 1010 Wien)

                              (小村嘉人)

参照文献: 

・菊盛英夫著『文学カフェ』中公新書, 1980

・平田達治著『ウィーンのカフェ』大修館書店, 1996

・クラウス・ティーレ=ドールマン著『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳大修館書店, 2000

・田部井朋見著『ウィーンのカフェハウス』東京書籍,2007年