コラム:18世紀ロンドンの居酒屋事情

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18世紀ロンドンの居酒屋事情

居酒屋の始まり

 イギリスの居酒屋の歴史は、イン innとタヴァーン tavernから始まる。移動がもっぱら徒歩か馬車であり、時間も要したために、街道沿いや都市の入り口には多くの宿泊施設であるインが作られた。宿泊施設には当然飲食の施設があり、泊り・食べ・飲み・遊ぶ場所であり、酒場と宿屋が一体化した時代が長く続いた。

またローマ時代のタベルナtavernaを起源とするタヴァーンは、近隣の住民が集まり飲食を楽しんだ場所であったが、宿泊施設付きのタヴァーンもあり、両者の区分はあまりなかった。

さらにイギリスではワインだけではなく、エール(大麦麦芽から作られる上面発酵のビールの一種で、当初はホップを使用していない)を提供するエールハウス alehouse があり、やがてこれらはまとめてパブ pub と呼ばれるようになった。

イン・タヴァーン・パブは仲間との交流を深める重要な場所で、特に地方では、その地域社会の中心的役割を果たしていた。また17世紀までは身分の差がなく集える場所であったが、貧富の差が大きくなった17世紀後半からは、異なる身分の者が酒を酌み交わすことはなくなっていった。


 上流階級とクラブ

17世紀後半の社交の中心となったのはコーヒーハウスで、18世紀初めまではさまざまな階層の男性たちが訪れていた。しかし、18世紀半ばになると貴族や上流階級の人々の社交の場は、クラブ化した特定のコーヒーハウス、タヴァーンやパブへと移り、店ごとに特定の集団のみが集まるようになり、閉鎖的になっていく。こうしてコーヒーハウスは開かれた社交の場であることをやめ、しだいに一般市民の生活から離れていった。

客が特定化したコーヒーハウスは、共通の趣味・思想・利害関係を持った同志が集まり飲食ができる「場所としてのクラブ」に変化していった。クラブ化したコーヒーハウスでは、従来は提供していなかった食事や酒が必須となり、タヴァーンやパブに転換する店も多かった。

18世紀のクラブの動きは、19世紀以降の紳士の社交場として、クラブ・ハウスを持った数々の名門クラブ誕生のきっかけになっている。


中産階級と「ビール街」

コーヒーハウスの全盛時代だった17世紀後半でも、中産階級や定職を持った労働者階級の人々はエールハウスや大衆タヴァーンの利用が多かった。ビールが健康に良いとされており、コーヒーハウスが衰退する一方で、パブには活気があふれ人々は浴びるようにビールを飲んだ。この様子はホガースの版画「ビール街とジン横丁」の「ビール街」で描写されている。

 貧富の差が著しくなったこの当時の酒場は、身分や社会的地位によって細分化され、上流・中流・下流の席は壁で仕切られていたという。上流階級が徐々にクラブに移るなかで、酒場は労働者の社交の場に変化をし、19世紀以降のパブPublic House の興隆につながっていく。


 貧困層と「ジン横丁」

 一方で貧困層の「狂気のジン時代 Gin Craze」は地獄であった。17世紀後半から政府の指導がありジンの生産量が増えると、タヴァーン・パブだけではなく、雑貨屋やタバコ屋また手押し車での売り子など、街のいたるところでジンが売られるようになった。値段も安く、粗悪品(なんの植物の根から作られたか不明の蒸留酒)も多く、体を悪くすることを知りながら、貧しい人々はひと時の安らぎと冬の寒さを凌ぐためジンを求めた。結果はホガースの版画「ビール街とジン横丁」の「ジン横丁」の描写である。政府はジン法を制定するが、「狂乱のジン時代」が終焉しタヴァーン・パブに秩序が戻るまでには相当の時間を要した。 (小村嘉人)


参照文献:

・小林章夫 『図説 ロンドン都市物語』 河出書房新社 1998年

・Wikipedia:  Pub  (英語版)

・Wikipedia: Tavern  (英語版)

・Wikipedia: Beer Street and Jin Lane (英語版)

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