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「セイロン島(スリランカ)」の版間の差分

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== '''セイロン島(スリランカ)'''    ==
== '''セイロン島Ceylon(スリランカSri Lanka)'''    ==
 インド南西部ベンガル湾に位置する島。島の南部は2000m級の山岳・高原地域で、コーヒーや茶の生育適地。   セイロン島は16世紀初めからポルトガルの植民地となったが、1658年にオランダがポルトガルを破って、島の海岸地域を植民地化した。この年、オランダはモカからコーヒーをこの島に移植したとされる。  
   
1948年、イギリスから独立。1972年にセイロンから現在のスリランカ民主社会主義共和国に改名。首都コロンボ。


 18世紀末以降、セイロン島はオランダに代わりイギリスの植民地へと移る。イギリスは19世紀に入ると南部の高地で積極的にコーヒー栽培をおし進め、19世紀半ばには世界第3位のコーヒーの産地となった。しかし、1867年にさび病が持ち込まれて蔓延したため徐々に茶の栽培に転換し、20世紀以降は茶(紅茶)の一大生産地となっている。現在ではほとんどコーヒーは生産されていない。
ポーク海峡を挟んでインドの南東に位置する島国。中央部から南部にかけて2000m級の中央高地が広がる。中央高地の南部のウバ州や中部州ヌアラエリアは茶の一大産地となっている。茶はスリランカの主要輸出品で、生産量は世界第4位。


1948年に独立。1972年にセイロンからスリランカ共和国に改称した。
=== '''コーヒー栽培の歴史--さび病以前''' ===
1505年からポルトガルの植民地。1658年にポルトガルに代わりオランダがセイロンを支配し、植民地とした。


1658年に植民地としたオランダが[[モカ]]からコーヒーを移植したとされるが、その後栽培が続いたという記録はない。


== '''参照文献''': ==
オランダの植民地時代に、コーヒーの栽培は[[ジャワ]]島に先がけて1690年頃に始まったとされるが、実際にオランダ本国への輸出の記録が残るのは1722年である。18世紀中オランダが南部の海岸地域でコーヒー栽培を続けたが、同じオランダ領のジャワに比べれば極めて小規模だった。


* ウィリアム・H・ユーカーズ著ALL ABOUT COFFEE』 山内秀文抄訳 2017年 角川ソフィア文庫
1815年、セイロン島はオランダからイギリスへと支配が移る。当初はコーヒー栽培に進展はなかったが、1830年代なると大規模な投資が行われ、中央部から南部に広がる高地の森林を切り開いてコーヒー・プランテーションが開発された。1840年頃からはコーヒーの生産が急速に拡大、1860年にはブラジル、ジャワに次ぐ世界第3位の生産国となった。
 
この間、栽培・精製関係の技術開発も積極的に進め、水洗式の精製法も他の生産国に先駆けて導入し、品質面でも高い評価を受けていた。
 
=== '''コーヒー栽培の歴史---さび病パンデミック以降''' ===
1869年、このセイロン島で初めて[[さび病]]が発生、次第に全島に蔓延してコーヒー栽培に甚大な被害を及ぼした。それでも1880年頃まではコーヒー生産は拡大したが、リベリカ種の導入などのさび病対策も効果が見られず、プランテーションは徐々に茶の栽培に切り替えられ、20世紀初頭にはセイロンのコーヒー栽培は、ほぼ消滅した。
 
さび病は、セイロンからインド、インドネシアへと飛び火してコーヒー生産に大きな打撃を与えた。現在ではその被害は全コーヒー生産国に及んでいる。
 
いったん消滅したスリランカのコーヒー栽培は1960年代後半から復活したがごく小規模で、その後も生産量の際立った増加はみられず、21世紀に入っても生産は横ばい状況である。 (大西文明、山内秀文)
 
 
==='''参照文献'''===
 
・Wringley, Gordon''"Coffee"'' 1988, New York
 
・Wikipedia:Coffee production in Sri Lanka(英語版)
 
・ウィリアム・H・ユーカーズ著『ALL ABOUT COFFEE』2017年 山内秀文抄訳 角川ソフィア文庫
 
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セイロン島Ceylon(スリランカSri Lanka)  

1948年、イギリスから独立。1972年にセイロンから現在のスリランカ民主社会主義共和国に改名。首都コロンボ。

ポーク海峡を挟んでインドの南東に位置する島国。中央部から南部にかけて2000m級の中央高地が広がる。中央高地の南部のウバ州や中部州ヌアラエリアは茶の一大産地となっている。茶はスリランカの主要輸出品で、生産量は世界第4位。

コーヒー栽培の歴史--さび病以前

1505年からポルトガルの植民地。1658年にポルトガルに代わりオランダがセイロンを支配し、植民地とした。

1658年に植民地としたオランダがモカからコーヒーを移植したとされるが、その後栽培が続いたという記録はない。

オランダの植民地時代に、コーヒーの栽培はジャワ島に先がけて1690年頃に始まったとされるが、実際にオランダ本国への輸出の記録が残るのは1722年である。18世紀中オランダが南部の海岸地域でコーヒー栽培を続けたが、同じオランダ領のジャワに比べれば極めて小規模だった。

1815年、セイロン島はオランダからイギリスへと支配が移る。当初はコーヒー栽培に進展はなかったが、1830年代なると大規模な投資が行われ、中央部から南部に広がる高地の森林を切り開いてコーヒー・プランテーションが開発された。1840年頃からはコーヒーの生産が急速に拡大、1860年にはブラジル、ジャワに次ぐ世界第3位の生産国となった。

この間、栽培・精製関係の技術開発も積極的に進め、水洗式の精製法も他の生産国に先駆けて導入し、品質面でも高い評価を受けていた。

コーヒー栽培の歴史---さび病パンデミック以降

1869年、このセイロン島で初めてさび病が発生、次第に全島に蔓延してコーヒー栽培に甚大な被害を及ぼした。それでも1880年頃まではコーヒー生産は拡大したが、リベリカ種の導入などのさび病対策も効果が見られず、プランテーションは徐々に茶の栽培に切り替えられ、20世紀初頭にはセイロンのコーヒー栽培は、ほぼ消滅した。

さび病は、セイロンからインド、インドネシアへと飛び火してコーヒー生産に大きな打撃を与えた。現在ではその被害は全コーヒー生産国に及んでいる。

いったん消滅したスリランカのコーヒー栽培は1960年代後半から復活したがごく小規模で、その後も生産量の際立った増加はみられず、21世紀に入っても生産は横ばい状況である。 (大西文明、山内秀文)


参照文献

・Wringley, Gordon"Coffee" 1988, New York

・Wikipedia:Coffee production in Sri Lanka(英語版)

・ウィリアム・H・ユーカーズ著『ALL ABOUT COFFEE』2017年 山内秀文抄訳 角川ソフィア文庫

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