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'''「カフェ・クラーマー Cafe Kramer'''([[ | '''「カフェ・クラーマー Cafe Kramer'''([[*コラム:ウィーンの文学カフェ]]参照)'''」:''' | ||
1720年市の中心部シュロッサー小路で開業した20席ほどの穴倉のようなカフェ。多くの新聞が取りそろえられており、常連客が蝋燭の灯りの中に読書サロンとして利用した。ウィーンで最初の文学カフェであったが、ビーダーマイヤーの時代にはその機能は下火になった。 | 1720年市の中心部シュロッサー小路で開業した20席ほどの穴倉のようなカフェ。多くの新聞が取りそろえられており、常連客が蝋燭の灯りの中に読書サロンとして利用した。ウィーンで最初の文学カフェであったが、ビーダーマイヤーの時代にはその機能は下火になった。 | ||
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シュテファン寺院の近くジンガー通り Singerstraßeにあったカフェ。シューベルトはこのカフェを「付けが効く」という理由から贔屓にしていた。また友人を集めてここで演奏会を開いた。この集まりはシューベルティアーデと呼ばれた。 | シュテファン寺院の近くジンガー通り Singerstraßeにあったカフェ。シューベルトはこのカフェを「付けが効く」という理由から贔屓にしていた。また友人を集めてここで演奏会を開いた。この集まりはシューベルティアーデと呼ばれた。 | ||
'''ヨーゼフ・ランナー Joseph Lanner :''' | '''ヨーゼフ・ランナー Joseph Lanner :''' | ||
1801年ウィーン郊外のザンクト・ウルリヒ Sankt Ulrich (現ウィーン7区)生まれ。ヴァイオリンを独学でマスターしウィンナ・ワルツの基礎を築いた。生涯で400曲以上のワルツやポルカを作曲したヨーゼフは、ヨハン・シュトラウス一世とは「ワルツ合戦」と呼ばれる競争を繰り広げた朋友でありライバルでもあり、シェーンブルン宮殿近くの'''「カフェ・ドムマイヤー Cafe Dommayer''' | 1801年ウィーン郊外のザンクト・ウルリヒ Sankt Ulrich (現ウィーン7区)生まれ。ヴァイオリンを独学でマスターしウィンナ・ワルツの基礎を築いた。生涯で400曲以上のワルツやポルカを作曲したヨーゼフは、ヨハン・シュトラウス一世とは「ワルツ合戦」と呼ばれる競争を繰り広げた朋友でありライバルでもあり、シェーンブルン宮殿近くの'''「カフェ・ドムマイヤー Cafe Dommayer''' ([[*コラム②:ウィーンのカフェ・コンセール]]参照)'''」'''でしばしばコンサートを催した。 | ||
'''ヨハン・シュトラウス一世 Johann Strauss Ⅰ:''' | '''ヨハン・シュトラウス一世 Johann Strauss Ⅰ:''' | ||
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'''ヨハン・シュトラウス二世 Johann Strauss Ⅱ :''' | '''ヨハン・シュトラウス二世 Johann Strauss Ⅱ :''' | ||
[[ファイル:Johannstraussadvert.jpg|サムネイル|「カフェ・ドムマイヤー」でのデビューコンサートの新聞広告 Wikipedia ヨハン・シュトラウスⅡ より]] | [[ファイル:Johannstraussadvert.jpg|サムネイル|「カフェ・ドムマイヤー」でのデビューコンサートの新聞広告 Wikipedia ヨハン・シュトラウスⅡ より]] | ||
1825年ウィーン郊外のザンクト・ウルリヒ Sankt Ulrich (現ウィーン7区)生まれ。父の影響で幼少期から音楽にあこがれを抱いていたが、父は息子を音楽家にさせるつもりはなかった。しかし修行を重ねたヨハンは1844年にシェーンブルン宮殿近くの'''「カフェ・ドムマイヤー」'''でデビューコンサートを開いた。プラーター Praterの'''「第二カフェ館''' | 1825年ウィーン郊外のザンクト・ウルリヒ Sankt Ulrich (現ウィーン7区)生まれ。父の影響で幼少期から音楽にあこがれを抱いていたが、父は息子を音楽家にさせるつもりはなかった。しかし修行を重ねたヨハンは1844年にシェーンブルン宮殿近くの'''「カフェ・ドムマイヤー」'''でデビューコンサートを開いた。プラーター Praterの'''「第二カフェ館'''([[*コラム②:ウィーンのカフェ・コンセール]]参照)'''」'''でも演奏会を催した記録がある。その後は演奏会、作曲活動ととにかく忙しかったようであり、カフェでくつろぐ時間はほとんどなく、1850年には過労のために重篤な状況にまでなったといわれている。ヨハンの人気は絶大であり、ヨーロッパ各地だけでなく、ロシア、アメリカでも演奏会を開いた。1899年の死後も人気は衰えなく、現在でも「ワルツの王」と呼ばれている。 | ||
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[コラム] 作曲家たちが通ったウィーンのカフェ
18世紀後半から19世紀にかけて、さらにビーダーマイヤーの時代には、後世に名を残す多くの作曲家がウィーンに集まった。また、19世紀後半からの「芸術カフェ」繁栄の時代にはさらに多くの作曲家たちがウィーンに集まり、今も続く「音楽の都」と呼ぶにふさわしい様相であった。この作曲家たちには、他の文学者や知識人と同様にお気に入りのカフェがある。ここにウィーンで活躍した作曲家たちの贔屓にしていたカフェを紹介してみたい。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart :
1756年ザルツブルグ(当時はオーストリア帝国ではなく神聖ローマ帝国の都市)生まれ。ヨーロッパ各地を訪れ、1781年にウィーンに移住。1791年に35歳で病死するまで、ウィーンを拠点に活躍した。「カフェ・ラング」の常連である。
「カフェ・ラング Cafe Lang 」:
1780年前後にヨハン・ラング Johann Langがヨーゼフシュタット Josefatadt(現第8区)で開業をした。近くには1788年に建設されたウィーンで最古の「ヨーゼフシュタット劇場」がある。モーツァルトは大のワイン好きで、郊外のホイレゲに出かけ、その帰りには必ずここに立ち寄った。店は1893年に閉店し、その後、一時期、巨匠の名にちなんで「カフェ・モーツァルト」という名のカフェの営業があった。因みに、現在のアルベルティーナ広場にある「カフェ・モーツァルト」は「カフェ・ラング」との関連はなく名前だけが引き継がれた。
また、「ヤーンの宮廷料理店(現在のカフェ・フラウエンフーバー Cafe Frauen-hubaer)」で演奏会が催された記録が残っている。
ルードリッヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven:
1770年ボン(神聖ローマ帝国)生まれ。1792年にウィーンに移ったころから徐々に名声を上げていった。その功績は大であり、のちの作曲家に多くの影響を与えた。1827年に病死。ベートーヴェンは大のコーヒー好きで、行きつけのカフェもが多かった。

「カフェ・アンゼルム Cafe Anselm」:
ウィーン市東部の第3区ラントシュトラーセにあった。
「カフェ・クラーマー Cafe Kramer(*コラム:ウィーンの文学カフェ参照)」:
1720年市の中心部シュロッサー小路で開業した20席ほどの穴倉のようなカフェ。多くの新聞が取りそろえられており、常連客が蝋燭の灯りの中に読書サロンとして利用した。ウィーンで最初の文学カフェであったが、ビーダーマイヤーの時代にはその機能は下火になった。
「カフェ・タローネ Cafe Tallone」:
市の中心部グラーベン街で1748年に開業。現在の「ウィーンの伝統的カフェ」の定番である「シャニガルテン(テーブルや椅子を中庭などの屋外に置くテラス席)」を設置した最初の店。
「カフェ・白銀館 das silbernes Kaffeehaus」:
ベートーヴェンは劇作家のフランツ・グリルパルツァーとは住まいが隣の時期があり、彼が常連であった「カフェ・白銀館」によく顔を出した。
「ヤーンの宮廷料理店」:
この店のサロンで演奏会を開いた記録がある。1891年以降は「カフェ・フラウエンフーバー Cafe Frauenhubaer 」として現在も営業しているこの店には、ベートーヴェン直筆のサインがある。
フランツ・シューベルト Franz Peter Schubert:
1797年ウィーン郊外のリヒテンタール Lichtental(現ウィーン第9区)の生まれで、1828年に没するまでウィーンを中心に暮らしていたが、存命中の生活は豊かではなかった。
「カフェ・ボーグナー Cafe Bogner」:
シュテファン寺院の近くジンガー通り Singerstraßeにあったカフェ。シューベルトはこのカフェを「付けが効く」という理由から贔屓にしていた。また友人を集めてここで演奏会を開いた。この集まりはシューベルティアーデと呼ばれた。
ヨーゼフ・ランナー Joseph Lanner :
1801年ウィーン郊外のザンクト・ウルリヒ Sankt Ulrich (現ウィーン7区)生まれ。ヴァイオリンを独学でマスターしウィンナ・ワルツの基礎を築いた。生涯で400曲以上のワルツやポルカを作曲したヨーゼフは、ヨハン・シュトラウス一世とは「ワルツ合戦」と呼ばれる競争を繰り広げた朋友でありライバルでもあり、シェーンブルン宮殿近くの「カフェ・ドムマイヤー Cafe Dommayer (*コラム②:ウィーンのカフェ・コンセール参照)」でしばしばコンサートを催した。
ヨハン・シュトラウス一世 Johann Strauss Ⅰ:
1804年ウィーンのレオポルトシュタット Leopoldstadt生まれ。幼くして孤児となったヨハンは近所の人からヴァイオリンの手ほどきを受けた後、流しの楽師、楽団の奏者を経て自分の楽団を持った。後に「ワルツの父」と呼ばれたヨハンがどこのカフェに出入りしていたかは定かではないが、ヨーゼフ・ランナーとともに「カフェ・ドムマイヤー 」でしばしばコンサートを催した。
リヒャルト・ワーグナー Wilhelm Richard Wagner :
1813年ライプツィヒ Leipzig(当時はザクセン王国)生まれ。音楽好きの家族のもとで若い時から音楽家を目指し、特にウェーバー、ベートーヴェンの影響を受けた。歌劇作曲家、楽団指揮者としてドレスデン、ロンドン、パリと渡り歩いていたが,ウィーンに在住したことはない。社会情勢が目まぐるしく変わる時期であったが、社会が落ち着いていた時期にウィーンを訪れた際には、「カフェ・グリエンシュタイドル Cafe Griensteidl 」に通っていた記録が残されており、ヨハン・シュトラウス二世とも交流があったとされる。ワーグナーは晩年にはバイロイトに祝祭劇場を建設して、今も続いているバイロイト音楽祭では現在でもワーグナー一族が担っている。
アントン・ブルックナー Anton Bruckner :
1824年オーストリア中部リンツ近郊のアンスフェルデン Ansfelden 生まれ。教師であり音楽家でもあった父の影響で、幼少の時から音楽の才能を示した。教師、リンツ大聖堂のオルガニストを務めながら作曲活動をしていたこの時期には、たびたびウィーンを訪れて勉学に励んだ。この時期にウィーンで訪れたカフェは「カフェ・グリエンシュタイドル」と思われる。ウィーンに定住したのは1868年になってからで、国立音楽院の教授となり作曲活動にも精を出したが、地位が安定したのは晩年になってからといわれている。「カフェ・インペリアル Cafe Imperial 」には1873年の開業当初から通っていた記録がある。
ヨハン・シュトラウス二世 Johann Strauss Ⅱ :

1825年ウィーン郊外のザンクト・ウルリヒ Sankt Ulrich (現ウィーン7区)生まれ。父の影響で幼少期から音楽にあこがれを抱いていたが、父は息子を音楽家にさせるつもりはなかった。しかし修行を重ねたヨハンは1844年にシェーンブルン宮殿近くの「カフェ・ドムマイヤー」でデビューコンサートを開いた。プラーター Praterの「第二カフェ館(*コラム②:ウィーンのカフェ・コンセール参照)」でも演奏会を催した記録がある。その後は演奏会、作曲活動ととにかく忙しかったようであり、カフェでくつろぐ時間はほとんどなく、1850年には過労のために重篤な状況にまでなったといわれている。ヨハンの人気は絶大であり、ヨーロッパ各地だけでなく、ロシア、アメリカでも演奏会を開いた。1899年の死後も人気は衰えなく、現在でも「ワルツの王」と呼ばれている。
ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms :
1833年ハンブルク Hamburg (当時はドイツ連邦)生まれ。早熟なピアニストとして腕は確かであったが、生家が貧しかったために食堂や居酒屋で演奏し家計を支えた。作曲活動もしていたが、若いころの作品はあまり残っていない。1862年に指揮者としてウィーンに招かれたのちにウィーンに定住し、後世に残る4つの交響曲やレクイエムを作曲した。ブルックナー同様「カフェ・インペリアル」に1873年の開業当初から通っていた記録がある。
フーゴ・ヴォルフ Hugo Wolf :
1860年当時のオーストリア帝国シュタイアーマルク Steiermark州(現在のスロベニア、スロヴェニ・クラデツ Slovenj Gradec)生まれ。音楽愛好家の父からピアノとヴァイオリンを学び、1875年にウィーン音楽院に入学したが、生活が苦しく音楽評論家の道に進んだ。ヴォルフの評論は、当時のウィーンの音楽界で話題となっていた、ワーグナー派とブラームス派の対立に便乗するかのように、ワーグナー賛美、ブラームス拒否であった。その後肉体的、精神的病の中、作曲活動に没頭し、名歌曲を生み出してドイツ歌曲の頂点といわれる作曲家になったが、精神の病のために1903年42歳で没した。生前1880年代~90年代に「カフェ・グリエンシュタイドル」さらには「カフェ・ツェントラル Cafe Central」にも出入りをしていた。
グスタフ・マーラー Gustav Mahler :
1860年当時のボヘミア王国イーグラウ Iglau (現在のチェコ、イフラヴァ Jihlava )生まれ。ユダヤ人一家であったが、当時はまだドイツ人との民族対立は少なく、子供のころにはキリスト教会の合唱団に属して、アコーディオンやピアノにも触れていた。1872年にウィーン楽友協会音楽院、1877年にウィーン大学に入学。卒業後は苦労したが、作曲活動をしながら1883年ライプツィヒ市立劇場、1897年ウィーン宮廷歌劇場、1898年ウィーン・フィルの指揮者となった。シェーンベルクと友好関係にあり、ともに「カフェ・インペリアル」に出入りをしていた。またウィーン分離派の画家たちと交流があったことから、「カフェ・ムゼウム Cafe Museum」「カフェ・シュペール Cafe Sperl」に出入りをしていたと推測される。晩年は反ユダヤの影響でアメリカに拠点を移した。
フランツ:レハール Franz Lehár :
1870年当時のオーストリア=ハンガリー帝国のコマーロム Komárom (現在はハンガリー)生まれ。プラハ音楽院でドボルザークに学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビューした。20世紀初頭の「芸術カフェ」繁栄の時代に「カフェ・ムゼウム」や「カフェ・シュペール」に出入りをしていた。妻がユダヤ人であるにもかかわらず、アドルフ・ヒトラーがレハール作曲の「メリー・ウィドウ」が好きであったために、ナチスの庇護を受けたことは有名である。
アルノルト・シェーンベルク Arnold Franz Walter Schönberg :
1874年ウィーンの生まれであるが両親はユダヤ人であった。幼少のころよりヴァイオリンとチェロを学ぶが、経済的に苦しい時期に銀行員を経験した。1895年に音楽家として独立した後は、アマチュア合唱団の指揮者やオーケストラの団員を経て作曲活動を始めた。19世紀末のウィーンで「カフェ・グリエンシュタイドル」や「カフェ・インペリアル」に出入りしていた記録がある。後に「無調」「十二音音楽」を確立するがナチス・ドイツから逃れ、1934年にアメリカへ移住した。
アルバン・ベルク Alban Maria Johannes Berg :
1885年ウィーン生まれ。実家は裕福な商家であったが、父の死後は波乱万丈少年時代であった。独学で作曲を試み、1904年に作品をシェーンベルクに持ち込み、交友関係(師弟関係)が生まれた。ウィーン国立音楽院で学んだ後に作曲活動に従事して、「十二音技法」による作品を数多く残した。師であるシェーンベルクとともに「カフェ・インペリアル」に出入りをしていた
(小村嘉人)
参照文献:
・菊盛英夫 『文学カフェ』中公新書,1980年
・平田達治 『ウィーンのカフェ』大修館書店,1996年
・クラウス・ティーレ=ドールマン 『ヨーロッパのカフェ文化』平田達治・友田和秀訳 大修館書店,2000年
・『新訂標準音楽辞典 第二版』 音楽之友社 2008年