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*コラム:インドネシアのコーヒー栽培(始まりから現在まで)

提供: コーヒー歴史年表
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ジャワ島でのコーヒー栽培の始まり(18世紀)

1696年に、オランダ軍司令官アドリアン・ファン・オメンがアラビカ種をインドのマラバールからこのバタヴィア(現在のジャカルタ)を経由して持ち込まれた。 「ポンドック・コピ(東ジャカルタ)」で栽培・発展させられたが、洪水によってすべて枯れてしまった。 その後、1699年に再び新しい苗木が持ち込まれ、やがてジャカルタ周辺や西ジャワ、特にプリアンガン地方で広まり、っていった。18世紀半ばにはスマトラ、バリ、スラウェシ、ティモールなどインドネシア諸島の各地へと広がった行った伝わり、19世紀初めからスマトラやセレベスからの輸出が開始されている。

その後、コーヒーはVOC(オランダ東インド会社)にとって非常に重要な貿易商品となった。1706年にはジャワコーヒーがオランダのアムステルダムで研究され、その研究成果は1714年にオランダによって紹介され、ルイ14世のもとでパリ植物園に植えらた。

インドネシア産コーヒーの最初の輸出は1711年にVOCによって行われ、その後10年の間に年間60トンにまで増加した。当時のオランダ領東インドは、イエメンとエチオピア以外では最初のコーヒー生産地域となり、その結果VOCは1725年から1780年にかけてこの地域のコーヒー貿易を独占した。


19世紀のジャワのコーヒー生産の推移とさび病問題

19世紀に入りジャワ島でのコーヒー生産は大きく増加し、1830年から1834年にはコーヒーの生産量が26,600トンに達した。その30年後には79,600トンに増加し、1880年から1884年には94,400トンでピークを迎えた。 ブラジルのコーヒー生産が急拡大する1820年代以降、19世紀を通じてほぼ世界第2位の生産量を誇っていた。

1876年以降インドネシアに入ってきたさび病の被害によってインドネシアにおけるアラビカコーヒー栽培は大きく衰退した。その結果、生き残ることができたアラビカコーヒーは、病害の影響がそれほど深刻でない海抜1000メートル以上の高地にあるものだった。低地にある多くのアラビカコーヒー農園は、カカオ、ゴム、ロブスタコーヒー、ココヤシなど、ほかの作物へと転換され始めた。 さび病の被害に対処するため、オランダ政府は1875年にリベリカ種をジャワへ導入した。しかし、リベリカ種もまた葉さび病への耐性がなく、さらに酸味が強すぎる(cf香味に劣る)ため市場ではあまり受け入れられなかった。現在でもリベリカ種の残存株は、ジャンビ(Jambi:スマトラ中部)、中央ジャワ、カリマンタン(ボルネオ島)の一部地域で見ることができる。


20世紀のインドネシアのコーヒー生産(ロブスタの導入)

次いで新たな試みとして、オランダは1900年にカネフォラ種(ロブスタ )を導入した。このロブスタは葉さび病に耐性を有し、生育条件(暑さ、湿気に強い)や管理の負担も軽く、さらに生産性がはるかに高いことが判明。そのためロブスタ種は急速に普及し、特に海抜1000メートル以下の地域でアラビカ種に取って代わるようになり、ジャワ、スマトラ、さらにインドネシア東部の島々(セレベス、カリマンタン等)にまで広がっていった。

1949年のインドネシア独立以降も、小規模農家による従来のコーヒー生産の形態は引き続き成長・発展を続ける一方で、民間農園は中央ジャワ、東ジャワ、およびスマトラの一部にのみ残った。また、国営農園(PTPN)は東ジャワと中央ジャワにのみ残ることとなった。

1950年以降はインドネシアのコーヒー生産量のほぼ90%はロブスタとなっている。一方、アラビカ種の栽培はスマトラ(中部・北部のマンデリン、リントン、アチェの各地域)、セレベス、バリの高地で行われている。アラビカ種は独特のスマトラ式の精製法で出荷され、いずれも市場評価は高い。


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