コラム:ロイズを巡って

提供:コーヒー歴史年表

 17世紀末:「ロイズ」の誕生

 1688年以前に エドワード・ロイド Edward Lloyd がタワー通り Tower St. (「ウィルズ・コーヒーハウス」・「トムズ・コーヒーハウス」のあったコヴェント・ガーデン Cvent Garden の近く)で「ロイズ・コーヒーハウス」を開業。

17世紀中ごろから、富と力を蓄えた商人たちは行きつけのコーヒーハウスがあった。新聞や広告から情報を得て、商取引をする場としてコーヒーハウスを利用した。「ロイズ」でも、開業当初は砂糖・木材などの商品取引や土地建物取引、株の仲介などが中心に行われており、常連客は船員・船主が多かった。

 1691年に店舗を王立取引所 Royal Exchange やイングランド銀行 Bank of England近くのロンバード通り Lombard St.に移転。商人たちは、情報を素早く入手するために、取引所近くの店を多く利用する。このことが移転の理由である。

イギリスの通商活動は17世紀後半から非常に増え急増し、取引は王立取引所だけでは足らず、「ギャラウェイズ・コーヒーハウス」や「ジョナサンズ・コーヒーハウス」などの周辺の多くのコーヒーハウスも取引の場となった。近隣には大型のコーヒーハウスが多数あったが、「ロイズ」の経営は順調であり、このころから海上保険の引き受けが行われている。個人で保険を引き受けるアンダーライターたちは、「ロイズ」で海運や船舶の情報を仕入れて、保険の引き受け手を探すなどの商行為を行っていた。

 1696年に新聞『ロイズ・ニュース』を発行。表裏2ページで週3回発行、翌年の76号まで続く。普通の新聞で外国記事、戦争記事が中心。国内の議会、裁判記事の他、海運・船舶情報も掲載したが、外国為替、株価の報道はなかった。しかし、ここに掲載された海運・船舶情報が船主や貿易商に注目されて、後の海上保険取引の布石となった。


 18世紀前半:海上保険業のセンターへ

 1700年に「ロイズ」で初めて船舶の競売が実施され、この後、船舶、ワインの取引が多くなった。

 1713年にエドワードが死去し、娘婿のニュートンが「ロイズ」を継承し、さらに親族で次々に代替わりをしていくが、「ロイズ」の繫盛は続いた。取引は海運・船舶さらに海上保険が中心になっていった。しかし海上貿易が盛んになるほど、海難事故も増えて海上保険の損害も巨額になった。

 1718年に海上保険の巨額な損害を回避するために、王の特許を得た保険会社が誕生。弱小の保険会社は整理されたが、個人で保険を引き受けるアンダーライターへの規制は対象外であったために、彼らは主に「ロイズ」を拠点に活動をした。また、王の特許を得た保険会社は、営業成績が振るわず重点を生命保険と火災保険に移した。そのために、海上保険の引受人はさらに「ロイズ」に集約した。

 1734年に海運情報誌『ロイズ海運一覧(ロイズ・リスト)』を発行。週1回(1737年からは週2回)の発行で、1771年の3743号にまで続いた。 船舶の入港と出向を港ごとにまとめ、特定海域の天候も掲載した。さらに郵便局と特約を交わし、郵便で送られてくる国内外の船舶情報を、「ロイズ」は通常の配達前に得ていた。後に、「ロイズ・リスト」は最も信頼できる海運情報誌として、イギリスだけでなくヨーロッパ各地で購読された。

 1750年ごろに、「ロイズ」はロンドンの海運情報、海上保険の中心となった。また貿易商や仲介人の商用住所に「ロイズ」が多く使われ、新聞広告にも「ロイズ」が多く見られた。この時期が店として最も繁盛していた。

 1760年に「ロイズ」に集まる個人保険引受人が団体 Society of Register を作り、『船舶要覧 Register of Shipping』を発行。これは、個々の船舶の大きさ、装備、製造年等を一覧表にしたもので、海上保険業務に欠かせない資料である。


 18世紀後半:「新ロイズ」と「ロイズ海上保険組合」の創設

 1768年に雑誌に「ロイズ」における保険賭博を非難する記事が掲載された。

 1769年に保険賭博を嫌う「ロイズ」の常連客(商人、個人保険引受人たち)が資金を集め、教皇の頭小路 Pope’s Head Aller に「ロイズ」のウエィター トーマス・フィールディングを店長として「新ロイズ・コーヒーハウス」を開業。「新ロイズ」では海上保険のみを取り扱かったために、貿易商や保険引受人などの多くの「ロイズ」の常連客が「新ロイズ」に移り、海運情報誌『新ロイズ海運一覧 (新ロイズ・リスト)』が発行された。 この後数年間「ロイズ」と「新ロイズ」の激しいやりとりがあり、『ロイズ・リスト』が両方で発行された。

 1771年に仕事に便利で広い「新ロイズ」の建物取得のために、商人、銀行家、船主、保険引受人たちが基金を出し合い、実質上の「ロイズ海上保険組合」が誕生した。

 1774年に「新ロイズ」が王立取引所の2階に移転。店には2つの部屋があり、一方は組合員専用の仕事部屋、もう一方が一般客用コーヒールームであった。店の登記や公的書類上はコーヒーハウスであったが、運営は保険組合が行なった。フィールディングを店長として雇い実質的経営にあたらせた。

 「新旧ロイズ」の争いは「新ロイズ」の勝利に終わり、コーヒーハウスを舞台にして、常連客の保険引受人たちの保険業務を取り行っていた仕組みが終了した。

 1779年にロイズ保険組合は保険証書の標準様式を定める。手書きから印刷に移行した。この様式は現在も使用されている。

 1785年に「ロイズ(旧ロイズ)」が閉店。

 1786年に「新ロイズ」は店を拡張し、組合員室を2部屋にした。さらに1791年にも再拡張し組合員室が3部屋になった。1793年においてロイズ保険組合の組合員数は数百人となり、社会的地位も向上した。


 19世紀:「ロイズ・コーヒーハウス」の閉幕

 1800年に組合員の資格を、「海上保険引受の明確な目的を待った個人(商人、銀行家、海上保険個人引受人、保険仲介人)」に限定して、ロイズ保険組合の今日の原型が形成された。組合員数は815人である。

 1810年に組合員数は1400人を超えた。1811年には組織の整備が行われ、海運情報の収集はさらに充実した。公共性を重視するし「ロイズ」ではこれらの情報をすべて公開した。

この頃には、コーヒールームは存在していたが、コーヒーハウスではなく、事実上、保険組合の事務所であった。

 1844年にコーヒールームの運営が外部業者に委託され、「ロイズ・コーヒーハウス」の幕を閉じた。  (小村嘉人)

ロイズ・コーヒーハウス
19世紀初頭のロイズ・コーヒーハウス  Wikipedia Lloyd’s Coffee House (英語版) より

  

参照文献:

・小林章夫 『コーヒー・ハウス』 駸々堂 1984年

・岩切正介 『男たちの仕事場 近代ロンドンのコーヒーハウス』法政大学出版局 2009年

・Wikipedia  Lloyd’s Coffee House  (英語版)

・Web      LLOY’S

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