コンテンツにスキップ

「リチャード・スティール」の版間の差分

提供:コーヒー歴史年表
編集の要約なし
編集の要約なし
 
(2人の利用者による、間の7版が非表示)
5行目: 5行目:
[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[タトラー]]』、『[[スペクテイター]]』を創刊した、近代ジャーナリスムの先駆者。オックスフォードのマートン・カレッジで学んだ後に、軍隊(近衛騎兵隊)に入隊。このころから、小説やコメディーを執筆、またホイッグ系クラブの会員でもあった。
[[ジョゼフ・アディソン]]とともに『[[タトラー]]』、『[[スペクテイター]]』を創刊した、近代ジャーナリスムの先駆者。オックスフォードのマートン・カレッジで学んだ後に、軍隊(近衛騎兵隊)に入隊。このころから、小説やコメディーを執筆、またホイッグ系クラブの会員でもあった。


1705年除隊後は、ジャーナリストとしてコーヒーハウスに足繁く通った。ホイッグ系の「チャイルズ」や「セント・ジェイムズ」だけではなく、娯楽に関しては「ホワイツ」、文学は「ウィルズ」、学術は「グリシアン」などで情報を仕入れた。そして1709年に雑誌『タトラー』を発刊。当時のコーヒーハウスの状況をつぶさに描いている。『タトラー』は、1711年まで週3回の発行で、その記事の多くを「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス」で執筆した。1712年にはアディソンとともに日刊誌『スペクテイター』、1713年には新聞『ガーディアンThe Gurdian』(現在の日刊紙『ガーディアン』ではない)を発刊した。
1705年除隊後は、ジャーナリストとしてコーヒーハウスに足繁く通った。ホイッグ系の「チャイルズ」や「セント・ジェイムズ」だけではなく、娯楽に関しては「ホワイツ」、文学は「[[ウイルズ・コーヒーハウス]]」、学術は「[[グリシアン・コーヒーハウス]]」などで情報を仕入れた。そして1709年に雑誌『タトラー』を発刊。当時のコーヒーハウスの状況をつぶさに描いている。『タトラー』は、1711年まで週3回の発行で、その記事の多くを「[[セント・ジェイムズ・コーヒーハウス]]」で執筆した。1712年にはアディソンとともに日刊誌『スペクテイター』、1713年には新聞『ガーディアンThe Gurdian』(現在の日刊紙『ガーディアン』ではない)を発刊した。


以後劇作家としての活動をする一方で、1713年から10年間はホイッグ党の議員として政治にかかわった。                    (小村嘉人)
以後劇作家としての活動をする一方、1713年から10年間はホイッグ党の議員として政治にかかわった。                    (小村嘉人)


'''参照文献'''
'''参照文献'''
18行目: 18行目:


 {{年表}}
 {{年表}}
[[カテゴリ:人物]]
[[カテゴリ:書籍]]

2025年2月25日 (火) 11:55時点における最新版

リチャード・スティール: Richard Steele

1671年頃~1729年 ダブリン(アイルランド)生まれの作家・劇作家・政治家。

ジョゼフ・アディソンとともに『タトラー』、『スペクテイター』を創刊した、近代ジャーナリスムの先駆者。オックスフォードのマートン・カレッジで学んだ後に、軍隊(近衛騎兵隊)に入隊。このころから、小説やコメディーを執筆、またホイッグ系クラブの会員でもあった。

1705年除隊後は、ジャーナリストとしてコーヒーハウスに足繁く通った。ホイッグ系の「チャイルズ」や「セント・ジェイムズ」だけではなく、娯楽に関しては「ホワイツ」、文学は「ウイルズ・コーヒーハウス」、学術は「グリシアン・コーヒーハウス」などで情報を仕入れた。そして1709年に雑誌『タトラー』を発刊。当時のコーヒーハウスの状況をつぶさに描いている。『タトラー』は、1711年まで週3回の発行で、その記事の多くを「セント・ジェイムズ・コーヒーハウス」で執筆した。1712年にはアディソンとともに日刊誌『スペクテイター』、1713年には新聞『ガーディアンThe Gurdian』(現在の日刊紙『ガーディアン』ではない)を発刊した。

以後劇作家としての活動をする一方、1713年から10年間はホイッグ党の議員として政治にかかわった。                    (小村嘉人)

参照文献

・William H. Ukers "ALL ABOUT COFFEE Second Edition" 1935年

・小林章夫 『コーヒー・ハウス』 駸々堂 1984年

・Wikipedia Richard Steele  (英語)

 コーヒー歴史年表に戻る